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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

『絵はがき』(つづき)
 知り合いに絵はがきを集めている人がいる。定年の年は過ぎたが、まだ現役で活躍されている。彼は少年時代から絵はがきをコレクションしている。もっぱら観光地、名所、風景絵はがき専門で、行事、事件物は集めていない。とくに熱心に蒐集しようと思ったことはないのだが、手元の絵はがきを数えてみると、5、6千枚はあるようだと言う。

 多趣味なので、絵はがき蒐集は余技だがだらだらと長続きし、期間が長いので何となく集まってしまったと言っている。蒐集した絵はがきを整理しようなどという気はまったくないそうだ。ときどき暇なとき取り出して眺め、過去の思い出にひたるのが楽しみだそうである。

 アルバムやスクラップブックなどで整理しているわけではなく、集まった数年分ごとにお菓子の空き箱や空き缶などにいれて置いてある。絵はがきはそのままの形でぱらぱらと見るのがいいのでアルバムなどに貼ってしまったら、ぱらぱらの楽しみが無くなるそうだ。貼ってしまったら切手を貼って出せないでしょうと言う。

 この人とは別に、IPMJ9月の連載「絵はがき」を見ましたよと知らせてくれた友人がいた。この友人に絵はがき趣味があるなどとは知らなかったのだが、電話で小1時間ほど絵はがきのことをおしゃべりをしてしまった。この友人も子供のころからの絵はがきで、数千枚はあるそうだ。しかも絵はがきはアルバムなどで整理しては面白くない。箱から取り出してぱらぱら見ていくのが楽しみなのだというのはさきの知人と一緒である。

 彼によると、絵はがきは世界各国どれだけの絵はがきがあるのかもわからず、切手趣味などと違って何年に発行されたあの一枚の記念切手を是非、自分の物にしたいなどと言うコレクター願望が生じないところが面白いのだそうである。自分の思い出の範囲との関連だけの絵はがきに興味があるということなのだろう。

 この友人は、絵はがきは売れないと頭から決めているようだ。売買の対象にならないという。これは蒐集品として魅力がない。と言っているのだが神田の古書店では絵はがきを売っている店があるし、デパートで開かれた古書市で絵はがきを売っている店があった、一枚1000円から100円まで値段がついていたから収集家がいるのだろう。しかしあまり高い値はつかないそうだ。

 12チャンネルTVのお宝発掘番組で大正天皇即位大典の記念絵はがきに1万円以上の値段が付いていたが、皇室絵はがきは発行部数が多いからそんな値段は付かない。あれは番組登場のお祝儀価格だそうである。

 私の友人二人はともに名所、観光地の風景絵はがきをあつめていて、報道絵はがきはほとんど無いそうだ、これは当然と思われる。この二方はともに少年時代は戦後の世代だから、報道事件絵はがきの最盛期は過ぎている。これに巡り会わなかったのは当たり前のことである。

 絵はがきのマニアックな蒐集家はあまりいないのかも知れないが、私の友人のように何となく絵はがきが手元に集まってしまったという収集家が大部分だろう。

 この友人たちが集めている風景、名所絵はがきとは別に記念絵はがきというのがある。前回に紹介した日露戦争の戦勝記念絵はがきとか陸軍大演習記念などがそれにあたる。記念絵はがきとはべつに事件絵はがきという分類もあるそうだ。各地の水害、火山の爆発、災害などあらゆる事件が絵はがきの対象になっている。

 この事件絵はがきが一時期は人気の的であったのだが、これが廃れてしまい風景絵はがき、感光名所絵はがきや美人絵はがきが一般的になってしまった。だから今の時代に絵はがき写真は報道写真であったと主張しても、これがあったことを知らない人たちには理解できないことになる。

 絵はがき=報道写真説を言う人は少ない。その中で1994年に刊行された佐藤健二さんの『風景の生産・風景の解放』(講談社選書)を読むと、こののなかに絵はがき覚え書きの項があって絵はがきを「明治のフォーカス」と位置づけて、事件絵はがきが報道写真の役割を果たしていたことを取り上げている。

 佐藤さんは記念絵はがきや事件絵はがきが、そのときその場に作られた光景を追う写真の目が、事件の際物(きわもの)感覚を育んで行った事は見落とせないと言っている。

 際物(きわもの)には限られた時期にだけ作って売る品物、一時的に世間の興味をあつめる事柄の意味があるから、事件絵はがきがそういう性格を持ち、またそう言う傾向になっていたことを言っているのだろう。

 名所絵はがきや風景絵はがきは際物と言うよりはかなりの永続性を持っていた。これに対して絵はがきの際物性については、実に大量の絵はがきが一つの事件を追って発行されたとして、絵はがき版元の一つ尚美堂の社史『尚美堂80年史』のなかの記述を借りて当時の絵はがき商売の版元たちの姿を描写している。

 北海道に大演習があれば、そこに群がり、神戸に観艦式あれば、またみんな集まって商売をするという、現代風に言えば「テキ屋」とでもいうべき集団で、それが絵はがき屋の起源になっている。したがってタチも悪く、昨今のような紳士などはいなかった。またこれらの人たちを「ネタ元」とも称し、いろいろなものをこしらえて、夜店にならべて商売をしていたが、こんな人たちの集団が後に出版業組合として誕生したのである。

 これは絵はがきは報道写真の役割を自然に果たしていたことになるが、絵はがきを作っていた人たちには、報道の使命などという感覚はまったくなかったのであろうことがわかる。

 事件絵葉がきのなかに、水害絵はがきがある。明治43年は多分、今年のように台風が多く、やたらと東京周辺で水害が起きた。これが「テキ屋」のような集団の結構な際物になったのだろう。

 ある収集家が集まった絵はがきを分類してみたら、その年、明治43年の水害絵はがきの発行は300種以上あったという、驚くべき数字だ。

写真説明
水害絵はがき2種、いずれも明治43年夏の洪水絵はがきである。
写真/上は東京、浅草公園池畔道路の洪水・天明以来125年目の東京大水害と説明が付いている。
写真/中は長野県軽井沢の水害写真、商店街の道路を滝のように水が流れている。

絵はがきは水害を際物として扱っただけでなく日露戦争を皮切りに、皇室関係、博覧会、アメリカ艦隊歓迎などと題材を求めて日本各地の行事、事件を取り上げていく。

写真/下は熊本市で開かれた御大典記念の国産共振会の記念絵はがきで大正2年、大正天皇の即位大典を記念して各地で開かれた博覧会的行事の一つであった。このような地方都市の行事に対しても絵はがき業者は商売の手を伸ばしていった。

これについて佐藤さんは、軽便なカメラの流行、普及が写す人々の広い範囲での活動を可能にし、さまざまな出来事や風物を絵はがきに記録することになった。事件絵はがきの流行は、そうした写真機・カメラを手に歩く人々の誕生が支えていたのではないか、その点で絵はがきはカメラのプライベート化の一定段階が生み出した物と考える事が出来る。としている。

絵はがき今回で終われませんでした。次回に続けます。