1995/8/31 No.16 NEWS LETTER for Photo Lover

写真にできることを考える『やわらかく重く 現代日本美術の場と空間』

埼玉県・オハイ州交流美術展より 村上慎二 『Tide pool水平線より手前の話』
埼玉県立近代美術館(6・10-7・30) 鳥原 学

 埼玉近代美術館のグループ展覧会に村上慎二が『Tidepool水平線より手前の話』を出品した。
 村上が93年の秋にルナミ画廓で展開し始めた『Tidepool』が94年のアートグラ フでの『Tidepool2一写真忘ルベカラズー』を経てどのように展開したのだろうか?
 タイトルにあるように、これは現代美術という枠組みでの展覧会であった。よく言われるように歴史的な背景やメディアとしての違いにより、現代美術の文脈と写真の文脈の違いというものは確かにある。しかし、ある写真を見てそれがどちらの文脈に所属するのかといった問いを持つこと、また答えることに私は趣味がない。それより、それがなぜ写真でなければならないのか、そしてその写真は写真の可能性を拡張することを目指してい る要素があるのか、ということの方が重要なように思うからだ。
 カメラ、レンズ、フィルム、印画紙の持つ機能を使って「もの」を認識し、発見する人が写真家である。 彼らの自我の表出は眼前の現実の事象と使用する機材に制約される、同時にそれはそれを使用することでしか得られない表現の可能性の追求でもある(例えばそのことは、素材としての鉄を使う彫刻家は鉄という素材の物質特性に制約されるが、彼が鉄にしか成し得ない表現へとの彼の自我が昇華されることを望むことと同じ問題である。そういう観点を持つから現代美術という枠組みは平面も、立体も、写真も、ビデオも等価に扱えるのだろう)。その意味においては、現代美術としての写真であろうと、写真としての写真であろうと写真をするものが直面する基本的な間題には違いがないのではなかろうか?
 話が脱線してしまった。村上慎二の写真の話を始める。 村上の写真画像は判然としないイメージと、それ故の緊張感を持っている。それらはレンズをはずすことによって、あるいは夜間の長々時間露光によってもたらされる。村上はそれらの行為により写真の解休を目指したわけではなく、写真の機能の一群を喪失または 特化させることによって、写真を発見しようとしたのだと私は思う。
 自己に課せられた制約こそ自己を自己たらしめる要素にほかならないという、強迫観念 に近い認識が村上には確かにあった。そんな村上のTidepool(海岸の潮溜りの意)に向か い合って3年目の展開は、それまでとはかなり違った印象を与えていた。簡単に言えば分 かりやすくなっていたのだ。
 いつもの彼の展示のようにプリントは額装をせず一直線に並ぺられ、壁面に張りつけられていた。作品は16×20インチのぺ一パーにスクエアのフォーマットの画像をプリントしたものであった。対面する壁面の一方が太平洋岸で、もう一方が日本海岸を撮ったもの であるとキャプションに記されていた。画像には、海と陸の境から水平線そしてわずかな 空があり、水平線の位置はそろえられてあった。さっき書いたように彼の今回の写真は分かりやすかった。彼が撮影した海岸線に何があるのかがはっきりわかること、それでいて2分間の露光時間がもたらした画像の漂うような美しさがその原因であった。また、太平洋岸においての静岡から神奈川まで、日本海岸における富山から新潟までの等距離の『移動』ということも、写真的な事象に還元されて解釈されやすいことだろう。
 以上のことから、今回の村上は明らかに意識していたことがあったのだ。彼の写真家として求めていた問題である画像構成や機材の機能という「写真の中の問題」を踏まえつつ、それ以上に写真家として「何を見せ得るか?」ということを。つまり、作品が成立する大前提である、見に来る「観客」へのアプローチを。そう、村上は観客に如何に想像力を働かせることが出来るのかを考えていたように思う。
 「はっきりわかる被写体」、「美しい画像」、「移動という行為」これらのヒントを見せながら村上はその回答を示さない。ただ日本は海に囲まれていることだけを見せてみたのだ。作品の意味は見た人間の頭の中にそれぞれ生まれれば良い。
 写真の画像を生産する機能と同じか、それ以上に写真の可能性を広げ得ることを村上は 『Tidepool』を見ながら考えていたのか。写真が持つ多様な可能性は優れた作家だけが作り出すものではなく、良き観客と作品の交流によって生まれるのであるとすれば、少しは 写真とかかわることにも希望がある。


Essay & Poem

萩原朔太郎 写真作品 のすたるじや
  詩人が撮ったもうひとつの原風景 高橋 理恵
(萩原朔太郎写真展・1995.5.11〜6.25 東京神宮前 ワタリウム美術館)で開催

