TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ベトナム戦争
 1968年5月ホーチンミン市(旧サイゴン)にいた。ベトナムは戦場であった。その年1月31日に開放戦線(ベトコン)のサイゴン都市攻撃があり、アメリカ大使館などが攻撃された。ベトナム戦争に大きな転機が現れた時期である。

 テト(正月休み)攻勢で解放戦線がアメリカ大使館に突入するテレビニュースを出版写真部で見ていたら、直ちにサイゴン市街戦の取材に行けと言われた。すぐ出発しようとしたがビザが下りない。ベトナム大使館に日参、結局サイゴンに到着したのは2月の終わりであった。

 南ベトナムに着いてから、同行の週刊朝日記者の仙名紀氏とテト攻勢の戦跡を尋ねてサイゴンだけでなく市街戦の激しかったミト市まで出かけたり、撤退直前のケサン基地までダナンを経由して出かけたり、米軍のメコン流域の哨戒ボートで従軍したりしていた。サイゴン周辺のベトコン村(解放戦線が支配しているといわれる村)に伝手を頼って出かけたこともあった。サイゴンは夜間外出禁止令がでていて夜になると周辺から打ち込まれるロケット砲の音がうるさかった。

 5月の5日から7日にかけて大規模な開放戦線のサイゴン都市攻勢が再びはじまった。その日、朝6時半にホテルを出てすぐ横にあるレストランに朝食をとりに行った。レストランと言うよりは飯やという感じの食堂だ。中国人一家がやっている店である。朝飯はそこで食べることにきめていた。

 店に入るとウェイターをやっている息子がとんできて戦争がはじまっているから、お前はすぐ行かなければいけないと言う。言うと行っても中国語とベトナム語しか通じないが片言の英語と身振りで知らせてくれる。さらに店の奥から紙をもってきて漢字(中国語)を書いて戦闘がはじまっている場所を教えてくれる。私がいつもカメラとカメラの入ったバッグを持ち歩いているから、私がカメラマンであることは知っている。

 日曜日だった、あわてて支局のあるビルにいって情報をもらおうと思ったが、ラジオの情報で市の端のほうにベトコンが潜入したようだくらいしかわからない。市民の口コミだろうが街に伝わる情報の速さに驚かされる。

 サイゴンでの解放戦線総攻撃を取材するために特派されたのだから、すぐ取材にいかなければいけない。一人で出かけた。タクシーで移動する以外に交通機関はない。持って行った知図で戦闘が激しいという市の南部の方へ行ってくれと頼んでみるが、どのタクシーもいやがって行ってくれない。やっと一人ルノーのぼろタクシーの運転手が行ってくれるという。

 タクシーは表通りは走らなかった。裏道をジグザグに抜けて南に走った。表通りは家が軒を連ねて密集しているが、裏通りはあまり家が建て込んでいない。目的地の中間くらいまで行ったら、運転手が車を降りて数件の家に行って戻ってきた。これ以上は鉄砲の弾が飛んでいるから危なくて行けないと言う。

 タクシーを降りて歩き始めた。通りには全く人はいない。人気はないのに歩いていると視線を感じる。住民たちは息を潜めて家の中にいるのだ。大分歩いて家がまばらで広く広がったところに出た。突然にパチパチパチと地面と、家の壁の煉瓦がはじける音がした。銃撃だった。

 ドンドンとかパンパンという音の時はまだ遠いからいいが、パチピチとはじける音がしたら着弾点が身近だから気をつけろと言われていた。そのとおりの音だった。瞬間的に地面にはいつくばった。後ろの煉瓦壁がはねている。頭の上を鉄砲玉が行き来していた。

 どうやらベトコン(解放軍)と政府軍が対峙している真ん中に入り込んでしまったらしい。しばらくして20メートルほど横の民家から手招きしているのを見た。銃撃の音が静まったのをみてその家まで駆け込んだ。

 お年寄りが、家の中に入れてくれた。壁際に家族が座り込んでいる。私がカメラを持っているのを見て、屋上に上がって写真を撮れといって案内してくれる。空き地が広がっていて、その向こう7、80メートルほど離れた家の並びにベトコンがいると教えてくれた。人影がいくつか壁に沿って走るのが見えた。しかし300ミリの望遠レンズでのぞいて見るのだが写真は撮れなかった。

 考えてみると潜入してきた向こうの兵士たちは、銃撃を避けて動いているのだから、写真で簡単に写せるようなら、弾が当たってしまう。悔しかったがこのシーンは撮れなかった。1時間くらいその家に居ただろうか、ノドが渇いて水を飲ませてもらった。

