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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

スピグラ・Speed Graphic 2
 敗戦以前(1945年)日本の新聞社では写真取材に、アンゴーとパルモスが使われていた。アンゴーはゲルツ・アンシュッツGoerz Anschtzs社製、パルモス=ミニマム・パルモスMinimum Palmosはカールツアイス社製で両機ともアルミ軽合金で造られたドイツ製のカメラでだ。

 アンゴーは新聞社に写真部が出来た大正年代から使われ、パルモスは昭和年代から戦後まで使われた。パルモスは堅牢なカメラで、水につかったカメラでも乾かせばそのまま使えるなどと言われたそうである。

 敗戦後になって使われるようになったスピグラは、グラフレックス社(アメリカ)製で木製である。戦前から写真を趣味とする人、また写真に関係のある人間ならば高級カメラはドイツ製という思い入れがあったはずなのに、何故、戦後になってアメリカ製で、しかも木製のスピグラを使うようになったのだろうか。

 戦争に負けて、メイド・イン・アメリカなら何でも良く見えた時代があった。日本には戦勝国から占領軍がやってきた。アメリカのGIがかっこうよく見えた。日本各地でスピグラを持ったアメリカ人カメラマンがやたらと目についた。まず占領軍のカメラマンがいた。

 占領軍のカメラマンといってもいろいろであった。去年11月富士フォトサロンで清里フォトミュージアム主催の写真展『日本の敗戦』を撮影したジョン・スウオープさんは、写真展の図録を見ると、1945年8月から9月までアメリカ太平洋艦隊司令長官付先遣本部写真班として連合軍捕虜開放の様子を取材するように命令を受けて日本にやってきた従軍カメラマンであったと書いてある。

 スウオープさんのように、捕虜収容所だけを撮影することを目的とするカメラマンがいただろうし、天皇とマッカーサーの会見を撮影した連合軍総司令部付きのカメラマンがいた。占領軍の部隊ごとに記録写真を撮っている兵士がいた。またスターズ・アンド・ストライプス(星条旗紙)という占領軍の新聞があって、ここにもカメラマンがいた。

 さらに敗戦の日本各地には世界各国のプレス関係のカメラマンがやってきた。全部がスピグラで撮影していたのではなかったが、大きなスピグラが目についた。東京の街で何かあると、ジープに乗って大きなカメラを手にしたカメラマンがやってきたという印象がある。カメラマンの行動が目についたが、大きなカメラも目についた。スピグラは軍の行動記録を撮影する軍用カメラだった。スピグラは軍隊だけでなく、アメリカ政府御用のカメラだった。

 田中長徳さんが『銘記礼賛』(愛すべき写真機たちの肖像)日本カメラ社発行のなかに、アメリカ・ミシガン州でスピグラ(クラウングラフィック)を買った話を書いている。ミシガンの小さな街ムニシングの小さな古道具店で古いスピグラを見つける。革製のトランクからフラッシュまで付いたそのカメラにはナショナル・パーク・サービスのラベルが貼ってあった。つまり国立公園を管理する係官たちがこのスピグラを使っていたのだ。田中長徳さんはこの内務省の放出品のカメラをタイプライターと一緒に65ドルで買った。

 戦後、アメリカでは軍隊だけでなく政府機関の写真撮影に官給品としてスピグラをつかったのだ。この官給カメラを配布するときに先号に紹介した『GRPHIC GRAFREXPHOTOGRAPHY』を一緒に配布したに違いない。スピグラは国防総省はもちろん内務省、商務省などあらゆる省庁御用になった。

 グラフレックス社の記録を見ると、4×5判のペースメーカー・スピードグラフィックは1947年発売になっている。戦後日本の新聞社で使われたスピグラはこの型が一番多かった。戦後すぐはアンゴー、パルモスを使っていたが、占領軍を含めて外国人カメラマンがスピグラを使っているのを見てこのカメラでなければニュース写真は撮れないと思いこんだのに違いない。

 日本の新聞社がスピグラを手に入れ始めたのは、新聞の用紙が少し潤沢になって夕刊が発行され、新聞に活気が出てきた昭和24年以降とされているが、それ以前から外国通信社が新聞社のなかに間借りするようになって、実際にスピグラを見たり触れたりで、これを譲り受けて使い始めるようになっていた。

