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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

『絵はがき』(つづき−2)
 1923年(大正12年)9月1日11時58分関東地方南部を大地震が襲った。最大震度7、マグニチュード7.9であった。今年10月の新潟中越地震は震度6強、マグニチュード7と言われる。新潟の地震は死者39人、避難した人10万人といわれる。山間部での被害が目立つ地震であった。関東大震災は東京横浜の大都市が中心であったので大被害が出た。

 地震が起きたのは、ちょうど昼食前で食事の煮炊きの火を使う時刻であったから、倒壊した家屋から出火した。記録によると、東京だけで134カ所から火災が発生したと言われ、この火災は9月3日昼過ぎまで丸3日延焼を続けようやく鎮火した。阪神・淡路大震災のときもそうであったが、大地震+大火災で被害は大きくなった。

 被害の大きさを上手く言いあらわせないので、数字だけを上げると、死者9万1千人、行方不明1万9千人、被災者340万人、重傷1万6千人、家屋の全焼38万1千世帯、全壊8万4千世帯と記録されている。

 1995年の阪神・淡路大震災も大被害であった。死者数だけで言えば6425人だから、これと比べても関東大震災がいかに大きな地震であったかがわかる。

 先日テレビを見ていたら、年配のご婦人がお祖父さんが撮影したという関東大震災の写真を紹介していた。この人の祖父は写真師であったと言っていたからこの写真はお祖父さんが撮影したものに多分間違いないだろう。

 これを見ていて、30年前のことを思い出した。1974年週刊朝日はグラビアページで『我が家の一枚』という特集をはじめた。家庭に眠る古い写真を発掘して紙面に掲載する試みであった。

 この連載は大変好評で一年以上つづいた。全国各地からたくさんの応募があった。集まった写真を整理していて驚いたのは応募写真に関東大震災の写真がやたらと多かったことだ。名刺版くらいの大きさで色が変わりかけた写真がたくさん集まった。

 「この写真は、亡くなった祖父が学生時代、東京にいて震災に遭ったとき撮影したものと本人から聞いた記憶があります。伯父が震災当時東京にいて撮影したものです。昨年亡くなった父が震災の応援で東京にいったとき知り合いからもらった九月一日の写真です」などなどだった。

 ところがこれらの写真を整理するうちに大震災に関連して同一の写真が何枚も出てきた。何故こんなことがおきるのだろうか説明がつかなかった。それまで年代ものの写真には興味がなかったので知ろうとも思わなかったが、急に大正12年当時の写真事情が気になってきた。地震のときどんな写真が撮られたのか、またどれだけのカメラマンが惨状を撮影したのかを知ろうと思った。

 何故、全国各地から同じ写真を、自分の祖父が、親戚が撮影したといって応募してくるのだろうか、取材をしているうちにわかったことは、これらはその人たちが東京で買い求めた写真ではないかということだった。

 当時はアマチュア写真家もいたが、現在のようにカメラは普及していない。考えてみれば地方から上京して学生でも、カメラを買って趣味で写真をやるなどは、大地主の息子か、よほど金持ちの息子でなければあり得ないことだった。

 10月この連載で紹介した小森孝之さんの『絵はがき写真が伝えた時代と世相』に、関東大震災のとき街の営業写真師やアマチュアカメラマンが大活躍した。その証拠に印画紙をそのままポストカードにして売りだしたものが出回ったと書いてある。

 震災を撮影した被害写真、惨状写真が街で売られた。これは9月7日に警視庁から「被服廠焼死写真の発売頒布を禁ず」など大震災の写真を売ること禁止したおふれが出たことが記録に残っているから、写真が売られていたことは間違いない。

 9月7日に発売禁止のおふれが出ていると言うことは、7日以前にすでに街で大震災写真が売られていたということになる。東京では印刷所がほとんど被害にあっていた。だから写真を印刷せずに密着プリントして売ったのだ。

 大地震の後、日本各地の村や町の消防団や青年団が東京に救援にやってきた。中越地震で全国からボランティアで被災地に出かけたのと同じ感じだったのだろう。この人たちが帰郷するとき記念のお土産に震災絵はがきや写真を競って買っていった。

 絵はがきならば印刷物だから、だれも自分が撮影したなどとは言い出さないが、紙焼の震災写真があることで自分の身内が撮ったものだろうという錯覚が生じた。だから自分の身内のものが、関東大震災で写した写真であると思いこんだのだろう。

 関東大震災の絵はがきのことだ。小森孝之さんは前出の記事に「神田、日本橋、京橋に多く集まっていた印刷所はすべて灰になった。当時、天現寺にあって無傷だった光村印刷所には大手の版元である石川商店、尚美堂、青海堂などから注文が殺到し、9月の10日には印刷を開始したが、絵はがきは売れに売れ、工場の周りには竹矢来を張りめぐらし、客の応対にあたった」と書いてある。

 この小森さんの記事の出所は「尚美堂80年」の田中貞三聞き書きによるものであろう。

 この原本がないので孫引き(引用の引用)になるが、「尚美堂は地震の翌日、取引先の麻布広尾に仮寓をさだめ営業を再開した。幸いにも貞三が所持していたイーストマンコダックの写真機ポスト版を活用した。
 貞三は毎日、カメラを肩に市内を駆け回って震災の生々しい光景を写し回った。二重橋前、銀座、日比谷、丸の内そして淺草にも出かけた。惨状を呈した本所の被服廠跡にも足を伸ばして写真を撮った。
 さらに電通からも写真を借り受け、貞三の写したものに加えて銅板一色刷の絵はがきを作成した。裁断屋がいないので8面つづきのまま、1枚で10銭、卸6銭、これが新聞社の写真やニュースが出るまでの間、約20日間は文字通り羽が生えて飛ぶように売れ、客が混んで整理するために竹矢来をくんだ」と震災絵はがき発売当時の様子を書いている。

 震災絵はがきがどのくらい売れたかは記録がないのでわからない。途方もない数の絵はがきが売られたことは間違いない。グラフ雑誌の先駆けであったアサヒグラフは震災の年の1月、日刊グラフ誌として誕生したが、震災で休刊になった。

 休刊になったが、大震災グラフを発売した『大震災写真画報』である。これは1集から3集まで発売され正確な記録ではないが合わせて100万部以上を売ったと言われる。これから判断すると絵はがきも何十万部という部数が売られたことは間違いない。震災の応援に地方からきた人たち(この中には震災見物が目的の人たちもいたようだ)の土産として、絵はがきが人気があったであろうことは想像できる。

 絵はがき報道写真のピークは関東大震災であった。関東大震災は絵はがきにとって事件絵はがきの大繁盛、最盛期であると同時に、日本のフォトジャーナリズムが芽生え成長するきっかけになった。

 この二つの絡み合いの時期にグラフ雑誌が刊行され、報道写真はこの雑誌と新聞などを媒体として発展をしていくことになる。アサヒグラフは別冊で出した大震災写真画報が爆発的に売れるのを見て年末から週刊で刊行されるようになった。

 言い方を変えるとグラフジャーナリズムの発展が報道写真の媒体であった絵はがきの仕事を奪っていったとも言えるのだ。 いずれにしても、絵はがきがある時期、報道写真の媒体としての役割を果たしていたことは間違いない。

写真説明
1. 大正12年9月1日東京大震災 有楽町付近と説明がついている。
2. 関東大震災 第一相互館より大川方面とだけ説明が入っている。
3. 本所被服廠跡写真 被服廠遭難者の白骨を入れた水瓶と説明されている。