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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ニコンF1・続き
 今の天皇さんと美智子皇后が皇太子、皇太子妃時代にメキシコへ親善ご訪問の旅行に出かけられた。昭和39年・1964年のことである。この取材に出かけたとき、カメラを盗られてしまった。
 お二人がメキシコにご到着される1週間ほど前に現地に先行した、アサヒグラフがご訪問報道にあわせてメキシコ各地の紹介をかねて増刊号を出すことになった、その取材のためである。当時は皇太子妃美智子さんの人気が高く、美智子さん関連の報道は芸能・女性週刊誌だけでなく一般の雑誌でも競って特集や増刊号を出す時代であった。

 このときの親善旅行は何故か申し合わせたように新聞各紙は同行カメラマンを派遣しないことになった。そうすると雑誌の取材のために特派されたと言っても新聞報道用の写真も送稿しなければいけない。このことを取材がきまったときに申しわたされた。雑誌の取材だけならば撮影したフィルムにキャプションをつけて航空貨物に積み込んでしまえばその日の仕事はすむのだが、新聞原稿は電送をしなければならない。取材よりもそのほうが大変だ。はじめは写真電送機をもっていく予定で準備をはじめたが、一日に送る写真の枚数が2、3枚程度でよく、時差の関係で締め切りまでに時間的に余裕があることがわかり、結局AP通信に写真を持ち込んで電送してもらうことで間にあうことになった。

 現地に着いてAP支局で交渉するうちに、フィルムの現像は1本程度、引き伸ばし処理は電送する写真の枚数分は引き受けてくれると言うことになった。そうなるとどうしてもフィルムの現像だけは自分で処理する必要がある。取材の時間と現像処理の時間をやりくりしてみると、どこかラボに持ち込んで現像してもらうことが最前の方法のだということがわかってきた。

 アルバイトのお使いさんにフィルム持って走ってもらい、どこか適当なラボか写真屋さんに特約で現像を引き受けてもらう。現像のできあがったフィルムをAPまで運んでもらい、選んだ写真を伸ばしてもらい電送をする。この方法が一番速い。

 と言うことになって、アサヒグラフ記者のIさんと、お医者さんの卵で日系3世の大学生のアルバイト君の3人で、現地を撮影取材しながら合間に写真屋さんを探して歩いた。メキシコシティの下町に日系人で写真屋さんをやっている人がいると聞いて、その店を訪ねた。現像を頼むにしてもテスト現像をしてみなければいけない。

 そのときはそのテストフィルムを受け取りに行った。Iさんと3世アルバイト君は車から降りて店の前に停めた車に寄りかかって話をしていた。写真店に入って現像の出来上がりを見た。現像の調子は上々である。写真店の日系のおじさんも、皇太子さんがメキシコ滞在の間はほかの仕事を断って引き受けてくれると言ってくれた。私はここからならばAP支局も近いし、この写真店に依頼することを決めた。あとは皇太子ご夫妻の到着後のスケジュールに合わせて、フィルムを持ち込む時間などを改めて相談することにして店を出た。

 車にもどって助手席に座ってカメラがないのに気がついた。座席の上では目について危ないと思って座席の下のフロアーにわざわざ置いたカメラ、ニコンFが2台とも無いのだ。車の横にいた二人も知らないという。信じられなかった。二人は車からはなれたわけではない。車に寄りかかって雑談していたのだ。
 3世君が子供だ!と言った。車の下に潜り込んで、待っていた二人とは反対側のドアをわずかにあけ、下から車の床に置いてあるカメラまで手を伸ばしたとしか考えられない。見事にやられました。

 当然のことだが盗まれたカメラは出てこない。メキシコでは警察に届けても無駄だということは聞いていた。何故こんな昔のことを書いたかと言うと、盗られたカメラがニコンF2台であったことを思い出したからである。

 メキシコの取材では、モノクロ取材用にカメラはニコンS型1台、これには35ミリレンズをつけていた。それとニコンF2台、1台には105ミリレンズ、もう1台には200ミリレンズをつけていた。べつにカラー取材用にブロニカ、ボディ3台とレンズは50ミリから300ミリまで数本持っていった。何故カラーが中判のブローニーフィルムであったのか、これはまだカラーは大判フィルムでという印刷の要望が強かったからだったと思う。

 35ミリカメラだが、ニコンFが出て4年ほどたっていた。新聞社の取材用カメラが大判4×5カメラから35ミリカメラに変わりかけていた時代である。毎日新聞写真部が一番始めにスピグラからニコンFに換えた。朝日新聞写真部が東京オリンピックに備えて35ミリカメラに半分換わりかけていた。

 私のいた朝日出版写真部は報道取材では、それより10年以上前から35ミリカメラがメインであったが、ニコンFが発売されてからは標準レンズ以下の焦点距離のレンズはライカ、ニコンS、キャノンをつかい。長い焦点距離のレンズはニコンFにつけて使うのが通常のスタイルであった。事件取材でも35ミリ広角つきのレンジファインダーカメラと105ミリ望遠つきニコンFをメインにするのがほとんど定番のようになっていた。

 これからメキシコご訪問のメインの取材の本番がはじまるというのに、主力のニコンF2台がないというのには困った。どこかで借りられないか、当時は一眼レフカメラを持っている人はほとんどいなかった。東京に電話をいれたらすぐ手配をして届けるという、しかし送る手段がない。結局、JALの皇太子美智子さんのご搭乗特別機が一番速いということで、機長に託して届くことになった。

 しかし、それではメキシコご到着の空港行事をはじめ到着当日の取材ができない。急遽、取材撮影をブロニカ3台でやることに切り替えた。何故3台もブロニカのボディを持っていったかというと、ブロニカのシャッターがこわれることを見越してのことだった。メキシコでは不思議なことに1回も故障をおこさなかった。

 取材はブロニカ1台をモノクロ専用にした。これとニコンSがモノクロである。ブロニカ2台はカラー専用にした。いま考えてみると不思議なのはブロニカ用のモノクロ120フィルム(ブローニーフィルム)を現地で買った覚えがないことだ。ブロニカはカラー用に持っていったのだからモノクロフィルムを用意していくはずがない。あるいはそんな予感がしてモノクロも東京から用意していったのかも知れない。

 いずれにしてもあのときのカメラが無くなって困ったなと言う思い、悲壮感にも似た感じは考えてみるとニコンFがもう完全に撮影の主力カメラになっていたらだと思う。