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第4回
東松照明

写真界の巨匠に、写真を学ぶ若い人がお話を聞くコーナーです。第4回は、東松照明先生です。

質問 東松先生の写真を始めるきっかけというのは何だったんですか。
東松 よく聞かれる話なんだけど、ハタチちょっと前ぐらいの時ですけどね、学友の妹が好きになって、私が気が弱いもんですから、なかなかデート申し込めなくてね、まあラブレターも書いては破り書いては破り、渡すことが出来ず悶々としていて、ハッと気が付いて写真を撮らしてくれってことは言えるんじゃないかと。日本は昭和20年に戦争で負けますよね、敗戦直後で写真どころじゃない。食うに困ってるような凄い状態だったんだけど、わが家は幸い兄がアマチュア写真家で写真やっておりましてね、家にカメラが何台もあったし押し入れを改造した暗室もあったし、写真環境だけは整っていたんですよね。だけど私自身は当時はまだ写真に興味がなくて、カメラをいじったこともなかったんだけど、好きな女の子と会うための一種の口実、写真を撮るためという口実でデートするでしょ。カメラは革が張ってなくて金属むき出しで、光線も漏れたりして、ベスト判の半裁、4×3判、6×6判よりも一回り小さいサイズのフィルムだったんですけど、16枚の。ゲルトという名前のカメラを持ってその好きな女の子の写真を撮ったのが、そもそものきっかけでした。だから写真を撮ってそれをプリントする。プリントをあげる時にまた逢えるわけ、写真は二度逢える。
質問 うまくいったんでしょうか。
東松 非常にうまくいきましたよ。学友だから家へはしょっちゅう行ってたから、弟がいたりお母さんがいたり、一緒に撮らせてもらって、そのうちに外へ誘い出して徐々に。
質問 最初にパレットの中に浮かび上がった彼女の像を見た印象は。
東松 うーん、フィルム現像は失敗するといけないので兄にやってもらって、印画紙現像はすぐに習って、暗室入るでしょ、押し入れの、夜しかできないから、赤い妖しげなセーフライト、白いバットの中に露光した印画紙を浸して、ピンセットでかき回していると、ふわーっと像が出てくる。ものすごく神秘的というかなぁ、感動しましたよね。それで写真のトリコになったわけですよ。
質問 それが先生のいちばん最初に撮った作品なんですか。
東松 うん、彼女の記念写真といいますかね、写真撮り始めて最初にシャッター切った写真はね。
質問 ところで先生のお名前というのは本名なんですか。
東松 そうなんだよ。てるあきっていうんだよ。あまりにも写真にピッタシなのでペンネームじゃないかって云われるんですよ。ただしねうちは乾電池屋で、乾電池を製造してたんですよ、朝日乾電池っていいましてね。戦争中に企業が統合されてね、いろんな会社が一つにまとめられたんですよ。軍の意向で、ナショナルというか松下に統合されたんで、昔は朝日乾電池といって、大阪が本社でうちは名古屋工場の下請町工場で、その乾電池工場をやっていた母親が、ある日帰ってきてね、テルアキと同じ名前の人がいるね、というんです。どこで見つけたの、といったら、町を歩いていたら大きな看板が出てた、というんですよ。行ってみたら照明器具店でしたよ。(笑い)東芝の東でしょ、松下の松でしょ、それに照明でしょ、出来すぎてるわけですよ。(笑い)
質問 先生の今まで最も印象深かった撮影というか、取材は何でしょうか。
東松 数限りなくあるから、50年やっているからさぁ、本当に数限りなくあるからねぇ。その時、その時ですね。
質問 好きな写真というのは。
東松 それも、いまやってる写真がいちばん好きなんですね。ですからね。日々新しい。
質問 いま、「インターフェース」という先生の写真展やっていますね、それで。
東松 観て来ました?