 スピグラを、戦前から使っていた新聞社があった。日本新聞協会が昭和61年1986年発行した『新聞カメラマンの証言』のなかに、終戦以前に新聞社では讀賣が、通信社では同盟が1台ずつを持っていた、と書いてある。

 さらに戦後、占領軍とともに我が国に入ってきたいくつものアメリカの通信社は、暗室などの関係があって日本の新聞社と契約を結んだ、朝日はAPとスターズ・アンド・ストライブス、毎日はUP、讀賣はINS(後のUPI)、この特別のルートでスピグラが大量に日本の新聞社に流れ込んだ。

 戦後の日本は貧乏であった。外貨規制があってドルなど自由に使えなかったから、スピグラを手に入れたのは闇ルートだろう。『新聞カメラマンの証言』にはこのカメラを手に入れるために通信社との契約料を割り引くという形の取引や、外国通信社が日本の新聞社に寄付すると言う名目で渡し、後から料金を支払うという方法で買った。また米軍基地の将校から突然、PXにスピグラの出物があるから欲しければ誰か人をよこすように連絡が入って随分安い値段で新品を手に入れたという話も書いてある。

 筆者が昭和30年代にAP通信の I さんから聞いた話だが(I さんは日系二世で共同通信にいたが戦後まもなくAP通信のカメラマンになった人だ)「外国通信社(APとは言わなかった)のアメリカ人が連絡のため本国に帰国、東京に戻ってくるとき中古のスピグラ10台を運んできた」そうだ、これは昭和20年代の話、筆者が朝日出版写真部に入ったのは昭和29年だからそれ以前のことだ。

 そんなことで新聞社は急速にスピグラを買い整えた。何故日本の新聞社が夢中になってスピグラを買いあさったかというと、やはりその性能が素晴らしかったからだ。同じ『カメラマンの証言』のなかに昭和23年の1月に起きた帝銀椎名町支店で行員12人が毒殺されるという事件が起きたとき、毎日新聞に掲載された現場写真が素晴らしかった。

 この写真がスピグラで撮影された写真だと評判になった。フラッシュ撮影である。広角レンズで撮影された死体の転がる銀行内部のスクープ写真は、スピグラでなければ撮れない写真と言われ、スピグラの名声を高めた。このころ、各社が何台かを手に入れていたが、23年頃から真剣に新聞写真はスピグラでなければと考えはじめていた。

 椎名町事件で使用されたスピグラは昭和22年1947年発売の新スピグラ・ペースメーカースピードグラフィックではなかったと思われる。多分、敗戦以前に発売されていたアニバーサリー・モデル(1939年〜1946年に発売)だろう。

 筆者が昭和40年代にアメリカに出張したとき、サンフランシスコの中古カメラ店に入ったらスピグラが20台くらい並んでいた。もうスピグラ時代は終わっていたが、店頭に並んでいたスピグラは戦後に発売されたペースメーカー・スピードグラフィックで戦前に発売された前板(レンズボード)が黒い木製のアニーバーサリーモデルは1台しか並んでいなかった。そのとき付いていた値段を忘れてしまったが、古い方の黒いレンズボードのほうが値段が高かったことを覚えている。

 グラフレックス社はアニバーサリー・モデルは戦後1年で販売をやめ、ペースメーカー・スピードグラフィックに代わった。はじめのころ日本の新聞社の手に入ったのは、戦前からの製品であった。筆者が朝日新聞出版写真部に入ったときスタッフは20名いた。新入社員以外は、全員にスピグラが1台ずつ支給されていた。昭和29年である。2×3サイズのスピグラが1台あった。

 備品のスピグラのうち半分がレンズボードが木製のアニバーサリーモデルであった。新しいスピグラが写真部にはいると先輩から順送りにお古のカメラが回ってきた。

写真説明
スピグラは木製であったが前ブタはアルミ合金製。前ブタを開けて蛇腹についたレンズボードを引き出して使用する。
このカメラは1947年以降に発売されたPACEMAKER SPEED GRAPHIC4×5。レンズはオプターF4.7 135ミリが付いている。