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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


第6章 『日常―中平卓馬の現在』展

[1]表現から遠くはなれて

 中平卓馬の近作は果たして前章で私が結論したような「普通の写真」なのであろうか。普通であるはずのそれらの写真は私の頭から離れないし、普通の写真とは一体何なのかさえだんだんと定かではなくなってくる。中平の近作を見るに伴う生理的な痛みともいえるものに耐えながら、もう少し検証しなければならないだろう。

 最後の写真集である『AdieuaX』以降、写真にも「あばよ」(※76)と告げたはずの中平卓馬はそこから新たに撮影行為を始め、黙々と自宅の周辺である横浜、川崎、世田谷など自転車で行ける範囲とその近辺を撮影しに出かけていた。そのようにして撮りためられた写真によって1997年に名古屋(中京大学 C.スクエア)で中平卓馬写真展『日常 中平卓馬の現在』(※77)が行われた。

中平にとって写真を選ぶというのはそうとう困難な作業であったようで、セレクションは毎日のように変わり、先ほど決めたばかりのはずの写真がすぐに変更されたりもしたようだ。地面に座り込んでいる人、畑仕事をしている人、ベンチで寝ている人などが視線の合わないところから100ミリの長焦点レンズで捉えられていて、それらが2枚1組で並べられている。写真は全て縦位置で撮られており、裁ち落としの枠からははみ出している被写体もいくつかある。被写体はほぼ一つに絞られ、それにピントが合わせられている。そのほかに目につくのは象、ライオン、シマウマ(※78)、犬、鳥、リスなどの動物と木立、花などの植物、焚き火、看板などであり、なかには緑色の奇妙な光が写りこんでいるものや極端に露出不足、露出過多なものもある。人間は全て回りこんで撮られているのに対し、動物は正面から撮られているものが多い。

 中平によってまなざされたものたちがそのまま無造作に長焦点レンズで捉えられ、白い壁には構図も意図も思想のにおいも「何もない写真」群が展示されていた。この写真展の4年前、中平の自宅を訪れ、部屋に散乱する写真を見た大竹昭子が「これ以上普通になりようがない」といったのは、それらがまさしく写真であること以外の何物でもなく、「芸術」や「作品」という言葉から離れて、ただ「写真」としか呼びようのない何かだったからであろう。写真の制度的な殻が破られた後そこに残ったのは、中平卓馬の(裁ち落としの)日常の破片であり、「写真」という異物であった。あらゆる修辞と共示をかいくぐりながら切られるシャッターによって、それを見る我々に全てが無防備に委ねられているがゆえに、そのような写真を前にして我々の固定化したまなざしは動揺し、ただ「猫がいる」とか「人が寝ている」と呟くしかないのだろう。

 中平卓馬という撮影者が「アノニマスの極めて近くにいる」(※79)が故に彼の写真は普通の写真、あるいはそれに似た何かに見えてしまうのかもしれないし、森山大道のいうように「中平の写真の持つメッセージは写真そのものの持つ原初的メッセージと同じなので、見る方がそれを読みとるコードを持たなければ無意味となる」(※80)ということかもしれない。しかし、森山のように我々に向かって(無防備に)開かれているか弱いそれらの写真を注視することによって、そこに中平の身体の気配や、そこに刻まれた中平と世界との「関係そのもの」を触知することは可能だろう。そしてそれらは我々の共有する言語やコードとは離れた独自のパースペクティヴと写真言語から成っているために見慣れた被写体が見慣れない「写真的風景」としてたち現れてくるのだ。あらゆる写真的修辞をかいくぐり、可視と不可視の境界線上を漂い続ける写真を前にそれでもなお見ることのできるものに我々は目を凝らさねばなるまい。

[2]天使のまなざし

 中平は対象(人間)に直接働きかけるのではなく、少し離れた位置から回り込んでそっとシャッターボタンを押す。この写真展を訪れた谷口雅は、「われわれがこうあるべきと思い、語り継いできた[写真]をいっさいキャンセルしてしまう」(※81)ような我々とは違った「写真的記憶」でできているこれらの写真に困惑しながらも、「危険を本能的に回避していく、自己保存」(※82)のようなものではないかともらしている。

 撮影の瞬間、カメラという異物の磁力は最小限に抑えられ、(「危険」であるがゆえに)被写体との能動的なコミュニケーションもそこにはなく、あくまで「観察者」に留まり続ける中平の身振りはヴェンダースの「天使」(※83)を思い起こさせる。中平がカメラを半ば身体化することによって獲得した眼差し(カメラの受動的な視線)は天使的な慈悲(あるいは無意識)に浸透されていたかもしれないし、それはヴェンダースのいうような「汚れのないまなざし」、「何かを決めつけることなく、すべてを開かれたままにしておくまなざし」、「分類しようと思わずに現像をありのままに見つめるまなざし」(※84)に近いものであっただろう。そして、それは絶え間なく放射され続け、あらゆるものに無差別的に注がれる慈悲の光で覆われた世界をあまねく「等価」に受けとめてしまう「カメラのまなざし」とも言い換えられる。ヴェンダースの天使たちは何も経験しないし、知覚もしない。直接人間と対話することなく、あらゆる人間的実践からも遠いところにいる天使は、いかなるベルリンの歴史にも介入することなく、無力でしかなかった者たちのことである。『ベルリン 天使の詩』での天使ダミエル(※85)が他者を愛したがゆえに天使たる事を放棄し、有限で一回的な世界を生きようとするシーンでの台詞を引用しよう。

