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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

スプリング・カメラ続き・マミヤシックス
 航空評論家でエッセイストの佐貫亦男さんは10年ほど前に亡くなった方だが、航空機評論だけでなく、ドイツカメラを蒐集されていてカメラに詳しい。戦前、戦後とドイツ滞在が何度にもおよんで「ドイツカメラの話」「ドイツカメラのスタイリング」などカメラ関連の著書もある。「ドイツカメラのスタイリング」のなかに、イコンタのスーパー・シックスのことを書いている。

「スーパーシックスは第2次世界大戦前にドイツに出かけた日本人はみな買ったといってよい。スーパーシックスは正式な名前ではなかったが、ベルリンあたりのドイツ人のカメラ店ではスーパーシックスで立派に通用した。それほど売れたから、日本人客は有りがたかったにちがいない。私が知っている同僚先輩はみな買ってきたし、私がベルリン滞在中に会った日本人も同じことであった」

 佐貫さんは同じ本のなかに、第2次世界大戦前にドイツにいった日本人は、ライカかコンタックスを買い、第2カメラとしてスーパー・セミ・イコンタを追加することが多かったようだとも書いている。第2カメラとは、密着焼き付けが出来ることが条件であった。

 佐貫さんは誰もが高級ドイツ製カメラを簡単に手に入れることが出来たように書いているが、戦前ヨーロッパに旅行をした日本人がそんなにお金を持っていたのが不思議に思われるし、ドイツに行って、カメラを2台もお土産に買ってくるような裕福な人は、そうたくさんはいなかったはずだ。

 ドイツに行ったとしても、普通は買ってくるのはバルダックスどまりの人が大部分だったと思う。あるいは、戦前のベルリンのある時期は、公用で出かけたお金持ちの日本人が溢れていたのかも知れない。戦後、昭和40年代になって、筆者の友人、知人が海外に出かけると競ってライカを買って帰ってきたが、これと同じような状況だったのかもしれない。

 イコンタのことを書いていて、日本のスプリングカメラを代表するマミヤシックスのことと、マミヤシックス愛好家のMさんのことを思い出した。第二次世界大戦が始まる前にも、アマチュアカメラマン、写真愛好家はたくさんいた。Mさんもその中のお一人だ。小生より一世代前の方だ。

 先日、10年ぶりに、Mさんに会って話しをする機会があった。Mさんは、いきなり僕たちの世代は大部分が出征し、一番戦死者の多い世代だったと言われる。

 趣味の話を持ち出しては悪いような気もしたが、写真のこと、カメラのこと、マミヤシックスのことを聞いてみた。 Mさんはもう10年以上も写真は撮っていないが昔は趣味が写真でね、と言われる。

 Mさんにはカメラ仲間がたくさんいた。戦前その連中は大學の写真部で活動するほど、熱心なアマチュアカメラマンではなく、趣味で写真を楽しんでいた人たちだ。その中にはライカを親に買ってもらったものがいたり、ローライを持っている人もいたが、ほとんどがスプリングカメラを使っていた。

 Mさんは、学生時代マミヤシックスを持っていた。大學卒業してすぐ戦争にかり出された。出征するときにカメラを持って入営するのは自分たちよりもうすこし年上の人たち、Mさんの出征のときは、そんなことがとても許されそうもない緊迫した戦争末期の状況であったから、カメラは家に置いて入営した。

 外地の戦場には行かなかった。前々号でスプリングカメラ蒐集家のTさんの話をしたが、Tさんも出征したが外地には行かなかったと言っていた。このお二人は考えてみると外地に行かなかったから生きて終戦を迎えることができたとも言える。

 戦争が終わって自宅に戻る。翌年になって親父さんの関係の会社に入りサラリーマン生活を送ることになる。家は空襲で焼けず残っていたし生活の不安はなかったが、すぐにはとてもカメラをいじってみようなどと言う気持ちにはならなかった。カメラどころか日本中が食糧難で1億総貧乏の時代だった。

 Mさんの写真再開は戦争が終わって5年ほど経ってからだった。カメラ雑誌の創刊、再刊の時代で、フィルムも手に入るようになってきた、経済的余裕も出来てきたが、やっと戦争が終わったという精神的なゆとりが出てきて写真を撮ってみようかということになる。

 戦前から持っていたマミヤシックスを取り出して使うことになった。Mさんは話がマミヤシックスのことになると、とたんに雄弁になってこのカメラと自分との関わり合いを話し始めた。

