TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ゼンザブロニカ
 昭和30年代はじめ日本光学に延田さんと言う技術者がいた。まだニコンFは出ていない時代であった。ニコンS用のレンズ、ニッコール180ミリF2.5が発売されていた。これをレフボックスでS型カメラにつけてつかっていたが、どうも具合が悪い。この苦情を日本光学の営業の人に言ったら、技術の人をつれてきますからということで、苦情や注文を聞きにきたのが延田さんだった。延田さんは設計の人で、素人のカメラマンのとんでもない質問や思いつきをよく聞いてくれた。そしてこちらの理解できないことをじつにわかりやすく説明してくれた。私が会ったのはそれがはじめてであったが、そのあとも社に見えられて、まだ市販されていない新しいレンズや機材をみせてくれたのも延田さんだったと思う。日本光学がニコンFを発売するプランを何時から持っていたのかわからないが、私たちがニコンの望遠レンズをミランダにつけて使いはじめ、この評判がよいことは延田さんも見ていたし、この情報が日本光学に一眼レフF型カメラを決断させ、発売の時期を早めたに違いないと今でも思っている。

 延田さんが日本光学を止めて新しいカメラ会社に移ったことを聞いたのは昭和33年だったと思う。ニコンFが発売になる1年以上前だった。そのカメラ会社がどんなカメラを造ろうとしているのか何も聞かなかった。ある日、これは休みの日だったが、夜になって突然自宅に延田さんがやってきて、試作の新しいカメラをもってきて感想を聞かせて欲しいと言った。そのカメラがブロニカであった。試作カメラにはニッコール75ミリのレンズがついていた、延田さんがブロニカにいったからニッコールレンズがついたのか、日本光学がこのレンズのために延田さんをブロニカに派遣したのか、そのとき延田さんに聞いたと思うのだが延田さんははっきり言わなかった。

 ゼンザブロニカは外観のきれいなカメラだった。リトレックスやフジタ66などの中判一眼レフカメラ、マミヤCなどの二眼レフカメラと比べてみると材質も工作の精度も段違いによく見えた。裸の金属部分のステンレススチールが美しく光り、革張り部分が黒ではなくグレーというのも斬新だった。とにかくデザインの美しさが目についた。そのことを延田さんに言うと、新しいカメラ会社がご婦人用のコンパクトを造っている会社であること、ゼンザの名前が社長の吉野善三郎からきていること、社長がカメラマニアで自分の理想のカメラを造りたい念願からこのカメラが計画されたことなどを話された。一流のカメラをつくるように言われているのでレンズはニッコールレンズをつけますということだった。

 それからしばらくして、ゼンザブロニカが社に届けられた。前回はカメラにさわってシャッターを20回ほど押してみただけなので性能はわからない。こちらの希望を聞いてくれて、75ミリの標準レンズだけでなく、135ミリレンズも一緒に届いた。ブロニカは機能的には、ハッセルブラードの基本的性能をモデルにして造られたカメラだから、カタログ上の性能では文句のつけようがなかった。

 テストをはじめた。まずファインダーだ、ファインダーフードのあけ具合もなかなか良い。一眼レフと言ってもペンタプリズムはついていない、上からピントグラスをのぞき込む方式の一眼レフである。ピントグラスにフレネルグラスがついているので明るくて見やすい。シャッター音の大きいのが気になるがショックはそれほどない。まずモノクロフィルムでテスト撮影をする。75ミリレンズはF2.8だ。このレンズは開放でもかなりのピントだった。使いたいと思っているのは135ミリレンズだ。F3.5のこのレンズをつけての手に収まり具合がよかった。全体のバランスは135ミリレンズをつけたときの方が良い。社内のアルバイトのお嬢さんたちをモデルにモノクロとカラーを撮影した。このレンズも使いやすいレンズだった。考えてみると中判サイズのカメラでそれまで、長い焦点距離のレンズをこんな形でつかえるカメラがなかった。なんと言ってもファインダーのパララックスを心配しないで撮れるカメラがそれまでなかった。テストの結果は上々である。ピントも良かった。カラーフィルムではレンズコーティングの影響か、ニッコールレンズ共通の少しアンバーがかった色合いになるが、まず問題はなかった。シャッターの精度も良いし、ボタンを押す感じも重くなく具合が良かった。

 これがブロニカとの長いつきあいのはじまりだった。ハッセルブラードはまだそれほど評判にはなっていなかった。ブロニカができる前のことだがハッセルブラードを使ったらどうかと言う話が出てテスト撮影をしたことがあった。フォーカルプレーンシャッターがついていた初期のハッセルで、これはたしか1000Fという名称だったと思う。これをつかっていた友人がいて、聞いてみるとシャッターがこわれやすくあまり具合が良くないと言う。そんな先入感もあったし、それよりも価格が高くて手がでなかったことが第一の理由だったのだろう。だれもハッセルを使いたいと強くは主張しなかった。ハッセルブラードが騒がれだしたのは、レンズシャッターに変わってからだった。

 ブロニカの評判は良かった。それまでの中判カメラがもっていない機能があった。
 ブロニカはこちらの注文もよく聞いてくれた。アイレベルのファインダーが出来ないかと言う希望にこたえてファインダーフードの上にネジでとりつけるペンタプリズムファインダーを造ってくれた。このファインダーでこのカメラの用途が一変した。中判一眼レフカメラが小型35ミリカメラと同じように使われるようになった。ところがこれが引き金になってシャッターの故障が目立つようになってきたのだ。ファインダーを上からのぞいてポートレートを撮影するだけだったら、フィルムの巻き上げをそれほど急いでやることはない。しかしスナップ撮影や事件の取材などでは巻き上げに急激な力を加えることはよくあることだ。一番目立ったのは航空撮影にブロニカがつかわれるようになってからだった。急いで巻き上げるとシャッターが壊れる事故が多くなってきた。ブロニカはペンタプリズムファインダーをつけることで機能的には進歩したが、そのためにシャッター故障という重荷を負うことになったと言える。
 それに加えて寒い時期になるとフィルムの巻き上げが具合が悪くなった。フィルムが平行に巻かれないでタケノコ状になってしまう。ブロニカもハッセルと同様フォーカルプレーンシャッターが事故の原因になったと思う。

 昭和40年代はじめ、オーストラリアとニュージーランドに撮影にでかけた。このときの目的は一つは航空撮影であった。当時、朝日出版写真部の航空撮影の主力カメラはブロニカであった。故障が多い巻き上げレバーを改良して、連動するギアを大きくしたりいろいろと手を尽くしてもらうのだが、やはり急激な巻き上げには弱かった。海外取材にでかける前にブロニカの人たちと相談して新しいカメラ4台を用意してもらった。ヘリコプターや小型セスナ機での撮影が連日つづいた。壊れないようにフィルムの巻き上げは注意をした。しかし2ヶ月の取材旅行を終わって帰るとき4台のゼンザブロニカは全部シャッターが壊れて使えなくなっていた。