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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

二眼レフカメラ マミヤフレックスC
 国産二眼レフカメラの大流行はなんだったのかと今になって思う。昭和25年ころから、昭和30年代のなかばまでの間に150種以上の二眼レフカメラが発売された。ブームに火をつけたのはリコーフレックスだった。カメラフアンは戦争前から発売されていた6x6判の二眼レフカメラを使ってみたいと、みんな思っていた。戦争が終わり、満足に飯もろくに食えない飢えの時代から抜けだして、すこし余裕ができて写真に眼がむきはじめたとき二眼レフがあった。ローライの名声は聞いていたがそこまでは手が出ない。リコーフレックスも売れたけれど、カメラフアンというのはどうしても人が持っているものよりも少しでも良いもの、高価なものが欲しくなる。ローライコードそっくりの国産カメラがこの要求をみたしてくれた。だから高価な二眼レフも売れのだ。でもどうしてあんなにローライコードそっくりのカメラばかりだったのだろう。ローライのイミテーションカメラは国内だけでなくアメリカやヨーロッパに輸出された、そしてデザイン盗用とさわがれ貿易摩擦が起きる。あのころのカメラは本当にみんな同じ格好をしていた。みんながあの形のカメラを欲しがっていたからと言えばそれまでだが、今になって考えてみるとメーカーによってもう少しスタイル・デザインが変わってもよかったと思う。でもその当時はあまり不思議に思わなかった。

 昭和35年までが二眼レフカメラの黄金時代だと言われているけれど、ほんとうのブームは30年までだったと思う。仕事では二眼レフカメラをつかうことはほとんどなかった。新聞社のカメラマンはスピグラ一辺倒、私たちのように雑誌の仕事をするカメラマンはスピグラと35ミリカメラの両方をつかった。ニュースの現場に集まってくるカメラマンのなかに、ローライをつかっている人たちがいた、これは外国の通信社の仕事をする人たちであった。1964年(昭和39年)私が皇太子・美智子さんの外国訪問でアメリカ、メキシコへ取材に行ったときアメリカの取材カメラマンが申し合わせたようにローライをつかっていた。日本ではアマチュア写真家は二眼レフカメラをもっている人が多かったけれど、使いこなせた人は少なかったのでないかと思う。自分があまり上手につかえなかったことからの独断と偏見かも知れないが、自分の周囲のアマチュア写真家を見回しても、うまくつかっている人は少なかったように思う。ところが仕事で6x6判のカメラを実際につかう必要がでてきた。

 私が朝日に入社したころから、雑誌にカラーページが掲載されるようになってきた。はじめのころはせいぜい2ページ程度試験的にやってみているようなものだったが、読者のカラーへの期待が大きくなりカラーページは、あっと言う間に広がっていった。カラー写真の需要が増えていくのはいいのだが、いろいろな制約があってカメラマンを悩ますことになる。カラー印刷のためには製版の都合で35ミリフィルムは駄目、フィルムのサイズはできるだけ大きいものを使って欲しいという。つまり当時のカラー印刷製版が35ミリフィルムに対応していなかったのだ。カラーは大判サイズのフィルムが常識であったのだ。雑誌の見開きページなどは4x5判で撮影しなければいけなかったし、週刊誌の表紙などは最低でも6x6判で撮らなければ印刷ができなかった。この印刷からの要望は東京オリンピック間近までつづいた。大判サイズのカラーはスピグラをつかったのだが、中判サイズのカメラに適当なものがなかった。すでにハッセルブラッドがあったのだが、あまりつかわれていなかったのだろう。このカメラの評判を聞くことがあったが、価格が高く手に届かないものという思いこみがあってつかって見ようとは思っても見なかった。

 中判カメラに適当なものがないと悩んでいるときにマミヤフレックスC型があらわれた。レンズ交換のできる二眼レフカメラである。マミヤから発売前の製品が私たちの出版写真部に持ち込まれた。スマートさに欠けていて、誰もはじめは関心を示さなかったのだが、交換レンズの135ミリに魅力を感じて試用をはじめた。ちょうどカラーで女性を撮る仕事があった。いきなり仕事でつかうのにはためらいがあって他の二眼レフカメラで1、2本撮影したあとマミヤCを使って撮った。そのときは135ミリをつけて撮影したのだが、現像をしてみると、まずカラーの発色が素晴らしいのに驚かされる。いわゆる抜けが良いという表現にぴったりだった。そして長焦点レンズで撮る描写の素直さが気に入った。

 135ミリレンズをつけたテレローライフレックスが発売になるのは昭和35年だから、長焦点レンズをつけた二眼レフはマミヤCのほうが3年ほど早い。はじめのうち機構的にぎごちないところもあったが、このカメラは国産の中判一眼レフカメラが出てきて実用になるまでよくつかった。
 レンズ交換でファインダーレンズと撮影レンズの取り付けられているボードを、まるごと換えてしまうと言う発想は、でき上がったものを見ればなるほどと思い大したアイデアとは思われないが、これを考え作り出すと言うことはやはりなかなかのものであった。

 135ミリレンズつきのマミヤCをつかってわかったことは、6x6判に75ミリレンズという組み合わせがいかに中途半端でつかいにくい画角のレンズであるかということだった。標準レンズの画角より広角だがこの広角の度合いが半端で、これがいままで二眼レフカメラを使いこなせなかった理由だと改めて感じさせられた。マミヤCには交換レンズで135ミリのほかに80ミリと55ミリ広角レンズがあったが、広角レンズのほうはどうも使いにくかった。いまでは135ミリレンズで撮った写真しか思い出さない。
 135ミリだがこのレンズをつけて撮影して具合が悪いのはバララックスの問題であった。ファインダーに見えるまま撮ると頭が切れてしまう。バララックスの補正のマークはついているのだが、これをつかって超アップで人物を撮ろうとすると顔の下半分が見えないままにシャッターを押さなければならなかった。この点だけでもレンズの交換ができるマミヤCても、二眼レフカメラは一眼レフカメラに比べるとやはり不完全カメラと言わざるをえなかった。

 マミヤCをつかったのは何年間くらいだったろうか、私が使った中判カメラも35ミリカメラと同じように、やがてハッセルブラッドやゼンザブロニカなど一眼レフカメラの時代に変わっていくことになる。でもマミヤC型の愛好者は多く、しかも熱心な支持者たちがいた。このカメラは二眼レフ時代が終わったあとも続けて発売されていて、マミヤのカタログから姿を消したのは1995年、つい3年ほど前だ。驚くべき長寿命のカメラであった。