質問 はい、それで沖縄の写真。
東松 ええ、「光る風」ですね。
質問 全部の傾向を観てきて、一枚だけ京都のこの写真だけが、ちょっと一枚だけ違うと云ったら変ですけれど。
東松 どう違うんですか。
質問 ほかのものは、光と陰がすごく出てるんですけど。
東松 ああ、白いバックでスタジオで撮ったそんな雰囲気だからでしょうか。
質問 やっぱりこれは、被写体が。
東松 百歳なんですよね、この人。大西良慶さんといって、有名なお坊さん、もう亡くなられましたが、あっちへ行け、こっちに来てくれと動かすわけに行かない。その方がいらっしゃるところへこちらが行って、それで、バックを持ち込んでね。後ろにホリゾントを垂らして、もちろんお寺の本堂です。助手は執事というか向こうの偉い坊さんたちが手伝ってくれましてね、ですから自然のスナップではないですね。
質問 でも、これ一枚入れたっていうのは、やっぱり、印象深かったからでしょうか。
東松 まあそうですね。何百枚、何千枚という中から選んだわけですから、この京都シリーズの場合、最終的には40枚に絞り込んだんですが、最後まで写真が残るというのはね、自分でセレクトするんだけれども、写真そのものが勝手に残っちゃうんですね。分かるでしょう。人為的といえばそうなんだけれど、ブツとしての写真が自己主張し始めてね、私をはずすな、っていうわけね。最終的にはだから、自分の手を離れちゃうみたいなところがありますね。
質問者 はぁーっ!
東松 この写真に限らず、残った写真みんなね。それぞれが、写真同志の闘いがあって、こっちはジャッジみたいですね。どっちが強いか、どっちが正統なルールに基いているかを見極めるだけでね。ジャッジみたいですよ。
質問 私は写真学校でいま2年生なんです。まだ私の写真が確立されていない、ではっきり撮りたいテーマがまだ定まらないというせいもありますけれど、先生の写真が確立された時というのは、だいたい写真を撮り始めてどれぐらいだったのでしょうか。
東松 いやいや、いまだに確立してませんよ。
質問 エッ、そうですか?
東松 永遠に、手探り。多分死ぬまで手探りじゃないでしょうかね。
質問 じゃ、現在でも、まだ?
東松 確立するとかしないとか、自分の世界を持つとか持たないとかいうのは、どうなんだろう。人から見てそう見えるんじゃないかなぁ。もし確固たる世界が確立できたら、写真やめちゃうんじゃないかな。できてないから、あるいは創ってもそれが気に入らないから、それを壊す。新しく創ってまた壊していくことで、その作業があるからやり続けられるんじゃないでしょうかね。写真に限らず、人間がやりたいことっていうのは、そう簡単に見つかるわけはないんで、試行錯誤の連続でしょ、いろんなことをやりながら、振り返ってみたら、ああ、これがやりたかったんだなって見えてきたりするんで、そんなに簡単に見つかったり、判るもんじゃないでしょう。
質問 今それですごく迷ったり、不安に思ったりするんですけれど、先生にもそれが
東松 それが人生なんだ、大いに迷いなさい。
質問 はい(深いため息)。チョット、安心しました。(笑い)今、私たち20代で、先生も始めたのはその頃でしたね。
東松 思えばそうだ。同じぐらいの歳だった。
質問 その頃はもうなにか、これだっていう、その時はこれを撮りたいっていう何かはあったんですね。
東松 ですから、さっき話したように、好きになった女の子の記念写真を撮っていて、その後ね、写真を部分的にブローアップしたり、例えば眼だけを薔薇とモンタージュしたりしてね、いわゆるイメージを創るわけです。それは、誰に頼まれたわけでもなく、美術の先生、写真の先生がいたわけでもない。専門の学校へは一切私は行っていませんのでね。ほとんど自然発生的にというか。絵は描いてましたんで美術やっているようなそういう感覚。写真づくりというか、絵づくりですね。誰に見せようということもないし、気持ちの赴くままに作っていくという、何十枚かできたころで、大学の写真部に入ったわけですね。学内展やるからお前出せっていうんで20点ぐらい出したんですよ。それが人様に作品を見せる最初です。愛知大学の8番教室というところに展示しましてね。学内展ですね、それが最初ですね。
質問 じゃずっと、誰に教わるでもなく。
東松 そうですね、ただし学校出てから、岩波写真文庫っていう、岩波書店が発行している百円本なんですけど、その写真文庫の制作スタッフとして就職して東京へ出てきたんで、カメラのノウハウは、その岩波で月給もらいながら学んだという。(笑い)
質問 名取先生がいらっしゃる頃ですか?
東松 名取さんがつくった写真文庫だけど、名取さんはもういなかったですね。お辞めになっていてですね、顧問ということで来ていらっしゃたけれど、直接陣頭指揮をとっていた時期ではないんです。
質問 じゃその岩波写真文庫で学んだことは今でも有意義ですか。
東松 それはそうですね。あなた方みたいに写真の専門学校で技術的なこと何一つ教わってないから、岩波で先輩たちから学んだことが唯一ぼくの写真のノウハウなんです。フィルムの扱い方から、処理の後でナンバー付ってそれをコンタクトとって、あと伸ばすときにどういう注意が必要かってこと、技術的なこと何もわかんなかったから、岩波写真学校だと云っているんですけど、私にとってね。(笑い)
質問 お兄さまは、アマチュア写真家でした?
