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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

Lifeの復刊と報道写真
 アメリカのグラフ雑誌・写真週刊誌『Life』が10月から復刊されるそうだ。毎週金曜日に発行されるアメリカの新聞に折り込む形で刊行されるそうで、新聞購読者には無料になる。契約新聞がきまり折り込む部数は260万部と言われる。

 グラフジャーナリズムの衰退が言われてから久しい。『Life』の復刊は写真の世界、ジャーナリズムの世界にどんな影響を与えるのだろうか。

 そんななかで今年創刊された『DAYS』Japanの第4号7月号まで4冊を見た。広河隆一さんが編集をしてフォトジャーナリズムの復活を目指して刊行された雑誌である。第2号のパレスチナ特集に掲載されている路上に転がる死体、テロ攻撃を受け焼けたバスのなかに座ったまま死んでいる乗客の死体の写真などショッキングな写真が目を奪う。

 死体を写した写真は、ほかの戦争場面の写真と比較するとずば抜けて強烈な印象をあたえる。日本の新聞でもテレビでも残虐過ぎる場面はほとんど登場しないから珍しさで眼を奪われるのかと考えてみたが、人間には死への恐怖があるから、それだけで私たちの目はそれに釘付けになってしまうのだろう。

 DAYSを見ての感想だが、これだけテレビの画面と同時進行的にいろいろな事が起きる時代では、単純にニュースを伝えるとしての写真だけでは弱い。スチール写真としての強さ、スチールでなければ表現出来ないような写真でなければ、わざわざ見ない。そんな写真が載っていなければ雑誌を買ってくれる人はいないないではないかということだ。

 テレビの画面で通り過ぎるように眼に入ってくる映像は、強いものでも、ほとんどが一過性のものでこれを保存して何度も確かめて見ようというほどのことはない。と言うより繁忙が美徳のような現在の生活環境の中では気持ちも慌ただしく、一つのことを何度も確かめるような習慣が無くなっているせいであろう。

 言ってみれば、テレビを見ればすむことでわざわざ雑誌などを買って再確認する必要などないということだろう。写真ジャーナリズムの衰退だ。

 こんななかでの『Life』の復刊だから興味がある。どのような写真週刊誌を作るのか、広告を掲載するためだけの媒体にならないことを願うのみだ。

 このごろは報道写真と言う言葉をあまり聞かなくなった。聞かなくなったというよりは流行らなくなったのだろう。かわってフォトジャーナリズムと言う言葉のほうが使われていると言う人もいるがフォトジャーナリズムだって盛んだなどとはとっても言えない。

 東京都写真美術館では7月、世界報道写真展が開かれていた。DAYS第2号に載っていた死体の写真はこの報道写真展の入賞作品だ。報道写真展は観客もかなり入っていたからかなり関心をあつめている写真展と思われる。

 流行らないと言っても報道写真と言う言葉はそれほど聞かれない言葉ではないし、アマチュアの世界でも朝日新聞社が毎年読者から送られてくるニュース写真のなかから、年初に優れた報道写真を選ぶ催しとして読者の新聞写真コンテストを開いているから、決して無縁な言葉ではない。

 フォトジャーナリズムと報道写真と言う言葉には違いがあるようでもあり、差がないとも言える。日本では戦前から報道写真があって、フォトジャーナリズムは戦後、写真の世界にある時期から流行したものととられているようだ。

 報道写真は社会の出来事を広く知らせる写真のことで、ニュース写真とおなじ意味合いでつかわれている。

 それでは我が国では報道写真=ニュース写真はいつからはじまったのだろうか、新聞で写真が使われたのは朝日新聞では、日露戦争のときからと言うことは前回に述べたとおりだ。それ以前にはニュース写真はなかったのだろうか。

 写真学校の授業でも感光材料(フィルム)の進歩について話をするとき、必ず登場するのだが、湿板から乾板に変わった時期(この湿板も説明するのが大変に難しくなってきた)これは明治時代初めのころでのことだ。

 明治16年1883年である。このころ日本の写真師たちが輸入した乾板を使い始める。湿板というのは、ガラス板に感光乳剤を塗ってまだ乾かないうちに露出をしなければならなかった。この作業は写真師が自分でやらなければならなかった。

 乾板は今のフィルムと同じように、メーカーがガラス板に感光剤・臭化銀乳剤を塗布してあって、湿っているうちになどという手間が要らなかった。それだけでなく露出時間が大幅に短くてすむようになった。

 簡単に言えばフィルム感度が上がったといえる。湿板時代は露出の目安は秒単位であった。乾板になって分の1秒単位になった。写真師たちは20分の1秒から30分の1秒の露出が出来るようになった。

 明治16年の話に戻る。江崎礼二という写真師がいた。乾板を手に入れた。お師匠さんの下岡蓮杖から分けてもらったとか、渡米していた友人の写真師小川一真に送ったもらったとかいろいろ言われているが、この乾板で写真を撮った。

 5月19日、東京隅田川で海軍が水雷爆破実験をした。これは東京の人たちの話題になってこれを見に群衆が隅田川沿いに詰めかけたそうである。轟音とともに大きな水柱が立った。これは一瞬のことで水柱は崩れ落ち波立つ水面だけが残った。

 この水雷爆破の巨大な水柱を江崎礼二は撮影した。それまでは写真の撮影露出時間は15秒から30秒くらいかかっていた。スローシャッターである。10秒も露出していたらこの爆破の瞬間は写らない。水面と形が無くなった水煙だけが写るだけだろう。

 今まで見たことのない水柱の写真を見せられて人々はびっくりした。しかしこの写真がどのようにコミュニケーションされたかはっきりしない。焼き増しされて売られて評判になったのだろうか、印刷された形跡はない。写真の世界だけで秘かに評判になったということでもないようである。この写真1枚で江崎礼二は日本の写真史に名前を残すことになる。

 水雷爆破実験の写真はニュース写真だと思う。明治16年ではまだニュース写真というような概念はまだ無い。

 20世紀になって新聞が写真を印刷して報じるまで、報道写真はなかったのか。海外での報道写真の歴史を見ると、新聞に印刷されるようになってニュース写真の概念はかためられていくようだ。

 明治以降の日本の写真の歴史を振り返ってみると、意外なニュース写真の広がりに気がつくことになる。これは絵はがきだ。

 次回から報道写真としての絵はがきを考えてみようと思う。

写真説明
 明治16年5月19日 東京隅田川 海軍水雷爆破実験 撮影 江崎礼二