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写真出版文化の陰の力 中村春雄(中村現像所)


 中村さんはプリンターである。しかし彼の焼きは華やかな展覧会場で、多くの観客の視線の的となる印画ではなく、彼の焼きそのものに触れる人は限られた編集者だけである。これまで多くの写真集、写真雑誌の誌面を飾ったモノクロ写真の原稿は中村さんの暗室の現像液の中に浮かび上がり印刷所へ運ばれたプリントである。戦後の日本の第一線写真家の分身でもあった中村さんのプリンター転身のキッカケは、土門拳の暗室の水洗トレイに浮かんでいた一枚の写真だった。


 中村春雄さんは麹町に中村現像所としてラボを開き、長年多くの写真家の印刷原稿の現像焼き付けを行ってきた。土門拳に始まり、木村伊兵衛その他、写真集や雑誌のグラビアを飾るプリントを焼いてきた。土門拳の古寺巡礼写真集の印刷原稿や、木村伊兵衛のアサヒカメラ掲載の数々の作品など、特に晩年の「街角」に使われた写真はほとんど中村さんがプリントしたものだ。
 中村さんは大正8年生まれ、戦後新橋でカメラ店を開いた。虎ノ門通りの、駅からガードの手前の交差点の角のところにお店があった。昭和23年頃のことである。当時は戦後の写真ブームで国産の安いスプリングカメラが売れた。しかし、カメラを売っ てもうま味がない。それより現像・焼付けの方が儲かると考えた中村さんはDPの方に力を入れることにした。
 「カメラ売るよりDPの方が面白いと思ったのは、1台のカメラを売るのに1割か2割しか儲けはないでしょ。だけどそのために30分も1時間も説明したりして大変なんですよ。リコーフレックス(二眼レフ)が出た当時、何時売るっての聞いてデパートに並んで買ってきて、その8,300円でお客さんに売ったなんて結構ありましたよ。あれはよく写ったわけ。リコーフレックス売ってフィルム売るでしょ。そして旅行に行けば一コマでもって記念写真10枚や20枚焼き増しあるでしょ。だからそっちの方が率がいいなと思って、これはやり方によっては面白いとそれでDPの方に力入れるようになりました」
 「たまたま小西六にいた男が近所にいて、手伝ってもらうようになって、東京都内三カ所に店出したんですよ。東京でいちばん早くDPやったのはウチでしょ。写真というのは写した以上は早く見たいのが人情ですよ。場所は新橋だから沢山の人が勤めで新橋の駅降りて通るでしょう。その時預かって夕方帰りまでにピタッと出来上がって渡せるようにして、それでみんなに喜ばれたんです。カメラ売るのはなんだかんだで大変だけど、DPならハイ幾らで簡単に済んでしまう。だから面白いと思って」
 24時間仕上げは初めての画期的なサービスとして新聞が取材に来たほどだった。
 写真ブームに乗ってカメラ雑誌もいくつか創刊され、月例コンテストも盛んだった。中村さんは現像焼き付けを頼まれた写真の中からお客さんに内緒でこれはという作品をキャビネに伸ばし、台紙に張って名前をいれず店の中に展示した。「土門さんとのおつき合いで僕も月例やってたから、お客さんにどれが一番良いか批評してもらって番号を付けて投票させて、その良い写真に対して賞品としてフィルムを何本とか、DPを無料にするとかやりました。お客さんの了解を得ないで写真を伸ばしちゃったわけ。それで僕は土門さんに頼んで200字原稿1枚だけど、1、2、3位まで批評書いてもらったんです。僕もアマチュア写真家のハシクレで、最適のトリミングで伸ばしたものだから写真悪いわけない。だからお客さんはだんだんと引き伸ばした写真に興味をもってくるようになったんです。それまでベタだったのが、伸ばし(E=Enlarge)も加わったわけです」
 DP店からDPE店に成長したわけである。お客の中に在りし日の土門拳がいた。「キッカケはウチに材料買いに来た時。昭和23年頃、婦人画報社の帰りに寄ってフジブロムの印画紙と現像液を買って帰った。プリントを頼まれるようになったのは昭和25年頃からです。これやってみろといって。土門さんはその時分まだ有名じゃなかったから、こっちも偉い人だと思っちゃいないからね、普通だったわけ。初対面はあまりいい人じゃなかった。むしろ悪い人でね。一番最初は用事があるからと、夜の9時に明石町の家へ来いといわれ行ったわけです。ところがまだ帰ってない。当時お母さんが一緒にいて“ウチのケンちゃんは初対面の人にとても愛想が悪くて人見知りするんで申し訳ない”て云って“出たらトンボだから、何時帰ってくるか、悪いわねえ、悪いわねえ”って入れ替わり立ち替わりお茶やお菓子を2階まで持ってきてくれたんです。人に来いといって居ないなんて不届きだと内心ムカムカしていた。何時間でも待ってやろうと意固地になっていたら12時ごろ帰ってきたんだけど大した用事じゃなかったんです。明石町から新橋まで歩いて帰ったんですけど、随分人使いの荒い人だなあと快く思わなかった。だけどお母さんが“ウチのケンちゃんが、申し訳ない、悪い、悪い”と気ィ使ってくれたんで、こんな良いお母さんだから、まあ悪いヤツじゃないんだろうと思ってそれからなんですよ」「暗室で水ん中流れてる写真、たしか“風貌”の写真だったんですよ、エイトバイテンに伸ばした写真見て感激してね、こういう仕事将来やれるようになりたいなぁ、と思ったんですよ。最初土門さんのプリントやったのは「江東の子どもたち」でした。昭和28年、「江東の子どもたち」は高島屋で展覧会やった一番最初でしたよ」