彼は自分の想いを閉じ込めた。
四角い箱の中に
その中で彼のノスタルジーは広がっていく、奥へ奥へと。
その中は、彼の意識の自由に遊ぶことのできる世界 その瞬間のその情景の中に彼のノスタルジ一は解き放たれていく
ある時、ある場所で、彼は情景を写真に閉じ込めた 彼をそこへと呼んでやまぬある種の力のために
バックグラウンドミュ−ジックはSound of Silence
そこは賑やかではなかった
そこに聞こえるのは、静寂の音―波の音、川のせせらぎ、草木のさやめき、田舎道の 陽射し
そんな営みへのいとおしさか
彼の帰る場所はそこだとでもいうかのように―人気のない通り
彼はそこから来てそこへ帰るのか
彼は、何処かからきてそこへ行くのか
いや、彼は、通行人なのか
日向ぼっこをする写真のなかの彼は、彼なのか
それは、彼のノスタルジーのために撮られた彼なのか
ノスタルジー…それはひとりひとりのためにある言葉
それは、ひとりひとりにおいて、意味を発揮すること
そして、彼の写真は彼において意味を恐らく発揮するだろう
私たちがそこに聞くのは Sound of Silence
ある時代に、そして今も、彼が有名な詩人であったにせよ
なかったにせよ
そこに聞こえるのは Sound of Silence
(共有できる視点を今持つとしたら、それは現代再びこの時、そして彼が有名な詩人だということ)
彼は写真を撮り、それを「のすたるじや」の故とし、自分の想いを閉じ込めた
今、静かに取り出された詩人の写真たちは、
白日の下で少し照れくさげに、所在無さげにしているのかもしれない
それは、私たちひとりひとりにおけるノスタルジアにも似て
いたずらを見つかった子供のよううに。


Liquor & Wine

酒の数だけ楽しみがある。呑み手の数だけ楽しみがある。
おすすめ品コ−ナー 村上慎二

 「下戸の村上が、酒のことを言ったり書いたりしておるけど、ありゃあ、本当に呑めるのか?」という話をしている人がいることを、先日、アートグラフの鳥原氏からうかがった。その昔、酒を呑み過ぎて嫌になってしまったのが本当の話なのだ。しかし、その頃は、贅沢なことにブランデーやスコッチなどのけっこうな上物で飽きてしまったのだ。
 ある日私は、奥多摩の酒で「澤乃井(本醸造)」をのむ機会を得た。これが日本酒の認識を改めるきっかけになった。それまでは、日本酒はアホが呑むものだ!と思っていたほど悪酔いする印象しか持っていなかった。それ以前に、「越乃寒梅(本醸造)」を呑んだことはあったが、この酒は幻の名酒と呼ばれていたので、これは日本酒としても例外だと思っていたのだ。
  そんな経験からもう十年以上が過ぎて、量は呑まないが、美味しい酒を少しいただいて科理を楽しむという、言葉で書くととてもリッチな生活をしているように思われることを楽しんでいる。先日も、遠縁が宮城県の気仙沼にいる関係で、鮮度の良いウニが送られてきたので、ちょうどあった「純米・神亀(生)」とウニで、もう、シンカメ→ウニ→シンカメ→ウニ、状態で止まらないのだ。お互いの相乗効果というべきか、神亀はウニを、ウ二は神亀をヨイショしているというか、神亀の甘さとウニの甘さが迫ってくるわけで、しかし、神亀のコクがその甘さを引き締めつつ、更に甘さを際立たせている………といった冷静さを失う状態だったのだ。
 私が、大の神亀ファンであることを知ってしまったご近所の酒屋の若且那が、ある日、私に手招きして勧める酒があった。「三井の寿・特別本醸造(生)」、これは福岡の酒である。以前、鳥原氏が貸してくれた「酒の戦記・尾瀬あきら著(ゆい書房)」にも書かれていた蔵元の溜だ。この酒もまた、焼いたサンマ(ちなみにこれも三陸直送の無茶苦茶いい素材!)との相性バッチリで、もう、理性を失っていた。(昔、私はサンマを毎日食べ続けて、ついにジンマシンがでるまでになってしまったことがあるので、気をつけて食さないといけないのだ。)
 それにしても、食のことを文章で表現して伝えることの困難さは大変なものだ。かの「科裡の鉄人」を見ていても、テレビでは匂いが伝わってこないし、テイスターの臭い表情とお言葉に、イライラしてくるものだ。そう言えば、ワイン狂の東京国立近代美術館の千葉成夫氏の「奇跡の器 デルフトのフェルメール(五柳書院)」という本も、素材がいいから素晴らしい本だ!なんて言ってしまったら、身も蓋もないのだが、読んでいて、私の目の前にその作品が無いことにイライラし、しかし、読み終わってみれぱ、一冊の本として、一本の三井の寿のように楽しませてくれた。酒の数だけ楽しみがある。呑み手の数だけ楽しみがある。さすが、ワイン党の千葉氏は、美術作品においてもそんな見方を持っているように感じられた。自由に広がりのある本だと思う。楽しかった。


Look at me!

