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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ニコンFとキヤノンフレックス 一眼レフカメラ
 昭和30年代ペンタ式一眼レフカメラの時代が始まったのだが、ニコンFとほぼ同時に発売されたキヤノン一の眼レフのことがあまり取り上げられないのは何故だろうか。あの時代、プロの写真家はニコンF、アマチュアカメラマンはペンタックスみたいな棲み分けが自然にできつつあった。

 ライカ、コンタックスからはじまったレンジファインダー方式の35ミリ小型カメラの愛好家は、ニコン党とキヤノン派に分かれていた。始めはそれほどの理由も無かったのだが、どちらもたまたま最初に自分が使用したカメラのほうがいいと思いこんでいるところがある。これはPCで熱烈なマック愛好家とウインドーズ使用者がいるのとおなじようなものであった。ところが一眼レフ時代がやってくると、急激にキヤノンの旗色が悪くなってしまった。

 一眼レフの発売の時期は正式にはニコンFは昭和34年6月で、キヤノンのペンタ一眼レフは同じ34年の4月と言うことになっている。キヤノンのほうが早かったのだが、実際にはキヤノン一眼レフはその年、あまり眼につかなかった。

 キヤノンでもニコンでも、新製品は発売前にテスト製品が持ち込まれるのが普通であったから、キヤノンフレックスの場合も当然テスト機が、34年の発売前に私のいた朝日出版写真部に持ち込まれている。しかしこの一眼レフカメラについての記憶がうすい。

 わずかに覚えているのはフイルムの巻き上げがカメラ底部のトリガーレバーで行われるようになっていたこと、三脚につけるとフィルムの巻き上げのときレバーが邪魔になって使いにくかったこと、そうしてだれかがテストをしているうちにミラーの上げ下げに故障が起きたりシャッターが具合が悪かったりした。私自身はキヤノンフレックスに手は触れたが、テスト撮影をした記憶はない。私がキヤノンの一眼レフを買ったのはそれから20年経って発売されたF1になってからである。

 レンジファインダーカメラに関してはニコンのS2もつかっていたが、私はどちらかと言えばキヤノン党であった。理由はいろいろあったが、小型カメラは始めにライカの3Dを使い始めたのでレンズのマウントがおなじキヤノンを使うのが便利であったと言うのが多分最大の理由だったと思う。マウントが同じだけでなく焦点を合わせるためのヘリコイドの回転が同じであった。

 このごろのカメラのようにオート・フォーカスで撮影するのならどうでも良いことだが、ヘリコイドの回転が反対ではマニュアル・フォーカスでは素早く焦点を合わせることが出来ない。ライカのレンズについていたフォーカス・レバーでピント合わせをし、これで写真を撮り慣れてしまうと他の方式での焦点合わせはかなり辛くなってしまう。

 キヤノンはIVsbからIVTまでずいぶん長くつかっていたのも、そんな理由からであった。キヤノンのレンジファインダーカメラは何台も購入していたから、キヤノンの技術の人や販売の担当者ともずいぶん親しかった。キヤノンが一眼レフを作ったなら当然キヤノンFを使ったはずなのにキヤノンフレックスを使わなかったのは、今になって考えてみると理由がはっきりしない。

 発売されたカメラの正式名もしっかり覚えていないのほど、最初のキヤノンフレックスが私たちの眼に触れなかったのは、ニコンFが発売されたあとも不具合を調整しているからなどの理由で、実際に製品が持ち込まれるのが遅れたからだと思う。

 もう一つはキヤノンがそれまで熱心であったプロ写真家に向いていた営業政策を、その時期方向転換して、アマチュアを対象にするように方針を変更した時期とかさなってしまったからかも知れない。

 発売から3ヶ月も経たないうちに、キヤノンフレックスの1型機は発売中止になってしまった。そのあと1年以上たって私たちはキヤノン一眼レフカメラの2号機であるR2000と、キヤノンフレックスRPを手にすることになる。これは同時発売であった。

 R2000は1型機と外観はあまり変わらなかった。シャッターダイアルの前の部分にR2000のロゴが入っているくらいの違いだったとおもう。R2000の名称は2000分の1のシャッターがついたことによる。

 RPは1000分の1秒が最高速シャッターであったことと、ペンタプリズム部分が固定されているなどR2000の普及機として作られていた。いずれも高性能を売り物にしたのだ、何とも使いにくいところが多く、あまり評判が良くなかった。この二つのカメラが発売されたときには、すでにニコンFが新聞社を始めプロのカメラマンの一眼レフカメラへの欲求を十分に満たしていた。

 そのあとニコンFがプロカメラマンの支持をうけて、一眼レフ市場を独占したのはキヤノンの最初のつまずきが原因だったと思うし。キヤノンという会社がプロ向けの機材を作ることよりもアマチュア向けカメラを目指してプロの写真家、カメラマンをあまり大切にしなくなっていったことが最大原因であったと思う。R2000とキヤノンフレックスRPは2年ほどでこれも姿を消してしまった。

ニコンがFからはじまって現在のF5にいたるまで、35ミリ一眼レフカメラのナンバー1の位置をまもっているのは、なんと言っても1号機であるニコンFの性能が画期的に優れていたからだ。

 ニコンFには、オートフォーカス機構もオート露出機構もついていない。昭和38年トプコンがTTL露出計のついた一眼レフカメラを発売する。そのあとペンタックスSPも露出計を組み込む。キヤノンペリックスも露出計を内蔵する。このときもニコンはペンタプリズム部分に露出計をいれたフォトミック発売しただけでペンタプリズム部分以外は形も性能も変わらなかった。ニコンを使用しているカメラマンの大部分が変えることを要求しなかった。

 それはカメラの基本性能が始めから優れていたからだ。たとえばファインダーの視野率を見てもこれが100パーセントというカメラはなかった。100パーセントの視野率のファインダーは大型カメラでピントグラスを覗くという方法をとる以外はほかになかった。レンズが結ぶ画像がそのまま見えるカメラは二眼レフカメラなど合ったが左右逆像で正像ではなかった。

 またニコンFになって、それまでの小型レンジファインダーカメラでは何となく危なくて使えなかった1000分の1のシャッタースピードが、なんの心配もなく使えるようになった。

 カタログ上だけの性能ならば、シャッタースピードでもそうだが、どのメーカーのカメラ同じようなもので、それほどに思わないがその性能に加えて、耐久力の優れていたことがこのカメラの特徴であった。