バルダックスには75mm f4.5のレンズがついていた。このレンズは開放で撮ると、もやもやでボケボケの写真しか写らなかったが、絞りをf8かf11まで絞ると、まあまあのピントになった。いつも現像をたのみにいったDP屋の親父さんにそのことを言うと、そんなことも知らないのか、レンズは二段(二絞り)くらいは絞ってつかうのが常識だと笑われた。距離計はついていないからピントを合わせるのが難しかった。正確に焦点を合わせるのには、巻き尺をつかって撮影する相手の鼻のところからカメラまでの距離を正確に計るのが最良の方法と雑誌に書いてあるのを見て、実行してみたがこれでもレンズ開放ではフレヤーがひどく全体がぼーっとしていた。
写真をやっていた友人にDP屋の親父に笑われたことを話すと、バルダックスはトリプレットタイプつまり4枚構成のレンズであまり性能がよろしくない。セミ判カメラなら、せめてセミイコンタようにテッサータイプの4枚構成レンズが着いていないと開放で撮るのは無理だなどと、知ったかぶりのレンズ知識を吹き込まれた。
以前、明治時代後半に刊行された和綴じの写真撮影法の本を見たことがある。明治22年に日本ではじめての写真雑誌が刊行され、明治26年には最初の懸賞写真が募集されているくらいだから、この時代に入門解説書が発売されるているのは当然のことであろう。木版刷りのこの本には、レンズは開放では、あまりピントが良くないので鮮明な描写を得るためにレンズの中心部を使って撮影するように書いてある。絞りはレンズをとおしてカメラに入ってくる光の量を調節することが役目なのだが、それよりはレンズの鮮鋭度をよくするために絞ってつかうのが目的で絞りがついているような書き方なのだ。
はじめ、カメラには絞り機構はついていなかった。レンズは開放でつかうものだった。銀板写真から湿版写真そして乾板写真へと感光材料が変わっていくうちに感度が良くなってシャッターが必要になる。光量の調節はシャッタースピードをかえることで行うようになる。絞りは光量の加減にはつかわれていなかった。やがて口径の大きな明いレンズができる。そして絞りがつけられる。明るいレンズはフォーカス・ボード(ピントグラス)をのぞいての焦点合わせをやりやすくするために必要だったのだ。ピントを合わせて絞ってから撮影する。レンズ開放ではひずみや収差があって画像の精度が悪かった。絞りは明るいレンズを中心部で使いピントの精度をあげるために必要な道具としてつかわれた。
明治時代、写真師と言われるプロの人たちも、アマチュア写真家たちも、はじめからレンズを絞っていくとピントが合ったように見える範囲が広がる被写界深度のことがわかっていて撮影したのだろうか。光量を調節するためか、レンズの中心部をつかうためか、とにかく絞りをつかって撮影していうるうちにこれを発見したのにちがいない。もちろんレンズの設計者やレンズを製造していた人たちは、そのことは知っていただろうし、写真師たちは同じ焦点距離のレンズでは口径が小さい暗いレンズのほうが焦点の深度が深いことは知っていただろう。しかし一本のレンズの絞りをかえて撮影しているうちに被写界深度を発見していったと考えるほうが自然だし面白い。
さてバルダックスだが、一家の記念写真を撮影したあと叔父のところに返しに行くとフィルムがあるのなら、しばらく貸しておいてあげるよと言う。これをいいことにして、香港ほどではないけれど10年近くこのカメラは借りっぱなしになった。どうしようもないようながたがたカメラだったけれど、このカメラで写真を撮ったのが写真をやるきっかけになったのだから、今になってみるとありがたくて懐かしい。
バルダックスが写真の基礎を教えてくれたようなものだ。入手しにくかったフィルムも、昭和23年ころには値段は高かったが楽に買えるようになる。精をだして写真を撮っていたが絞りの効果などはまったく知らないでいた。レンズを開放で使わないのは、開放ではピントが合わなかったからで、被写界深度のことをはっきり知るのは、昭和29年朝日新聞社に入ってからのことだ。