ダイアン・アーバス 1923. 3 〜 1971. 7【16】
愛を求め、世界を吟味し、写真に生きた写真家ダイアン・アーバスの言葉で綴る物語
構成 橋本有希子

ワークショップは集まった生徒達の前で、ブロドヴィッチが生徒の作品を検討するというかたちで進められる。作品を一点づつとりあげて、「衝撃度」「演出効果」「意外性」を吟味して行くのだが、その批評は意地が悪く、めったにほめることがない。 ブロドヴィッチの人柄に好感が持てない。彼が近寄り難い雰囲気を漂わせて生徒を罵倒するのもいやだ。それに彼の方法は単調で偏狭に過ぎる。ブロドヴィッチが強調したのは視覚的な一貫性。しかし、私が関心を持つのは、存在の神秘を暗示するもの、たとえどんなに見苦しくても人の心の奥底にある暗い秘密なのだ。ブロドヴィッチは秘密など念頭にない。
「商業写真家の生命は蝶の生命と同じようにはかない。才能を枯渇させずに8年以上仕事を続けられるカメラマンなどまずいない。」この彼の言葉をきっかけに、ワークショップには参加しないことにした。

6 リゼット・モデルとの出会い

もう一度世界最初の写真に立ち返って勉強をしよう。1826年頃に、写真の父といわれるフランス人のジョゼフ・ニエプスが自宅の窓から庭を写したぼけた写真。イギリスの女性で、アマチュアとしてカメラを手にしたジュリア・カメロンの19世紀風の現実離れしたポートレート、報道写真家の先駆、マシュ ・ブラディによる南北戦争の戦場の記録写真、ポール・ストランド、ドキュメンタリー写真家ルイス・ハインの力強い写真………
なかでも、ルイス・ファウラーやロバート・フランクといった同時代の写真家たちの作品に共感を覚える。しかしそれらよりももっと強い印象を受けたのは、グロテスクなものを追及したリゼット・モデル。彼女が臨床的といえるほど冷めた目で貧苦と老いのもたらす醜さを記録した作品に。彼女は、全身でカメラを駆使し、その目については、「最も写真的な感覚を備えた目」と言われている。

リゼットに電話した。「作品を売ってほしい、無理なら借りて拝見させてほしい」と。断られた。諦めずにお願いし続けたら、リゼットは根負けしたのか、ニュースクールの彼女のクラスに出席することをすすめてくれた。さっそく、入学手続きをとった。

リゼットのクラスでは、彼女の言葉が誤って引用されるのを恐れて、彼女は生徒達にノートをとることを禁じている。しかし、講義を始めると彼女はとても雄弁になり、お得意の寸言をはさむ。「カメラは探知の道具です。私たちは自分の知っているものや知らないものを撮影する。何かにカメラを向けるとき、それは一つの問いかけであり、時には写真がその答えとなるのです。言い換えれば、撮ることによって何かを証明しようというのではなく、それによって何かを教えてもらうということです。」

彼女の基本的なテーマは以下のとおり。 「写真は人間の視野を拡大したが、その過程を我々はまだ理解出来ない。写真は最初、迷信と見なされた。それは今ややみがたい渇望となっている。肉眼で見えるものとレンズを通して見えるものとの間には大きな違いがある。3次元の世界を2次元の平面に写し変えることで写真は生かされもし、殺されもする。」
写真家が行わなければならない選択。
「カメラを選び、レンズやフィルターを選び、被写体を決め、それに対する自分自身の感情を見極める。」
写真の技術について多くのことが語られた。「つまるところテクニックは忘れてしまわなければならない。写真とは絵を作ることなのだ。」
最初の課題は、これまで撮影したことのないものを撮ること。ピカソのように顔を撮ることも指示した。また、フィルムを詰めていないカメラをもってニューヨークの通りを歩き回るようすすめた。「シャッターを押すのは、対象にみぞおちを一撃されたときだけにしなさい。」
写真における光の重要性についての講義もあった。

写真家と被写体の関係も論題になった。「それは対決にもなれば対話にもなり、あるいは感動的な出会いにもなるが、写真を納得行くものにするには何らかのかたちで魂の交流が絶対に必要だ。」

モデルに提出した私の最初の作品のタイトルは「雲間に浮かぶ小さな風船……はかなく………頼りなげな」

ロウアーイーストサイドでの野外実習へ二人の娘を連れて参加した。そこでリゼットに写真が撮れないと打ち明けた。モデルは私に理由を尋ね、「自分の主題を見極めるように」と言った。「じっくりと考えてみる」と答えた。