 それまでのDPの仕事と違って、ネガとプリントの調子には随分気を使った。一緒に印刷所へ行った時の印刷技師とのやりとりを聞いて、だんだん分かるようになった。「手取り足取り説明する人じゃないから、言いたいことは目を見て分かって、こっちで反応してやらないと、口よりも手が早い人でした」「土門さんの場合、指定現像より30秒ぐらい多めに現像するようになりました。これは長くやってきて経験から学んだことで、その方がしっくりしてくるんです。薬のことですけれど、僕の持論では薬に金を惜しむな、取り替えるの面倒くさがらないということ。薬が疲れて来ればそれだけ露光かけなければならないでしょう。すると上がったとき表現が違ってくる。そして定着液は必ず二浴使う方がいいですね。フィルムもそう、特に印画紙なんか締まりが違いますからね」
 土門拳以外の写真家のプリントも手がけるようになる。撮影したばかりのプロの未現フィルムが持ち込まれ、送られてくる。急ぎの場合が多く、失敗は許されない。「時間現像ってのは僕はやらなかった。心配だから出来ない。写した!と思って持ってくるフィルムだから、預かった以上は絶対に映像を出さなきゃいけないでしょう。時間で打ち切るってことはとても怖くて出来なかった」だから必ず目で見てやる。真っ暗な暗室でも5分ぐらい入っていれば目が慣れて、さっと10コマぐらい目を通して確認する。
 「薬は新液と少し使ったヤツと、うんと使い込んだのと、焼き鳥のタレみたいなドロドロの液、という表現が昔あったけど三種類用意していた。ドロドロの液は露出たっぷりかけた婦人科の仕事に向いていたけど、土門さんのような『社会科』の仕事は現像液新しいのが良かった。僕のところでは76を調合しますけど、普通1対1のを1対2にしていました。JPSで後藤九さんがテストした時、ウチの1対2の液が粒状の出が一番良かったと報告されましたよ」プリントの表現に現像テクニックが影響を及ぼすようになる。
 「粒子の輪郭がハッキリ出る荒れた写真は土門さんが初めてやったんです。これは黛敏郎を撮ったもので、粒子を荒らした表現が注目されましたよ。昭和29年でしたか、それから荒れた写真が流行ってきたんです。その時どうして荒れた写真が出来たかっていうと、土門さんが眠っちゃったんですよ暗室で現像していて、現像液から出すの忘れちゃって、あれは事故だったんです。もう一つは『冬枯れ』っていう写真、カメラ誌に出したものだけど。それは定着液の温度が高過ぎてひび割れしちゃったわけ、そのひび割れしたフィルムを硬い紙で焼いて冬枯れの感じ出したんです」
 増刊現像液使ったから荒れた写真ができるってわけじゃない。無理に荒らそうと普通の露出なのに現像をオーバーにするとネガの粒状が立たずボソボソになってしまうという。ブレボケが写真表現の先端技術となるのはそれから10年後のことである。
 土門拳が「筑豊の子どもたち」などのルポルタージュで使った粒子の荒れた表現はネガの処理はもちろんだが、引き伸ばしの技術に影響を与える。「粒状を表現しようとしたら、その精度を出すためにはチャチな引き伸ばし機じゃダメ、いい伸ばし機といいレンズがなければだめですね。ウチでもフォコマートの伸ばし機使っていましたがフォコマートはレンズが固いんですね。そこでいろいろやってみて、中庸度のネガにちょうど良いのはELニッコールがだったんです。といってもこのニッコールのレンズを他の伸ばし機につけてもその精度は出ません。だから伸ばし機とレンズは使い分けました。たとえば木村さんのような薄いネガの場合はフォコターが良くて、土門先生の写真の場合は割合中庸度で、ネガも僕が自分で現像あげて分かっているからニッコールが多かったです。」「ELニッコールだって、診断室(アサヒカメラ「ニューフェース診断室の試写プリント」)に使うから万全を期してね、レンズを問屋から仕入れるとき10個ぐらい持ってきてもらうんですよ。それを全部、もちろん検査済みのものですけれど、カメラの分解やってた麹町の貫井さんのところへ持って行ってテストしてもらって、その中から一つだけいいの出すんです。やはりそれぞれバラツキあるんですね」
