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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)
写真は大げさな言い方をすると、フレーミングで空問を切り取り、シャッターで時間を切り取る。フレーミングを説明するのにいろいろな言い方あるが、私が今までに聞いた話では、Nさんの話が一番分かりやすい。昭和20年代、戦後の写真ブームがはじまったころのことだ。アマチュア写真界のボスと言われていたNさんが写真の講習会で話をした。Nさんはアマチュアのクラブを指導していてきびしい教え方をしたが、独特の話術が評判で人気があった。
Nさんは開口一番「写真は額縁である」と言って、大きな油絵の額縁を取り出した。絵は入っていない。
「諸君の眼前にひろがる大風景から、この額縁で切り取ってくるのである」まだ、日本の写真家たちがだれもフレーミングなどといっていなかった時代である。自分の眼の前にある風景、事物、事象を自分の思うとおりに額縁・フレームをあてて切り取る。これが写真だというわけだ。こんなわかりいい話はない。その後である。Nさんは「諸君、額縁を自分にちかづければ広角レンズ、遠くへはなすと望遠レンズ」と言ったと言うのだが、このへんはあやしい。この話を小久保善吉さんから聞いた。小久保さんはこのNさんをプレサントクラブの西山清さんだと言われたのだが、西山さんではないらしい。あやしいと言ったのは、望遠レンズと広角レンズがでてきたからだ。昭和20年代後半、アマチュアの世界では交換レンズは使われていない。私が毎日新聞出版写真部(新聞の写真部ではない)に入ったのが昭和29年・1954年である。そのころ出版写真部には、四つ切りの写場用暗箱をはじめ、じつにたくさんの大型カメラの機材があったが、小型カメラはライカのIIICが数台と広角の交換レンズが数個、レフボックスでライカに取りつける10インチともう一本の望遠レンズがあった。ライカが簡単に手に入る時代ではなく、先輩たちは小型カメラは発売されて問もないニコンのS2か、キヤノンVISbを使っていた。もちろんニコンもキャノンも現在の一眼レフカメラになる以前のレンジファインダーカメラである。入社してライカを使わせてもらった、広角レンズも画角が気に入った。広角レンズが好きになった理由はもう一つある。仕事につかうように会社からあたえられた大型カメラは4×5版(10センチ×12.5センチ)のフィルムを使用するスピグラ(スピードグラフイック)であった。スピグラには127ミリのレンズがついていた。このレンズの画角は35ミリカメラのレンズに換算すると、ちょうど35ミリレンズとほぼ同じである。このくらいの焦点距離のレンズで人間を撮影すると背景の画面への入り具合が肉眼で見たのに近い感じがした。仕事で一番使う常用カメラはスピグラであったから、これについていた127ミリレンズに慣れて、画面を切り取るフレームの感覚が広角レンズの感じになってきた。そんなこともあって、小型カメラの広角レンズがすぐ欲しくなり、父親から借金をしてすぐ買った記憶がある。しかし、アマチユアはあまり交換レンズをつかっていなかった。二眼レフの時代である。リコーフレックスが8千3百円で売り出されて、一月分の給料でカメラが買えると評判をとって爆発的に売れていた。話は額縁のことにもどるのだが、Nさんが額縁をかかげて遠くへはなせば望遠レンズ、近くでのぞけば広角レンズと言ったのは、話をおもしろくするためにだれかが作った話であろう。しかし額縁で切り取るというのは今でも通用する。