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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


1章

[1]写真における表現

 1972年、『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像評論集』の冒頭の表題論文「なぜ、植物図鑑か」のなかで、中平は写真表現とは世界への人間の投影、つまり写真家である彼によりア・プリオリに捕獲された<イメージ>であり、それを徹底的に排除していくべきだと語っていた。写真による表現というのは、世界はこうあらねばならないという彼の思い込みであって、情緒化による世界の私物化、歪曲であり、そのことが世界をあるがままに見つめることを妨げ、それどころか世界から眼を閉ざすことになるのだという。

 表現するとは、とりわけ写真という方法を用いて表現するとは結局いかなることなのだろうか。それはむろんのこと私の像の表出や、外化ではない。それこそ写真の最も不得手とするところのものだ。またそのような像の外化、表出が言葉の正しい意味での世界と私との出会いを妨げることをすでにわれわれは知っている。写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。私は一枚の写真に像の、私が世界はかくあるだろう、かくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。既知のもの、既知の世界ならばそれは叙述可能であるそのさらに向こう側に拡がる未知の世界が偶然にも発してくる象徴(くどいようだがそれは私の捕らえた世界の意味の象徴とは逆転した位置にあることは言うまでもない)を受け取ろうと待ち構えることである。おそらく写真による表現とはこのようにして事物と思考の共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。(※3)

 中平は写真が従来の意味での「芸術」であることを拒否し、自らの内的イメージの表現になってしまうことを否定した。そのような内的イメージの投影は写真にとって不得手なことであり、写真本来の機能ではないのだという中平は写真を「表現」の位相においてではなく「記録」という位相において捉えようとした。そしてそれはアルフレッド・スティーグリッツの「等価(物)」(equivalent)という概念とは違ったベクトルを示すものであったのであろう。スティーグリッツの「等価」とは自己の内的な感覚を写真映像を使ってシンボリックに表現しようとしたものであり、空や雲に自己の感情を写しこむことによって、自己の感情と写真を「等価物」として提示する試みであった。そして、スティーグリッツと同じように多くの近代の「作家としての写真家」たちも自らのイメージにあわせて世界をつくりかえるような方向を目指したのだと中平は批判する。さらに、いわゆる報道写真家たちも世界を「私の遠近法」でぬりかためることに一生懸命で、ア・プリオリな、薄められた意味の枠をはみ出ない写真を提示しているにすぎないのだという。(※4)
 中平が60年代後半に撮りためた写真によって構成された写真集『来たるべき言葉のために』での彼の写真の多くはモノクロによる荒れた粗粒子の現像で、ブレ、ボケ、傾きなどにより対象は不鮮明であった。そして彼によればそれらが撮影されたのはほとんど「夜」あるいは「薄暮」「薄明」であったという。そして、そのことについて彼は自らに「尋問」する。なぜそれらの条件下での撮影を自分は好んだのか、なぜカラーではなくモノクロなのか、さらになぜ粒子の荒れ、あるいは意図的なブレなどを好んで用いてきたのか、と。

 それは私と世界とのかかわりそのものに由来していたといえるのではないか。結論を先に言ってしまえば、それは対象と私との間をあいまいにし、私のイメージに従って世界を型どろうとする、私による世界の所有を強引に敢行しようとしていたように思えるのだ。このあいまいさから<詩>が生まれ、情緒が生まれてきたのである。(※5)

  自らの意志によって世界をコントロールし、ワクのなかに自分のイメージどおりの映像を強引に切り取ろうとする意味において『来たるべき言葉のために』での中平の写真はいわばスティーグリッツの「等価物」的な写真群であったといえるだろう。そして、そのために彼は「世界の溶解する夜」を選び「手の痕跡」(暗室での焼きつけの作業)を残すためにモノクロームを選んだのだと告白している。このころの中平はすでにある秩序である「風景」へ自らの強烈な凸型の視線によって裂け目をつけることを試みていた。そして、それは世界そのものの不確かさを引きずり出し、対象化しようとする試みであった。最初の写真集である『来たるべき言葉のために』の後ろで中平は「写真は…芸術であることをやめ、内なるものの表現であることをやめて、記録に徹するとき何ものかでありうる」と記しているが、ここに中平の言葉と写真がすでに摩擦を起こし始めていることをみてとれる。この後中平は写真家であり続けようとしたことによって、先行してしまった言葉をどう実践していくかに苦しむこととなってしまう。