 35ミリはフォコマートを主に使い、レンズはネガの調子を見て硬いのはニッコール、ちょっと薄い場合はロッコールを、フォコターはもっと薄いネガ、と使い分けた。土門拳の場合、35ミリから6x6、4x5では戦前の乾板の時代まで原板の種類も多かった。しかし土門拳は内容によってフィルムサイズを変えたわけだから、ネガのサイズによって混乱することはなかった。4x5乾板の伸ばしに使ったシノックスは現在、酒田市の土門記念館にある。
「当時の印画紙ではイルフォードの紙が良かったですね、イルフォー・ブロムというのが。土門さんはグロッシー(光沢のある)が好きでグロッシーでやったけど、木村(伊兵衛)さんは最初からフジブロムのAMが好きでした。マットのね。割合トロッとした写真が好きでした。土門さんはそのトロッがあんまり好きじゃなくて、メリハリついた写真が好きでトーンにはやかましかった」 様々な写真家の伸ばしが持ち込まれる。
「いちばんうるせぇなーと思ったのは、岩波の「世界」から頼まれたKという写真家で、『感じ』がどうのこうのなんで、トーンがどうのと具体的じゃない。 こっちは初めての人だというんでトーンを2〜3通りの段階に分けて焼いて持って行ったけど、『こんな感じじゃない、自分が撮影したときのイメージと違うんだ』といって、どこがどうだって云わないのが困りましたよ。こっちも勝手にしろって。そうなったらやる気ないですよこっちも。コンチクショウってもので、そういう訳の分からないのもいましたよ」
 初めてプリントを引き受ける写真家に対しては調子の異なる3段階の焼きを持って行くのが常だった。
 「ブレッソンの現像の仕事もらったときも同じでしたよ。朝日の大束元さんの紹介で、ブレッソンだって云わないんです、大束さんがフランスに行ったときお世話になった写真家だが、日本で仕事をするから現像手伝ってくれないかって、それじゃどの位の調子の写真が好きなんですかって聞いたら、フィルム持ってるからと3本預かりました。ウチでは76の新液と中と古いのと三通り現像液用意していたから、その3液で一緒の時間に上がるように現像して、近所の喫茶店で待っててもらって、急いで現像して乾かして持っていきました。そしたら、その“中”が良いっていうことになりました。“中”というのは新液から何本か現像すると液がこなれてくるでしょ、20本位現像したやつですよ。
 それでブレッソンは東北からずっと九州まで撮影に行ったんですよ、最初は東北の田園風景撮ったのフィルムが来たんですよ。まあ、何ということない写真だな思ったんですよ。ブレッソンってこと聞いてないからね。まあ旅行者だなっていう写真だったんですよ。だけどそれからだんだん東京に入ってきたら、少しずつ写真が違ってきたので、これは唯の旅行者じゃないと思って、最後までブレッソンていわなかったから安心して仕事できましたよ。最初からブレッソンと知ってたらブルっちゃってどうでしたか。その時は現像してプリントは2枚ずつ、1枚を手元に置いて、1枚をフランスに送ってましたよ。後でブレッソンだったと知ってビックリしましたよ。当時私たちアマチュアにとっては神様みたいな人だからね。他に外国の写真家ではダンカン、三木淳さんの紹介でね。そのほか英国の王室の写真家だとか、東京オリンピックの時のライフのカメラマンとかいましたね」
 プリントの種類も増えてくる。
 「岩波の『奈良六大寺大観(全14巻)と奈良古寺大観(全6巻)』は25年かかりました。これはいろんな人が撮りましてね。それらのモノクロは全部私のところでやりました。土門さんから、渡辺義雄さん、奈良の方の入江泰吉さん、あまり写真撮らなかった薗部さんや京都の便利堂の人、京都の方の美術館で専門に撮っている人とかいろんな人全部焼いたんです。これは笑い話なんですけどね、土門さんならここにピント合わせればどこでもピント合っているんですよ。悪いんだけど入江さんのはピントが浅い。だからここで合ってるんだけどこっちは合わない。それはおかしいっていうんで、テストチャート入れていろいろ調べても被写界深度が浅いからピントが合わない。渡辺義雄先生もどちらかというと深度が浅かった。本人にとってはちゃんと印刷されなきゃ困るでしょ。一冊の本にバラツキあっちゃね。だからバラツキないように焼くのがね大変でした」
 ピントが合っていない写真を焼かなければならないプリンターは一体どんな気持ちでプリントするのだろうか。笑えない話である。
 最近は良い印画紙がなくなった。英国イルフォードのイルフォブローム、富士フィルムのAMはすでにない。乾きが早く仕事もはかどるRCペーパー全盛でオリエンタルだけがバライタで頑張っている。
 「メーカーの怠慢です。硬過ぎて昔のような調子がないんです。今はみんな露光と現像液で軟調にして、ごまかしごまかし焼いています。満足して紙焼いている人は皆無でしょう。みんなそれぞれ骨をおっているんです。私?もうやりたくないですね」と淋しそうだった。

Reported by Hiroshi Tani.