 永劫のときに漂うよりも自分の重さを感じたい。
 ぼくを大地に縛りつける重さを 永遠の幻
 自分の歴史を手にする
 天井で眺められた知識をこれからは地上で生かしていく
 間近で見、聞き、嗅ぐことに耐える。
 外はもう十分だ 世界の外はもういい
 不在はもういい 世界の歴史に入っていく
 リンゴをつかむのさ
 ほら 川面に浮いていた羽がもう消えた
 見ろよ ブレーキの跡
 ほら 吸殻が転がる
 太鼓の川はとうに干上がり 今日できた水たまりが震えている
 世界の背後の世界などご免だ!(※86)

 近年の中平卓馬は以前のように現状に加担することも学生や写真家をアジテートする事も積極的に撮影対象である人間に働きかけることさえなく、ただ黙々と彼自身にとっての現実である自宅周辺を撮影し続けている。

 確かに存在と非存在の間にすべりこむ身体を有した「幻のもうひとり」(※87)であるという点では中平は天使的であるだろし、かつて中平がいったようにカメラとは「限定された四角いのぞき穴」であるがゆえに世界を主体と客体に分離してしまう近代的な装置かもしれないが、中平がいる場所はカメラのこちら側であって世界の背後ではないし、ましてや暗箱の中でもない。中平は世界にあふれる光のなかで護身用の道具(※88)のようにカメラを抱え、その対象物とともに身体を晒しながらも、シャッターボタンだけは押し続けることによってかろうじて世界とつながり、世界に対して働きかけ得ているのだ。そして、その事によってかろうじて中平は「元天使」たりえる、より正確にいえば「天使」と「元天使」との間で漂っているのだろう…。

第一部 完

<註>
(※76)
パラドクスを生き上げる写真家にとって「あばよ」という言葉はほとんど意味をなさず、「こんにちは」と同義であったのだろう。
(※77)『日常―中平卓馬の現在』展 担当キュレイター森本悟郎 1997年6月16〜7月12日に中京大学アートギャラリー「C.スクエア」で開催。森本氏によると整理されていない写真群は何年にと撮影されたのか判別不可能であったようだが、その中から中平自身のセレクションにより、52枚が選ばれ本人の希望により2枚1組、26組が展示された(小動物と人間の組み合わせが多い)。オープニングには高梨豊と赤瀬川原平によるトークショーが行われたが、話の内容は中平の写真についてではなくなぜか写真と絵画についてだったようだ。
(※78)横浜の「野毛山動物公園」にて撮影されたもの
(※79)西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)1996 p.126
(※80)写真展の案内状を見た森山大道の言葉を引用しよう。「中平卓馬の日常に映ったさまざまな断片が、長焦点レンズで何の作為もけれん味もなく切り撮られてある。僕の目にそれらの写真は、名刺判程度の小サイズとレイアウトのせいもあって、一見アマチュアコンテストの初級コースの写真か、アマチュア向けの作例写真のようにも見えてくる。しかし、その十点のカットをもう一度まじまじと、つくづくと眺めていると、ああそこには、まぎれもない中平卓馬が居るのだと、しかも変わらぬメッセージと共にあるのだと、実感する。」(『犬の記憶 終章』より 1999、朝日新聞社)
(※81)谷口雅『日本カメラ』展評より 1997年8月号
(※82)『main』6号 1998より 谷口雅は危険を回避する行動パターンという分析よりも「それでもなおかつ写真を撮りたい、ファインダーをのぞいていたい」ということの方が問題であると語っている。
(※83)『ベルリン 天使の詩』ヴィム・ヴェンダース監督 1987年(西独、仏合作)
(※84)『天使のまなざし』ヴィム・ヴェンダース監督インタビューより(フィルムアート社)
(※85)ブルーノ・ガンツ演じる天使ダミエルは人間の女性(ソルベィグ・ドマルタン演じるブランコ乗り)を愛するがゆえに天使であることをやめ、人間になろうとする。
(※86)映画『ベルリン 天使の詩』より(ヴィム・ヴェンダース監督)
(※87)三浦雅士は『幻のもうひとり』のなかで写真家を状況に関わる事のできない、その状況から常にはみ出した「幻のもうひとり」として論じている
(※88)写真展の案内状のなかで赤瀬川原平は「近年のNが、カメラを護身用の道具のように持ち歩いているという話は、何故か嬉しい」と書いている。