[2]白昼の事物と光の触覚性

 白昼、事物はあるがままの事物として存在する。赤裸々に、その線、形、質量、だがわれわれの視線はその外辺をなぞることしかできはしない。それはまぎれもなくわれわれに苦痛を与えるなぜなら、われわれはそれに名辞を与え、そのことによってそれを私有しようと願う。だが事物はそれを斥け、斥けることによって事物である体。眼の侵略、それに対して事物は防御のかまえを備え、今度はわれわれに対して事物が侵略を開始するのだ。それを認めること、形容詞(それは要するに意味だ)のない事物の存在を、ただ未来永劫、事物は事物のロジックによってのみあることを認めること。事物はあのようにではなく、このようにして在ること。それを認めること。そこには一片のポエジーも介入する余地はない。(※6)

 「なぜ、植物図鑑か」によると中平にとって「事物の自己増殖」「事物の見返す視点」「事物が事物であること」は、白昼にはいっそう恐怖であったらしい。この恐怖の感情は何によるものであろうか。夜が恐怖だというのなら分からなくもないが、ここでは明るい昼が不安であり恐怖だというのである。これはいったいどういうことなのだろうか。中平の不安の正体を理解には為にロラン・バルトの『明るい部屋 写真についての覚書』(以下『明るい部屋』)がヒントになるような気がする。
 ロラン・バルトは遺作になった『明るい部屋』の中で亡くなった母の写真「温室の写真」について次のように書かれている。

 私はかつて存在したものがその直接的な放射物その光)によって実際に触れた写真の表面に今度は私の視線が触れに行くのだと考えるとひどく嬉しくなる」あるいは暗い気持ちになる)。(※7)

 バルトはこの「触れにいく」という言葉を別のところで「触れにやってくる」とも表現しているが、ここで注意しなければならないのは、まず名もない撮影者がかつて対象(バルトの母)を撮影した際、その対象から感光面に触れにいったかつての光があったということ。さらに、その撮影が行われた時から歳月が流れたのちにバルトが写真を発見することによって、その眼差しの対象である写真という事物が光を媒体にして、バルトの眼に触れに来るのだという点である。撮影が行われた際の過去の光だけでなく写真という事物から発せられ、バルトの眼に「触れに来る」放射物としての光にも注目するならば、「温室の写真」において光が介入したのは二度(暗室でのプリント作業による光を考えるなら三度)であり、その二度の光にはそれぞれ「光の触覚性」があったということになるだろう。光にこの触覚性という特性がなかったとすると、それはフィルムに像を定着することもできなければ、見ることもできなくなってしまうことを意味し、即写真行為の不可能につながってしまう。
 そして、私が中平の文脈において問題にしたいのは、かつての光、つまり対象物からの光がフィルムあるいは写真に残した物理的痕跡という意味での光の触覚性のことではなく、もう一方の対象物である写真から発せられ、バルトの眼に触れに来る光のほうである。
 写真は重さと手ざわりをもった事物であり、われわれは写真を見るとき、この「もの」である写真から発せられた光が、網膜に触れることによって初めて見るという行為を成立させ得る。この現象に気がついて、嬉しくもあり、暗い気持ちにもなるというバルトと同じように中平も「光の触覚性」を感じとっていたのであろう。見ようともしていないのに眼前のあらゆる事物が無節操に眼に飛び込んでくる。これを中平は「われわれに対して事物が侵略を開始するのだ」といい、「事物の見返す視線」と呼んだ。自己と世界とのバランスを欠いた状態が現前し、このことが中平に恐怖の感情を与えたのであろう。
 「なぜ、植物図鑑か」の後の彼は、自らの言葉によって自らを追い込み、結果入院することになるのだが、その直前の状況を書き残している。

 たとえば、喫茶店で友人と話をしている。ふと、テーブルの上にコップが置いてあるのに気づく。だが瞬間私にはコップと私との間に横たわるその距離を測ることができない。したがって、私にはコップをコップとして認識することができないのだ。その発作に襲われるとただ恐怖に金縛りにあったようになってしまい、そこまで冷静に分析できるほどの余裕などむろんありはしなかったのだが、後になって考えてみれば、まったくその通りのことであったに違いない。国電に乗っていて車窓から景色を眺めていると、ある一瞬からそれらの事物が眼球に突きささってくる。疾走する車中の自分を守るためには(自分が窓の外に飛び出してしまうような、自分で自分を制御することができないという不安が強く会った)目を閉じたまま座席の肘掛にしがみついていなければならない。そのような知覚の異常がこうじて、書物を見ることは事物が、直接眼球に突きささってくることであり、意識とは事物が眼球あるいは網膜を傷つける、その傷痕であると堅く信じるまでになり、街を歩くこともできなくなっての入院であった。(※8)

