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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

一眼レフ時代の始まり『ミランダ』
 オリンパスのデジタルカメラC-800Lカメデアを使っている。パーソナルユース(低価格帯)のデジタルカメラでは傑出した解像力である。このカメラを買った理由は、オリンパスが宜伝をしている81万画素という性能もあるが、これまでのカメラ、つまり銀塩フィルムを使用するカメラのスタイル、大きさ、手触りに一番近かったからだ。デジタルカメラはフィルムではなく、CCDをつかうのだから今までのカメラとスタイルが変わるのは当然のことなのだが、作るほうも使うほうも、いままでのカメラに近いスタイルのほうが安心感のようなものがあるようだ。あたらしい内容から考えて見ると、フィルムを送る必要がないのだからキヤノンのパワーショット600とか、ソニーのサイバーショットDSC-F1、ニコンクールピクス100のようなスタイルのほうがよいのかも知れない。しかし実際につかうとなると違和感のようなものを感じて、できるだけ今までのコンパクトカメラなどの形に近いものを選んでしまう。
 いまから40年前、一眼レフカメラか出始めたときにも、ボディの上にあるペンタプリズムの三角形の出っ張りに違和感を感じた。私の先輩にもあの形がいやだからと言って、長い間使わなかった人もいたから、いまデジタルカメラに感じている感覚もおなじことなのかも知れない。あのころでも一眼レフには、あのスタイルか是非必要なものだとわかってくると、その形が当然のものとなって見えてきたのだから不思議なものである。

 クイックリターンのアサヒ・ペンタックスが発売されたのは昭和32年(1957年)である。ペンタックスがあまりにも有名なので、日本でペンタプリズムのついた最初の一眼レフカメラはアサヒペンタックスだと思っている人が多いのだか、じつはその2年前、昭和30年にミランダが発売されているのだ。正確にはミランダを製造したオリオン精機から昭和29年にフェニックス(PHOENIX)が発売されているのだが、このカメラにはお目にかかっていない。またペンタプリズム使用の一眼レフカメラについては、マミヤ光機のプリズムフレックスが昭和27年につくられたことになっているのだが、実際に写真家、カメラマンに使われたということではミランダが最初のペンタプリズム式一眼レフと言うことになる。このカメラはあまり宣伝をしなかったのでカメラ雑誌にも派手に紹介されるようなことはなかったが、プロの写真家たちのあいだで評判になり、あっと言う間に広がり使われた。何故、爆発的に使われたかというと、プロの写真家にとって待ち望まれていたからだと言うことになる。
 昭和29年に朝日の出版写真部にはいった私は、自分の写真の未熟さにあきれながらも、先輩たちに教えられ助けられ、なんとか仕事をこなしていた。
 「大型カメラに慣れるためにはとにかく300パック撮れ」「小型カメラはレンズ一本につきフィルム100本撮ると、どうやら使いこなせるようになる」と教えてくれた大先輩がいた。1年ほどの間に127ミリのレンズのついた大型カメラ・スピグラで300パックつまり3600枚以上撮影していたが、なかなか使いこなせると言うところまでは到達しなかった。1パックの意味は大型カメラ用の4x5インチサイズのフィルムが12枚一つのケースに入っていて、このケースの入ったフイルムホルダーをカメラにセットすると、リーダーペーパーを引くことで12枚連続して撮影することが出来た。
 小型カメラの方は、一年間に1000本以上撮影したせいか、なんとか35ミリレンズと50ミリレンズは使えるようになってきていた。しかし長い焦点のレンズが難しかった。キヤノン4Sbに85ミリや100ミリのレンズをつけてバレーの舞台を撮ってもピントがあっているのは4枚に1枚くらいであったし、ポートレートを撮影しても、よほど絞って被写界深度を利用しなければ焦点が合ったようにみえなかった。長焦点あるいは望遠レンズに関しては自分の周辺を見回しても、日本の写真界全体を見ても、うまく使いこなしていると思われる人はあまりいなかった。アメリカにはライフのスタッフ写真家アンドレアス・ファィニンガーが望遠効果をつかった写真を発表していて有名であったが、この人の写真は「超」のつく望逮レンズで撮影していて特殊なものと思われていた。
 会社の備品にノボフレックス(レフボックス)につけて撮る10インチと18インチの古いレンズがあった、これがライカマウントであったのでキヤノンにつけることができた。このレンズをときどき持ち出して撮影してみるが、かなり絞ってもぼやぼやの描写であまり良いレンズとはいえなかった。長いレンズが珍しかったので望遠鏡代わりにのぞいて楽しむ方が多かった。