次の授業でリゼットにこう言った。 「私の撮りたいのは、悪いものです。」
「悪いものでも何でも、撮らなければならないと思う対象を撮らなければ、写真は撮れません。」とりゼット。
そう、かねてから興味があったのは、倒錯者や世間からつまはじきにされる人間、極端に走る人々なのだ。それは、「親類の頭のおかしい女性をジロジロ見てはいけない。」と母親から言われてからだった。口紅を塗りたくり、ラセックスの店で傍若無人に振る舞うあの女性。彼女のフクロウのような目に浮かんだ恐怖と孤独をとらえたかった。
モデルに励まされ、ようやくこれまで直視するのを恐れていた人や場所を記録し始めた。恐怖の中にこそ素晴らしいものが潜んでいる。

よくDラインの電車に乗ってコニーアイランドへ行く。ある日スティルウィル・アベニューの安アパートに目をとめて中へ入った所、そこが本当はホテルで、ぼけかかった老人たちやけたたましく吠える犬がいることを知った。何時間も写真を撮った。何度もコニーアイランドへ足を連び、ろう人形館をのぞき、プエルトリコ人の母親や、刺青をした人などを写して歩いた。

刺青をした人が気になる。刺青にまつわる儀式めいた隠微な手続きには、伝統芸術と肉体的苦痛と官能性が結び付いている。
相手かまわず刺青をしたわけを尋ねてみた。装飾として?あるいは傷を隠すため?それとも勇気を試そうとして?………いろんな話をしながら、シャッタ一を切る。その度に、刺青師の視線が凍りつく。いつも苦労するのは、自分の内気さを克服し、写真を撮らせてくれと人に頼まねばならないこと。男女を問わず相手を呼び止めて声をかける。「まあ素敵な方ですね。写真を撮らせてくださいません?」相手は一瞬ひるんで口ごもりながらも、結局は同意する。
私はいつもおびえている。しかし、その恐怖が私を奮い立たせ、心の目を開き無気力と沈滞を吹き飛ばしてくれる。 写真を撮ることは、自分自身を他者の目で見るという契機を伴う深遠な体験。カメラの前に立つことによって、人は自分自身から抜け出して客体となることを余儀なくされる。すると、その人はもはや自己ではなくなり、それでも自らそうだと想像する自己になろうとする。人は自分の肉体から抜け出て他者の体内に入り込むことはできない。それこそ写真がやろうとすることだ。 「カメラを手放さない」と断言し、いつもカメラを携帯している。カメラを持っていれば人々は自分に注意を払う。人々は敬遠し、距離を置こうとする。そこに空間が生まれる。初めのうちは、人々を環境ともども遠くから写していたが、次第にクローズアップが多くなってきた。被写体と足並みをそろえて、ゆっくり慎重に、自分の作風を確立し、人間の孤立と孤独についての認識を深めていこう。
孤立した人間の姿にも社会の本質的な側面を投影させられる。これは、リゼットモデルから学んだ。イメージをあいまいにしてはいけないとも教えられた。時が経つにつれ主題は明確になってきている。

35ミリカメラを使った粗い粒子の表現効果に惹かれている。粒子の小さな点によって一種のタペストリーが作れるし、あらゆるものが粒子の点に還元できる。人間の皮膚は水と同じだったし、空も同じ。そこに介在するのは光と影。

一日の撮影から戻ると、暗室で何本ものフィルムを処理する。
人気のない夕暮れの陰気なセントラルパーク ロウソクをもち、魅入られたように炎を見つめる10代の知恵遅れの少年の影………。

「死刑囚の写真を撮りたい。」とモデルに相談を持ちかけた。また、「知り合いの娼婦はいませんか?」ともたずねた。モデルはこう答えた。「あなた、あの人たちだって生活のために働いているのですよ。そっとして置いてあげなさい。」

とうとう自分の師を見つけた。

今のところ、写真を撮るのは、スケジュールに都合がついたときだけ。メイドがやめたので、娘たちの世話や家事に迫われている。


編集後記

 編集同人
  谷  博
  鳥原 学
  村上 慎二
  平井 正義
  橋本有希子
  高橋 明彦
  佐藤 正夫
  野嵜 雄一

Renaissant 第16号をお送りします。大変お待たせしてしまって、約1カ月ぶりの発信になりました。特別な事情があったわけではありませんが、このひと月の経つのはまったく早いものでした。
 この夏は戦後50年を主題とした写真展が各地の会場で熱い雰囲気で開かれた年でした。
 いよいよ秋、写真展も新しい装いで、新しい企画と新しい作品が登場してくることを期待します。
 このページにもありますように、Renaissant Work Shopもいよいよ10月7日より始まります。Work Shopの展開もふくめて、Renaissantは写真にできること、写真が拓く世界について考え続けていきたいと決意する次第です。(tan)

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