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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ベトナム戦争2
 サイゴン市街戦は日暮れちかくまでつづいた。ベトコン(解放軍兵士)は街から脱出したのだろう。夕方になって激しかった銃撃の音が遠のいた。政府軍の兵士たちは戦車の周りにたむろし、やがて戦車が引き上げ始めた。

 家に潜んでいた市民たちが通りに顔を出してきた。戦いの一日が終わったようだ。支局にも同行の仙名記者にも一度も連絡がとれなかった。普段でもあまり役にたたないサイゴンの電話は市街戦で当然のように繋がらなかった。

 政府関係の建物、ホテルのある中心街まで帰らなければいけない。東京に置き換えて中心街を丸の内とすると、私が行った市街戦の場所は品川、五反田くらいの距離で方角も西南で似たようなものだ。帰るのには歩く以外に方法はない。

 しばらく歩いてショロンの中心街に出た。日が暮れてしまうと、夜間外出禁止令が出ているから通りを歩くことは出来ない。どこか泊まるところを見つけなければいけないと考えながら歩いていたら。国道をとろとろ走るタクシーが見つかった。

 支局に戻ると、どこの行っていたのだ。心配していた。APが朝日新聞特派員が市街戦で行方不明と打電している。勝手な行動は困りますねと支局長が怒っていた。すぐ本社に無事を打電した。

 APの支局に出かけてモノクロフィルムを現像してもらう。朝日新聞宛とAP配信用の市街戦の写真を伸ばしてもらいキャプションを書き電送した。支局に戻ったら東京からテレックスでサイゴン市街戦の体験記を送れと伝言があった。

 脈絡のない市街戦の話を仙名紀記者がきちんと整理して送稿してくれた。朝から食事をしていなかった。食事のことなど一度も考えてなかった。氷を入れたブランデーの水割りが体中にしみこんでいった。

 その夜は、なかなか寝つけなかった。何故危険をおかしてまで戦争の写真を撮らなければならないのか、開放戦線と言っているが北ベトナム軍だろう。アメリカあるいは南ベトナム政府軍との戦争を、戦争に直接関係のない日本のカメラマンが命がけで撮って報道しなければいけないのか。と言うようなことは考えているのだと格好がよいのだが、そんなことは考えなかった。

 それよりは、なぜ市街戦の写真を上手く撮ることが出来なかったのだろうか、情報がもうすこし正確に入ってきたら、写真を撮るためのポジションの確保が出来たのに、とにかく今日撮った写真は下手だった。未熟だ。記者は眼でしっかり見ることが出来ればそれを文章にすればよい。写真は写っていなければ、何も伝えることが出来ない。そんなことを考えているうちに寝てしまった。朝がやってきた。

 翌日はフリーのカメラマン嶋元啓三郎君と一緒に出かけた。前夜APの支局で彼に出会った。彼は別の地区での市街戦を取材した写真を売り込みに来ていたのだ。交通の便で難儀をしたと話をしたら、明日は僕のバイクの後ろに乗って一緒に行きませんかと誘われ、親切な申し出に便乗させてもらうことにした。

 それまでバイクの二人乗りを経験したことがなかった。と言うよりモーターバイクに乗ったことがなかったのだ。嶋元君の腰にしがみつくようにして乗っていたのだが、カメラバッグが重くバランスを取るのが難しかった。50ccのバイクだった。嶋元君も多分後ろがふらふらしているので迷惑だったろう。

 ショロンにむかって走っていたら左前方に黒煙が上がった。サイゴンの市街地の南方だ。進路を変えて走った。前方にロケット弾が着弾したらしい。着弾地は住宅地だ。火災が起きている。男たちが走り回っている。救急車の旗を立てたトラックがくる。

 バイクを止めて嶋元君と一緒に救急車の走る方向に走る。被害者が運び出されているようだ。トラックに追いついた。少年が泣きながらトラックにしがみついている。トラックの荷台に横たわっているのは女の子だ、少年の妹のようだ。

 少女は死んでいた。このあと、私たちは市街戦が行われているショロン西方の市街地にむかった。国道と交差する交差点に政府軍の戦車がいて、その戦車にむかって北からベトコン(解放戦線)がロケット弾を打ち込んでくる。着弾した不発のロケット弾が舗装された道路の上をカランコロンと音を立てて滑るように跳んで行く。