 中平は「事物が眼球に突きささってくる」といい、「意識とは事物が眼球あるいは網膜を傷つける、その傷痕である」と感じ、事物との間に保たれているはずのバランスを喪失し「距離感の崩壊」を感じたともいう。果たしてこれを精神的な病であり、単なる知覚異常であると結論していいのだろうか。私には中平のこの印象がそれほど的外れだとは思えない。例えば、ダゲレオタイプを思い出してみよう。銀板写真と呼ばれたこの写真は銀板腐蝕による複製装置だった。銀板が光によって黒色変化され、像が形成されるというものである。ピンホールを通った光が像を形成することの発見が写真術成立の第一の条件ならば、光の化学的性質の発見、つまり光が特定の物質(感光材料となった塩化銀、硝酸銀など)を褪色させることの発見が第二の条件であろう。そして、まさにこの第二の条件が写真術の発明を決定的にしたのである。倉石信乃の言葉をかりれば、「光という病因」、「光によって惹起される物質の病」(※9)こそが写真術を成立させたのである。しかし、光が物質の色を変えるというのは、何も硝酸銀などの感光物質だけの場合に限るまい。これらの感光物質の発見以前に、様々な物に対する光の作用、例えば布地に色が褪せたり、皮膚が日光に焼けたりすることが人々に広く知られていたという事実に注目するならば、光がその痕跡を刻みつけるのは感光物質に対してだけではなく、ほとんど全ての物質を変色させるのだということができるだろう。
 さらに、事物としての写真についても同じことがいえる。光はかつて光がつくりだしたはずの写真という事物をも褪色させてしまうのである。長い間光にさらされた写真は色褪せ、セピア色に変色してしまう(古い写真、例えば定着力の弱いアジェのプリントなどがソンタグのいうようなアウラを獲得してしまう理由とこのことは無関係ではないだろう)。また、荒木経惟や須田一政の一連のカラーコピーやポラロイド写真による写真展を思い出してもいい。例えば、2000年二月から三月にかけて行われた須田一政のポラロイド写真展『房総風土記』では、展示期間1ヶ月弱という短い期間にもかかわらず、展示された写真のほとんどが期間中に変色してしまうという事態になった。(※10)ポジが一枚しかないオリジナルという意味ではダゲレオタイプと変わりがないが(左右は逆だが)、光への強度という点ではポラロイド写真の方が圧倒的に劣ってしまうのである。光はその触覚性によって映像を形成もすれば、破壊もする。光によってつくられた像は、いったん写真という事物になった瞬間から今度は光によって奪われ始めるのである(※11)
 写真術の発明以前、オックスフォードの天文学教授であったジョン・グリーブスは太陽の直径を測定したあと眼を傷め、「観測に用いたほうの眼は、その後数日にわたって空のはるか彼方を鳥の群れが飛んでいるのが見えるようだった」(※12)と記録している。これはまさに写真ではないだろうか。網膜に太陽の光が残した痕跡としての写真である。われわれの網膜は何度でもリセットがきく感光版のようなものであって、眼は人体に備わった一個の光学器械に他ならない、とするならば、何かを見るというのは自分の網膜に光による傷を残すということと同義であり、中原祐介の言葉をかりるならば「事物を見る時、事物によっても不可逆的な痕跡を刻みつけられる」(※13)ということになるであろう。中平は事物への過剰なる直視によって「事物が眼球に突き刺さってくる」ことを敏感に感じとってしまったのであり、この意味で、中平の知覚は異常だったのではなく、異常なほど正常だったのだともいえるだろう(※14)

[3]なぜ、植物図鑑か

 「なぜ、植物図鑑か」、なぜこのタイトルがつけられたのかを説明せねばなるまい。中平卓馬は最初の写真集『来るべき言葉のために』に見られたかつての詩的な表現を拒否し、「事物が事物であること」のみを提示する植物図鑑としての写真を目指した。それにはまず、自らの写真集『来るべき言葉のために』を否定するところからはじめねばならなかったのである。
 前にも述べたように、『来たるべき言葉のために』に収められている写真はいわゆる「ブレボケ」と呼ばれたもので、画面は傾き、断片化された対象は不鮮明で闇の中に溶解している。また強烈な光でハレーションをおこした風景は荒れた異形の粒子として強烈な触覚性と共に定着されている。そして、自らの写真についての中平の弾劾は次のとおりである。

 世界を凝視すること、事物が赤裸々に事物自体であることの確認以前に見ることをあきらめ、ちょうどその空白をうめあわせるように情緒という人間化をそこにしのびこませていたにすぎないのである。私の写真に<詩>があったとということ、それ自体私の対する批判に逆転されねばなるまい。<夜><闇>に溶暗する事物、それは私が見ることをあきらめ、同時に、その照りかえしとして、事物の視線を、事物が事物として充足するその瞬間から眼を閉ざすことを証かしていたのではないか。」(※15)

