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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

失敗の話
 2002年新年おめでとうございます。連載1月は新年元旦に失敗した話である。

 昭和30年代はじめのことだ。週刊朝日がその年の新年発行最初の号で富士山頂の新年の写真と記事を無線電送して掲載する企画を立てた。

 2002年の現時点で考えてみると、ケイタイはほとんど誰もが持っている時代だ。写真だってメールでいくらでも送れるのだから、そんなつまらない企画で雑誌の売り物になるのかと不思議に思うだろう。しかし45年前にはこれが編集長の大英断による企画であった。

 週刊朝日編集部のデスクと記者、写真部もデスクと部員の合計4人、写真部員として私が行くことになった。3700メートルの山頂から電送がうまくできるかどうかわからないので、無線電送をするために専門の通信部員が一人が一緒に行くことになったから合計5人だ。

 冬山ということでガイドさんを一人と、いつも富士山測候所に物資を上げているボッカを二人依頼した。朝日のメンバーの中では冬山登山経験者は私だけだった。12月の28日に御殿場口から登り始めた。

 暴風のような季節風にあって、直径30センチくらいの石がごろごろと飛んでくる。登り初めて半日も経たなかったが避難小屋に入って二日間動けなかった。私はそれまでに夏の富士山には吉田口から二回、御殿場口から一回登っていたが、荒れた冬の富士の登山の怖さをはじめて目にした。

 翌日、風が弱くなって早朝から登り始めたが、また強風で八合目の小屋でストップしてしまった。翌日も風が強かったが、新年までもう時間がないということで、無理して登った。寒さが厳しく、やっとの思いで観測所の小屋についた。

 翌31日、気温はマイナス25度、風が強かった。朝早く目が覚めたが高山病だろう頭痛で頭がきりきりと痛んだ。夏の富士山頂では頭が痛くなったことなどなかったので、測候所の人に聞くと、気温が低いと高山病の兆候が現れます。これは慣れても駄目。測候所の職員だって今日は頭が痛くて寝ていますよ。といわれた。

 頭が痛くても、元旦の撮影のためテスト撮影をすることと、現像引き伸ばしの用意をしなければいけなかった。

 カメラの低温対策は社にいつも出入りしている修理業者と、日本光学に頼んで低温でも動くように油ぬきをしてもらって、どちらも零下二〇度までなら大丈夫ですと言われていた。持っていった大型カメラはスピグラ、小型カメラはニコンSを持っていっていた。

 午後になって撮影を始めた。測候所の人は気温マイナス18度、頂上の風速10メートルだという。マイナス18度なら大丈夫だろうと、突風で吹き飛ばされそうになりながら撮影を始めてみると、カメラはすぐシャッターが切れなくなってしまう。

 これには慌ててしまった。測候所の建物に入って、少し温度が上がると動くのだが、外に持ち出すと1分ほどで動かなくなる。何回もテストをした結果、スピグラを大きなヤッケに包んで持ち出し、撮影直前に取り出すと1枚だけは確実にシャッターが動くことがわかった。

 あの時代、今のように、ふわふわの羽毛入りナイロン製のキルテングコートなどはなかった。毛糸のシャツを2枚着こんで、ごつい木綿製のヤッケをかぶる以外に寒さをしのぐ方法はなかった。カメラも動かなくなったが人間も寒かった。

 小型カメラのニコンSは着ているヤッケの下にしまい込み、体温で暖め撮影するときだけ取り出してつかった。これも1,2枚シャッターを切るとフィルムの捲き上げが動かなくなった。フィルムが低温でカチカチになり、パーフォレーションのところが破れて捲き上げが出来なくなってしまうのだ。

 元旦、早朝から写真部デスクのMさんと日の出前から写真を撮り始めた。気温はマイナス15度風速10メートルから15メートル。スピグラで1枚撮っては測候所の建物に戻った。初日の出も撮った。きれいだった。

 夜が完全に明けて青空が上空を覆った。測候所の方に向かってくるお鉢周りの登山者を撮った。戻ろうとしたとき米軍のジェット戦闘機が2機、頂上に向かって飛んでくるのが見えた。スピグラは取り終わったところだったから、あわてて懐に入れてあったニコンSを取り出してシャッターを切った。

 頼りない感触の音がした。シャッターが正常に切れた音ではない。ジェット機は富士山山頂を旋回している。パイロットの顔が見える。超接近だ猛烈な爆音がする。しかしカメラのシャッターは落ちない。

 こんな悔しい思いをしたことはなかった。週刊朝日のプランにとって、こんなハプニングが撮影できれば、新年の富士山頂ルポとしては申し分がない。それが撮影出来なかった。

 あのジェット機の旋回する情景は今でもはっきりと思い出す。写真が撮れなかった残念さは死ぬまで脳裏に焼き付いたまま残るだろう。

 カメラはマイナス30度でもきちんと手当をすれば大丈夫と言うが、これは無風状態でのことだ。風が吹くと2,3メートルの風でも、隙間から心臓部に冷たさが入ってカメラは動かなくなってしまう。

 あの失敗は準備の不足が原因である。北大の低温実験室でカメラの耐寒テストをやってもらった。風がなければ確かにマイナス30度でもカメラは動く。しかしマイナス5度でも風速7.8メートルでカメラはすぐ機能しなくという結果がでた。

 マイナス20度までは動きますよという言葉を単純に信じ込んでしまっていた。あのころのカメラは隙間だらけだった。わずかに風が吹くことで内部まで低温が浸透してカメラは動かなくなる。

 低温でカメラを動かすためには、それに対応出来るように準備をしておけばよいのだ、カメラに簡単な防寒用のケースを着せるだけで風はかなり防げる。富士山の失敗があってからのち、寒い場所での取材には十分用意をするようになった。

 カメラの防寒用にいろいろなケースを作った。スキー取材のために防寒ケースのなかに白金懐炉を入れることもやってみた。電池による発熱ケースも作った。完璧というものはできなかったが、そのあとマイナス20度風速10メートルくらいならば、心配することなく写真が撮れるようになった。

 この失敗だけが理由ではないが、この失敗の後、撮影に関しても、対象についての情報についても、可能な限りの準備をするようにしている。準備はしすぎるて困るということはない。