 稲村不二雄というカメラマンがいた。はじめてこの名前を知ったのはカメラ雑誌の月例コンテストに応募するアマチユアカメラマンとしてであった。カメラ雑誌“写真サロン”に毎月のように上位入選していた写真がキヤノンの135ミリレンズを使って撮影した作品で、望遠レンズの使い方がうまく感心した。アマチュア写真家が目立ったというのは135ミリなどというレンズをうまく使いこなす写真家がいなかったからだと思う。そのころ私がもっていた長焦点レンズは100ミリと135ミリそれにレフボックスをつけて撮るキヤノン200ミリであった。これは自分で買って持っていたが、ほかに出版写真部の備品のニッコールの85ミリF2をキヤノンにつけてつかった。85ミリF1.5レンズがキヤノンから発売されていたが値段が高くて買えないでいた。
 入社して1年ほど過ぎたときに週刊の小学生朝日新聞の連載で「動物クイズ」か始まって上野動物園に通うことになる。多摩動物公園の園長さんになった小森厚さんが上野の飼育係のころで、このクイズの原案をつくった。まだ子供向けのテレビの番組などない時代であった。たとえばそのころ、だれも見たことのない象の足の裏の写真をアップで撮って紙面に載せ、回答は1週あとに象の全身の姿を見せるというようなことだった。動物の部分をアップで見せると言うこの続き物が評判がよくて、2年問、暇な時間があれば上野へ通った。いろいろな動物の足の裏や口の中などを撮ったがこんなときは、動物を担当している飼育係の人と一緒に檻に入れてもらって撮影した。しかし大部分の撮影は檻の外からということになる。今は動物園で動物を撮影することなどは、やさしすぎて悩むことなど何もない。はじめて望遠レンズを買ったアマチュアだって動物の顔のアップが撮れる。しかし一眼レフカメラのなかった時代には、これが大仕事であった。この仕事で一番愛用したのは、ニッコール180ミリF2.5というレンズである。レンズの直径か15センチほどもある大きくて重いレンズでレフボックスを使って撮影した。付属していた大きなレリーズは、レリーズボタンを押すと1本がレフボックスのミラーをうごかし、もう一本がカメラのシャッターを押す仕掛けになっていた。このレンズで動物の檻の前に行き格子のすき間から撮るのだが、三脚に固定してしまうとうごきまわる動物を追いかけることが出来ない。重いレンズを支える一本脚を自作したり、いろいろと工夫して撮影したが3枚に1枚くらいしかピントが合わなかった。
 こんなことだったから、長い焦点距離のレンズを自由に使いこなすことなどはとても無理であった。そんなときに「ミランダ」か現れたのだ。私の先輩に船山克さんがいる。朝日の出版写真部を代表するカメラマンで、いつも写真技術の未熟な私を手取り足取りと言う感じで教えてくれた。この人の仕事にはいつもただただ敬服させられた。これは朝日新聞が発行していた雑誌に掲戴された写真についてもそうであるが、カメラ雑誌などに写真家として発表していた作品にも人を驚かせる秀逸な作品が多かった。「ミランダ」は船山克氏か使い始めた。なぜ船山氏がミランダを使い始めたのかその辺の事情はよくわからないが、私たちの写真部にはカメラの試作品や新製品などが方々のメーカーからもちこまれていたし、先輩たちは社の内外で華々しい活躍をしていたので、個人的に試作された機材がもちこまれることも多かったから多分その一つであったのだろう。
 ミランダには、はじめてのペンタプリズムがついていた。旭光学のペンタックスが発売されてからは、ペンタプリズムという言葉も、なんの不思議もなく受け入れられているが、ミランダのときはまだ、この五角形のレンズについてはペンタの呼称は一股的でなかった。はじめて説明を聞いたときは、ただ単にプリズムといわれたいたように思う。このカメラを見せられたとき不格好なカメラだと思った。使って見ろと言われてミランダを借りた。