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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

秋山庄太郎という写真家
 今回は秋山庄太郎さんのことを書きます。戦後の日本の写真界は木村伊兵衛、土門拳と上げていくと次は秋山庄太郎になる。

 3月5日、赤坂プリンスホテルで『秋山庄太郎さんを偲ぶ会』が行われた。参列者は2000人を超えた。3月22日には渋谷の写真学校で『秋山庄太郎校長を送る会が』で行われた。

 秋山さんは1月16日、林忠彦賞の写真審査の会場で倒れられ急逝された。た。この衝撃的とも思える出来事は翌日の新聞朝刊で報じられたし、そのあと、雑誌などにも追悼記事が掲載されていたから秋山さんについてはいろいろなものでお読みになっているだろう。

 82才であった。去年の暮れ写真学校の講師忘年会で言っておられたが、秋山さんはご自分ではもっと長生きをして88才までは生きると思っていた。子供の頃見てもらった易者が将来を予言してくれた。そうしてその予言どおりの人生であった。その易者は秋山さんは長寿で88才までは間違いなく生きるといったそうだ。この話は秋山さんから何度も聞いていたので、私たちも秋山さんはもっと長生きすると思っていた。

 秋山さんは私が講師をしている写真学校の校長先生であった。この写真学校は渋谷の写真学校で通っているが正式名は日本写真芸術専門学校である。1978年に校長になられた。秋山さんと写真学校との関わりについては、あまりご存じないだろうと思われるのでお伝えする。

 秋山さんは写真学校の入学式と卒業式では、学生たちに校長として訓辞を述べられた。この挨拶の言葉は紋切り型の堅苦しいものでなく、壇上で座談をされるような調子の挨拶であったから、緊張している新入生の表情が一度にくずれた。

 『偲ぶ会』でも、どなたかが言われたし、雑誌などの追悼記事にも必ず紹介される「アマチュア恐るべし」という秋山さんの言葉がある。これは秋山さんがいろいろなところで何度も言われているので、いつ言われたのが始めなのかわからなくなっている。

 私が最初に聞いたのは7、8年くらい前になるが、学校の卒業式で学生たちに言われたのが最初だと思う。同じ年の5月に、アマチュア写真団体である全日本写真連盟の理事会で言われたことを覚えている。これは秋山さんの言行に詳しい門下の方に聞いたら、いつから秋山さんが言われたかはっきりするかもしれない。

 「アマチュア恐るべし」という言葉はいろいろ解釈されて使われるようになるが、最初卒業式での訓辞としては、プロを目指している写真学校の学生たちにプロであることの矜持(プライド)も大切だが、アマチュアを馬鹿にしてはいけない。プロは狭い範疇に閉じこもって仕事をしてしまうがアマチュアは自由な発想で写真を撮る。

 卒業式で秋山さんはプロ写真家としての経験を語られた。この話は参列しているわたしたち先生にとっても大変面白く、秋山庄太郎という人間の奥の深さをしる機会でもあった。

 「アマチュア恐るべし」だが、これは、ときにアマチュアが撮った一作品がプロが撮ったものを超えるものも出てくる。こういう意味合いで言われたように思う。この言葉はアマチュア写真家への励ましの言葉にもなっていた。

 学校で直接学生に教える機会は少なかったし、ご自分では名前だけの校長でなどと、謙遜されて言われていたが、間接的に先生方に伝わってくる教育態度、方針には厳しいものがあった。

 秋山さんが亡くなられて副校長であった藤井秀樹氏が校長になられたが、藤井さんが副校長に就かれる前、小久保善吉さんが副校長をしていた。小久保さんは朝日新聞の先輩でスポーツ写真の大家であり、私は大変尊敬している方なのだが、この方が学校の講師に校長である秋山さんの意向を伝える役目をしていられた。

 小久保さんは年齢的には秋山さんより10才ほど上であったが、秋山さんの人柄に惚れ込んで敬愛していた。秋山さんも学校のことに関しては小久保さんを信頼していた。

 小久保さんが元気であったころのことである。学校では一年終了時に選抜展といって、学生の提出した写真を秋山校長に選んでもらい学年末に写真展を開いていた。秋山庄太郎選抜展である。写真を教務課の担当者が秋山スタジオに運んで選抜してもらった。

 そのときはすぐ展示の準備をしなければいけなくて、一年生の担当の先生がたが教室で選抜の結果をまっていた。決まった写真をもって担当者がもどってきた。帰ってきて一番に秋山先生は「学生が花の写真を撮ることに賛成されていないようです」「学生には花など撮らせるな、人間を撮ることを徹底させろ」と言ってました。と言う。

 秋山さんは花の写真を撮っていた。すでに花の会もできていた、学生のなかにはそれを知っていて、花の写真ならば選ばれるのではということを考える者もいた。

 その後、小久保さんが秋山さんにあったら、秋山さんは自分が花の写真を撮り始めたのは50才近くだった。プロを目指すのであれば花を撮っていては技量は磨けない。若い学生の写真の勉強のためには花など撮らせるなと言われたそうである。

 秋山さんは花の会を主宰されていた。会員は1300人と言われた。花の会のメンバーには絶対にこんなことは言われないだろう。こんなことを聞いたらみんなびっくりしてしまう。

 秋山さんは温顔であった。気持ちの上では厳しいところがあらられただろうが、顔に表れることはなかった。追悼会で飾られた秋山さんの写真も穏やかでいい顔の写真であった。掲載した写真はアサヒカメラに載っている写真学校の広告だ。大変に厳しい顔で写っている珍しい写真だ。秋山さんは写真学校の広告塔の役割を買っておられた。

 掲載したもう1枚の花の写真は、赤坂プリンスホテルでの行われた『偲ぶ会』で参列者に配られた秋山さん撮影のバラの写真である。