 以下はMさんの話である。

 マミヤシックスをはじめて手にいれたのは、昭和16年大學在学中で家族の記念写真を撮ることを条件に親父さんに買ってもらった。買ってもらったというよりは親父さんが買ったものを勝手に独占してそのまま引き継いだようなものだった。

 マミヤシックスには連動距離計が組み込まれていた。戦後に発売されたオリンパスシックスやフジカシックスでさえ距離計は付いていなっかったから、当時としては画期的なカメラだった。

 マミヤシックスはピントを合わせる方式が普通のカメラとは違っていた。大多数のカメラはレンズを前後させることで焦点を合わせたが、マミヤシックスはレンズは固定してフィルム面を前後に動かすことでピントを合わせた。バックフォーカシング方式である。

 この特徴は戦後改めて写真をはじめるようになって知った。マミヤシックスが初めてのカメラだったから、ほかのカメラもピント合わせはマミヤと同じ機構だと思いこんでいた。

 しまい込んであったマミヤシックスを取り出してきて写真を撮り始めた。自分で現像をするのではなく、DP屋さんに出して現像をしてもらう。写真は密着焼きで引き伸ばしをしてもらうことはほとんどなかった。昭和20年代後半になって自分でフィルム現像をするようになる。引き伸ばし機を買ったのは昭和30年代になってからだった。

 そのころが一番写真に熱中していて、一月にフィルムを10本以上使うようになった。引き伸ばしも自分でやるようになって、カメラ雑誌の月例に応募した。昔からのマミヤシックスだけを使っていたが、皮のケースがボロボロにすり減って壊れてしまった。カメラは痛んでいなかったが、そろそろ新しく買おうかなと思った、昭和30年になってマミヤ・シックス・オートマットが発売になった。

 マミヤシックス以外のカメラを買おうなどとは思はなかった。カメラ雑誌の広告を見て、カメラ店に申し込み発売後すぐ買った。新マミヤシックスは軽合金ダイキャストで、鉄板製の旧型機にに比べてカタログでは100グラムくらい重くなったと書いてあったが、手にとるとずっしりと重みを感じた。フィルムの巻き上げと同時にシャッターがセットされるようになって便利さに感激した。

 旧型にはKOLと言う名前のレンズが付いていたが、新型にはズイコーレンズが付き、青紫色のレンズコーテングが美しかった。シャッターはセイコウシャ・ラピッドがついていた。旧型機に比べてピントの良さ、解像力のすばらしさに驚いた。

 昭和30年代はマミヤシックスだけで写真を撮り楽しんできた。最初に写真を写したのがマミヤシックスだったから、マミヤファンになってしまって、人がカメラを買うと聞くと、やたらとマミヤシックスを薦めた。マミヤ・ワイドやマミヤ・スケッチという35ミリカメラを買ったが結局ほとんど使わなかった。

 昭和40年代になって、日本中、一眼レフ全盛時代になった。マミヤには一眼レフカメラがなかったから、やむを得ずニコンFを買ったが、考えてみるとこのカメラを使うようになって写真が面白くなくなってしまった。自分にとって生涯一のカメラはマミヤシックスであった。

 以上である。写真で知り合ったお付き合いではなかったが、Mさんがマミヤシックスを使っていたのを思い出して話を聞いてみたのだが、マミヤシックスへの思い入れには驚いてしまった。この世代の人たちが、スプリングカメラの愛好家だったのだ。

 スプリングカメラについて言えば、小生は写真をはじめたころ使ったドイツ製のバルダックス以外は、使ったことのない種類のカメラである。当然関心は薄かったが、小生よりわずかに年齢が上の世代にとってはカメラはスプリングカメラだったのだ。いろいろなカメラがあって、それぞれの時代にいろいろな人がそれぞれに思い入れを抱き、カメラとのつながりが生じていった。一般の評判だけでは理解出来ないようなカメラ物語がつづられていったのである。

写真説明
マミヤシックスI

1940年昭和15年にマミヤ光機から発売された。発明家としても有名であった間宮精一氏が作り出したカメラである。MさんのによればKOL 75ミリF3.5のレンズが付いていた。シャッターもKOLラッビットが付いていたが、KOLは何の略かは知らなかったという。

マミヤシックスオートマット
1955年昭和30年発売。Dズイコー75ミリF3.5レンズ・セイコーシャ500分の1秒のシャッターが付いていた。スプリングカメラでは珍しいフィルムを巻き上げると自動的にシャッターがセットされた。