 戦車のすぐ後ろや道路沿いの建物の陰に、たくさんのカメラマンが集まっていた。ライフのラリーバローがいた。石川文洋君にも会う。多分サイゴンにいた大部分のカメラマンが、今日はここが市街戦の主戦場だという情報で集まったのだろう。

 戦車砲とロケット砲の撃ち合いだけで解放軍の兵士たちの姿は見えなかった。カメラマンたちはみんな勇敢だった。自分には弾は当たらないと思いこんでいるように見えた。戦車砲の発射の爆風で耳が痛くなってきた。

 市街戦は戦車砲とロケット砲の撃ち合いがつづくだけで変化がなかった。そのうちに北の方角の国道の橋で戦闘が激しくなったとか、南の市街地、サイゴン港の方角が解放戦線の侵攻が激しく市民が続々と避難を始めたなど、情報が錯綜した。集まっていたカメラマンたちが少しずついなくなった。

 何時間たったか、嶋元君が正確な情報をとりに一回戻りましょうというので、また。バイクに乗せてもらって、APとUPIの支局に行った。港の方角に広く黒煙が上がっている。距離が近そうなので歩くことにした。南から避難民が続々と荷物を担いでやってくるのに出あうようになった。

 写真を撮っているうちに嶋元君と離ればなれになってしまった。嶋元啓三郎君はPANA通信の特派員としてベトナム経験が長かった。68年フリーになってサイゴンに来ていた。彼は戦場取材経験が豊かだったから、私の市街戦遭遇を聞いて、多分憐れんでくれたのだと思う。あるいは同情だったかも知れない。それが同行を言ってくれた理由だろう。彼は鹿児島県種子島の出身であった。朗らかで落ち着いた様子は筆者より10歳若かったが、ベテランの趣があった。

 彼はこの市街戦の3年後、71年2月南ベトナム軍のラオス侵攻作戦に従軍した。ラオス上空で搭乗していた米軍ヘリコプターが北ベトナム軍により撃墜され死亡した。同じヘリコプターにはライフのラリーバローも搭乗していた。

 ここまでメモも無しにサイゴン市街戦のことを書いたのだが、当然のことだが記憶がはっきりしないところがたくさんある。人間の記憶はいい加減なところがあって、自分に都合の悪いことは忘れてしまうように出来ている。サイゴン市内の地名なども当時ははっきり覚えていたのだが完全に忘れてしまっている。

 市街戦の取材で感じたことは、それまでどのような写真でも一人前以上に撮ることが出来ると思っていた撮影能力が、上手く働かなかったことだった。満足のいく写真が撮れなかった。国内ではいろいろなデモの写真を撮ってきたが、戦争の取材はデモ取材のように上手くいかなかった。

 考えてみると安保闘争に関連してハガチー事件、佐世保闘争、国際反戦の取材で3回大きい怪我をした。頭と右手の指、そうして脚の膝だ。石の塊だから怪我ですんだが、鉄砲玉なら3回死んでいることになる。

 ベトナム戦争の取材で満足感が得られなかったのは、気持ちのどこかに死への恐怖があって、恐れず、なりふり構わず撮影出来なかったことがあったのかも知れない。ベトナム戦争からカンボチャへの戦争に続く間に日本人の報道関係者は13人死んでいる。

 前回市街戦の取材で、ニコンFを3台と書いたが、どうやらニコンS3を一台と、ニコンFを2台使ったようだ。ニコンFは、一台は常時105ミリレンズをつけ、もう一台にはカラーフィルムを入れ50ミリレンズをつけていた。あと持ち歩いたのは200ミリレンズだった。レンズは付け替えてカラーとモノクロを撮った。

 一番多く使用したのは35ミリ広角を付けたニコンS3であった。露出計はウェストンマスターを持ち歩いたが、ほとんど使ったことはなかった。

写真説明
ロケット弾が市街地に着弾して、死者がでた。小さな女の子が運ばれるトラックに少 年がとりすがって泣き叫んでいた。