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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

『絵はがき』
 絵はがきを見かけなくなった。このごろ絵はがきスタイルで写真が印刷されているものといったら写真展案内のDM(ダイレクトメール)である。これも絵はがきの一つのスタイルである。

 どんな写真展でもDM案内を出すのは普通だから、どのくらいの数、これが印刷され発行されているのかわからない。写真展DMのコレクターがいるそうで、写真展の初日、会場を回ってDMを集めて歩き、写真のほうは見ないで帰ってしまう人がいるという話を聞いたことがあるからコレクターがいることは間違いない。

 小生の知人で、自分が見に行った写真展のDMは全部スクラップブックに貼って保存している人がいる。写真展DMと言う絵はがきの収集家がいるのは確かだ。

 写真展を開いたとき写真を絵はがきセットにして発売している人が多い。随分ほうぼうから写真展絵はがきは頂戴する。これは風景写真が多いようである。先日飯能写真展を見にいったときは写真展のメンバーのかたが撮影した飯能風景の絵はがきセットをいただいた。これは市で発行したものだそうだ。

 頂戴する絵はがきは多いのだが、絵はがきを買ったのはと記憶をたどってみると、数年前、越後湯沢の高原にある高山植物園で買った高山植物集というセットの絵はがきがを思い出すくらいだ。それと絵の展覧会を見にいったとき展示作品の絵はがきを買うこよがときどきあるくらいだ。

 「絵はがき」は「絵」のはがきだから、最初印刷されたのは絵であった。しかしまもなく「写真はがき」になる。これを調べてみると、日本の写真170年の歴史のなかで絵はがきが果たしてきた役割には興味をひかれるものがある。絵はがきは日本では20世紀初頭にはじまっているから、せいぜい100年だ。

 絵はがきは正確には郵便絵はがきということになる。郵便制度は明治のはじめからだが1900年に改正されて、官製だけだったはがきに私製が許されることになる。ポストカードタイプの写真はそれ以前からあった。私製はがきが許されたことで年賀はがきなどに木版印刷の絵はがきが作られる。その後は写真を印刷した絵はがきがあらわれる。

 絵はがきの始まりについては、これを研究している人は多い。これが最初の私製郵便絵はがきだというコレクションをいくつも見せられたことがある。それだけの興味だったら絵はがきに、それほどの興味は持たなかった。興味が出てきたのは絵はがきが報道写真の始まりだという意見を聞いてからだ。

 絵はがきが報道写真の始まりだとする説は、朝日新聞の先輩である小森孝之さんからそのコレクションの1部を見せてもらったときに聞いたことだ。小森さんは故人だが、在社中はアサヒカメラの編集部にいられた。大変に多趣味なかたでアマチュア無線に凝り、自宅に軍艦のような無線塔を建てたりしてアマチュア無線の世界では有名人であったようだ。

 随分昔のことだが、週刊朝日が『我が家の一枚』というタイトルで読者の愛蔵写真を募集した。この企画は何代前かのアサヒカメラ編集長、現在写真評論家の岡井耀穀さんが週刊朝日副編集長のときの発案であった。

 これは名企画と人気をよんで2年以上も連載がつづいた。このとき、絵はがき写真を応募する人がいて、この中に報道写真、ニュース写真の絵はがきが実にたくさんあることに気がついた。

 これが、小生を写真の渡来、そうして明治の写真史に興味をいだくきっかけになった。また、絵はがきにも興味を持つきっかけになる。当時、ある絵はがき蒐集家に会ったとき、絵はがきの話なら私などより、お宅(朝日新聞)に小森さんがいますよといわれてびっくりした。それまでもいろいろなところに絵はがきのことを書いていられたのだが、こちらが関心がなかったから知らなかっただけのことだった。

 小森孝之さんは日本では、絵はがきが報道写真の媒体の役目を果たしていたことを強く主張していられた。絵はがきは事件写真、世相、あらゆる出来事を写真で伝えるルポルタージュ・フォトという言いかたをされた。

 小森さんによると、「写真絵はがき」ブームが起こったのは明治37、8年の日露戦争で、この戦争の様子を通信省が記念絵はがき(6枚1組)として売り出した。これが人気を呼び何回か(10回以上発行された)発売されるこのシリーズ絵はがきを買うためにたくさんの群衆が集まった。

 当時の新聞によると東京江戸橋にあった郵便局には夜明けとともにお客が殺到し、群衆整理のため警官が出動したが、この人出で少年2人が窒息死した。と報じている。日露戦争については官製の絵はがきとは別に私製の絵はがきも大量に発行発売された。この絵はがき騒ぎがブームに火を点けた。

 情報の媒体(今の言葉ならメディアなのだろう)として絵はがきの価値を認め、これを蒐集するという 習慣が出来た。官製の日露戦争絵はがきは第二集60万組、第3集67万組が売れた記録が残っている。

 この数字がどんなに法外なものか、当時、日露戦争大勝利で部数を伸ばした朝日新聞の発行部数を見ると、大阪14万3千部、東京9万6千部、合わせて24万部であるから、これと比較しても絵はがきが新聞以上のマスメディアであったことがわかる。

写真説明
(1)明治38年(1905年)発行
   明治三十七八年戦役・陸軍凱旋観兵式記念(逓信省発行)
   奉天城内八将軍の会見 絵はがき

(2)大正三年(1914年)11月発行
   桜島鍋山大噴火の光景 (文華堂発行)絵はがき