 やがて、ごうごうと音が響いて南ベトナム政府軍の戦車と歩兵部隊の兵士が背後の通りから現れた。解放軍のいる家の方角に向かって戦車砲を打ち始める。避難していた家の人に礼を言っておもてに出た。戦車の後を歩く兵士たちの後について写真を撮り始めた。

 兵士たちは銃撃があると障害物に隠れて自動小銃を打ち始めた。家並みからモクモクと黒煙が上がり始める。そこには現実の戦争があってその渦中にいるのだが、写真は思うようには撮れなかった。劇映画ならば、第三者、敵でも味方でもない立場、ポジションで戦争を客観的に撮影できるのだろうが、実際の戦闘ではそんなことは出来ない。どちらかの位置で敵か味方かがはっきりしてしまう。

 10年ほど前になるが、務めていた朝日新聞社から1968年ベトナム取材当時のフィルムが送られてきた。朝日新聞出版写真部に属していて取材した写真フィルム、著作権はすべて朝日新聞社に帰属する。フィルム保管室に納められていたフィルムが30年以上経ってこのフィルムは使われることはない。もう用がないからお返ししましょうと言うことである。

 返ってきてすぐ整理しようかと思っているうちに時間が経過していった。過去に興味はない、つねに現在と未来に興味をもつという性格だから、過去のフィルムを整理しようという意欲がなかったためでもある。他の取材フィルムも帰ってきたが、ベトナム戦争取材フィルムだけは1箱、別になっていた。今年春になってこのフィルムの箱を開けてみた。あの戦争の日の思い出が一度に湧きだしてきた。

 ベトナムへ特派された間に東京に送って整理されていたフィルムのナンバーを見るとモノクロフィルムが1から162番まで、カラーが1から70番になっていた。5月5日から5月10日のサイゴン攻撃の間にモノクロフィルムを30本ほど撮影している。カラーフィルムは10本ほどだ。ところが数えてみると5月5、6、7日に撮影したフィルムが3本ほど抜けている。

 当日の写真は新聞に使うためAPの支局に行って電送分だけ現像し、電送をした。電送分のフィルムが原稿便に積み込むとき、ほかに紛れ込んだのかも知れない。あるいは報道写真集などに掲載のため、編集部に貸し出されて紛失してしまったのかも知れない。

 サイゴン市内で戦闘が行われた日の分だけ取り出し、ライトボックスとルーペを取り出し丹念に眺めた。

 あのとき、カメラは何を持っていって、どんな使い方をしたのかはっきり覚えていない。35ミリ広角レンズを付けたニコンS3を持っていたことは間違いない。ほかにニコンFボディを3台持って行っていたのかFボディ2台にニコマートを1台、これにカラーフィルムを入れていたような気もする。

 ニコマートは1965年に発売になっている。発売直後からTTL方式の露出計の便利さ正確さを知って使っていたから、持って行ったような気もするが、戦場での耐久性に疑問があってFボディを3台にしたようにも思う。

 ベトナムで撮影したフィルムを点検したが、ニコマート特有のフィルム一齣一齣の間隔の不揃いは見られないからFボディだけだったのだろう。このカメラにはF用の広角レンズを付けていた記憶がある。もう2台のニコンFは105ミリのレンズと200ミリ望遠レンズをつけていた。モノクロ専用カメラである。望遠レンズは300ミリを持って行っていた。

 なぜニコンだけを持って行ったのか理由がはっきりしない。多分一番壊れないカメラと言うことできめたのかも知れない。3台のF型は交換レンズを多くしないためだった。

 あのころ、ベトナムに行った戦場カメラマン、戦争カメラマンたちはどんなカメラを使っていただろう。5月のサイゴン市街戦3日目に、後に亡くなったライフ誌のラリーバローに出会った。彼は背が高く写真を撮る姿に風格があった。彼はライカとニコンFを使っていた。胸からぶら下がった200ミリつきのニコンFは印象的であった。この市街戦で石川文洋君に出会ったが彼はもっぱらライカを使っていた。彼の胸には常時50ミリレンズと35ミリ付きのライカがぶら下がっていた。彼のライカは土ホコリで真っ白になりレンズの中心部分だけが顔を出していたのを覚えている。ほかのカメラマンもほとんどが広角つきライカがメインで、あとは望遠レンズつきニコンFだった。

 ライカを使っているカメラマンがライカを使う理由は「とにかく壊れない。故障しない」だった。

写真説明
(1)1968/5/5撮影
 南ベトナム政府軍の兵士の後ろからこわごわとカメラを向ける。
(2)1968/5/5撮影 政府軍の戦車がやってきた。開放軍の兵士たちのいる家並みに戦車砲を打ち始める。