 「イメージを捨て、あるがままの世界に向き合う」ために、彼はどうしても『来たるべき言葉のために』を否定するところから出発し、新しい写真にたどり着く必要があった。そして、その来たるべき写真集の名が『なぜ植物図鑑か』なのであり、そのための草稿、予定表が「なぜ、植物図鑑か」であった。

 何よりも図鑑であること、魚類図鑑、高山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子どもの本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこに忍び込む情緒を斥けて成り立つのが図鑑である。“悲しそうな”猫の図鑑というものは存在しない。もし図鑑に少しでもあいまいなる部分があるとすれば、それは図鑑の機能を果たしていない。あらゆるものの羅列、並置が図鑑の性格である。」中略) 私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する。これはまた私の方法でなければならないだろう。必然的に図鑑はポエジーや<闇>や<薄明>を本質的に受けつけない。」(※16)

 「闇」や「薄明」などの陰影には情緒が入り込む余地があり、それを中平は「ポエジー」と呼ぶ。そして、それは世界を曖昧さで覆い隠し、私物化するものであるゆえに、彼はあらゆる陰影をさけ、事物が事物であることを明確化することだけで成立する図鑑のような写真を撮ることを目指した。そうすることによって中平は真の意味で世界と向かい合おうとしたのである。しかも、そのための手段として彼は自らの作家的なるもの、つまり「私」をも事物を特権化してしまう「権力」とみなし消去しようとするのである。中平が自らを「権力」と呼んだ理由は1969年の東大安田講堂の攻防戦や、1971年の沖縄で起こった松永事件によるものであろう。中平は安田講堂での学生と機動隊の衝突を撮影する報道写真家の視点は「国家権力の視点」(※16)以外の何者でもなかったと批判した。また、沖縄返還闘争によるデモで一人の警官が死亡したときに読売新聞が掲載した写真によって一人の青年(松永優)が不当に逮捕されたのであるが、のちにこの青年は実は警察官を助けようとしていたのだということが判明し、1枚の写真が説明文によってまったく逆の意味をもち得ること、写真が言葉のイラストレーションと化してしまったことに中平は衝撃を受けた。カメラのもつ暴力的な側面、つまり「私」による世界への加害を怖れ、自らの強烈な視線による写真の作品化を拒んだ中平はこの後自らを空っぽにするという方法によりカメラの受動性をつきつめていくことになる。1974年6月号の『美術手帖』で中平は、この一年ほとんど写真を撮ることから遠ざかっていたことを告白し、それは前述の松永事件と無関係ではなかったという。こういう状況の中で中平はユジューヌ・アジェやウォーカー・エヴァンスについての評論を執筆し、篠山紀信との共著である「決闘写真論」などを連載するなどして写真への情熱を再び取り戻そうとしていくのであった。

(註)
(※3)
『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像評論集』中平卓馬(昌文社)1973、p.18-19
(※4)「ユジューヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」(1973)のなかで作家としての写真家として、抽象主義のアルヴィン・コバーン、フォトグラムのモホリ・ナギ、新即物主義のレンガ−・パッチェ、F64グループのエドワード・ウェストンなどが挙げられている。また、報道写真家やルポルタージュの写真家の例として、アルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ドロシー・ラングなどが挙げられ、彼らも形容詞の意味を現実に見出し、それをア・プリオリな意味通りに展示してみせたにすぎないという。
(※5)中平、前掲書、p.21-22
(※6)同書、p.23-24
(※7)ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房)1985、p.173
(※8)篠山紀信、中平卓馬『決闘写真論』(朝日新聞社)1977、p.13
(※9)倉石信乃『反写真論』(河出書房新社)1999、p.138
(※10)その写真展開催中に須田一政と会う機会があり、「写真展に来るのなら早めに来てほしい」というようなことをいわれた覚えがある。
(※11)この意味で、バルザックが写真に写されることを肉体のひとつの層がはがされるようだと感じていたことは興味深い。事物としての写真は光にさらされ、我々に見られるたびに薄い表面を一枚一枚はがされていくように褪色していく。
(※12)ジョン・H・ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』(朝日新聞社)2000、p.26
(※13)中原祐介『見ることの神話』(フィルムアート社)1972、p.344-345
(※14)我々はたとえ「光の触覚性」に気づいたとしても、普通の日常生活に支障をきたすようなことはないだろうが、中平の特異性は頭で考えたことに体が素直に反応してしまうことではないだろうか。
(※15)中平、前掲書p.22
(※16)同書、p.31-32
(※17)多木浩二・中平卓馬編『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店)1970所収「同時代的であるとはなにか」p.163