東松 二人いるんですが、上の兄が軍隊にいて、情報関係の仕事をしていた。有名な尾崎三吉さんという方が写真記者として来ていて、その人から写真を学んだんでしょうか。だもんだから、敗戦になって中国から復員してきた時に、リュックサックに一杯写真薬品をごそっと持ち帰った。今の現像液は調合されているからお湯入れただけで使えるんですが、その当時は天秤量りで量りながらメトールとか、ハイドロキノンとか薬品を量りながら作っていたんですよ現像液を、そんなものは敗戦直後の日本では手に入らなかった。だからいち早くうちでは写真環境が整ったというわけです。
質問 今だと薬品は調合されていますよね。そういう環境にいるとどの薬がどれくらい入っているか全然判らないですよ。その点僕たちは恵まれているのかどうか、判らないですね。
東松 それはいいでしょう。面倒がなくて。(笑い)今はヨドバシへ行けば全部揃っている。(笑い)
質問 どっちが良いんでしょうか。
東松 そんなことに神経使わなくてすむのは、良いんじゃないですか。
質問 先生は今どんなカメラ使っていらっしゃいますか。
東松 今はハッセルが多いですね。その前はローライフレックスですけど、何台かつぶして、今ハッセルですね。
質問 ローライやめたというのは、ハッセルの方がレンズが良いという?
東松 いや、そうでもないんですけど、二眼レフのローライは軽くて良いんですがね持ち運びには。僕はメカに凝らない方ですので、なんでも良いんですよ撮れさえすれば。(笑い)
質問 僕らは学校でこのカメラが良いとか情報ばかり入ってきて肝心の腕が。
東松 問題は腕だなあ。
質問 ローライにしてもハッセルにしても6×6で四角いですね。先生は四角い方がお好みですか?
東松 そんなことないですよ。その前はずっと35ミリでしたから、まあもっとも、6×6はずっと使ってはいましたね。4×5も勿論使いますしねぇ、それほどサイズには関係ないみたいですね。

質問 先生は心の落ち着く時っていうか場所とかはどこですか。 東松 エッ! 場所?
質問 僕なんか外歩いていても家の中にいてもなんか写真のことばかりになってしまって、気が休まるときがないんですよ。
東松 寝てるときだナア。(笑い)そんなに四六時中写真のこと考えてるの?
質問 何か見ているもの全部、これはどうだ、これはどうだ! 撮るのか撮らないのかって。いざそれで、撮るわけではないんですけど。
東松 すごいね。くたびれちゃうんじゃないの。僕はカメラ持たないときは写真のことは考えない。その代わりカメラ持ったときはものすごい集中力ですね。きっとね。通常の何十倍、何百倍という集中力だと思う。まあ、いろんなタイプがあるんじゃないですか。いつもカメラ持って歩いている人がいる、荒木(経惟)さんなんかそうだね。万年筆みたいに持って歩いて気軽にスナップしていくでしょ。ああいうタイプの人もいるわけだから、それぞれじゃないですかね。
質問 若い人に切実なこととして、東松さんが写真で食べていくということを決めてそれを通したという、最初の苦労話を。
東松 うん、結局就職しましたんでね、3年足らずで辞めてしまうんですけれど、月給もらいますから、ある種のサラリーマンですね。そういう形でプロとしてスタートしてしまっているんで、その後はフリーランサーで写真で食ってはきてはいるんだけどね。フリーになれば、当然収入は不安定になりますよね。だけどすぐ中央公論のグラビアとかね、恵まれたのかなあいくつか連載が始まったりしてですね、それで結構ギャラがよくて、岩波の月給よりもよっぽどフリーの方が収入はよかったですよ。
質問 ちょうど僕らも来年就職なんで、就職活動をしているところなんですけど。
東松 当時私の住んでいた世界はエディトリアルでね。報道写真という呼び方されてたんですけど、雑誌関係の仕事が多かったですね。出版社に自分の写真を売り込むってことが僕は苦手でね。上手くなかったし、好きじゃなかったから、そういうことを誰かやってくれないかと思って、セルフエージェントのVIVOっていうのをつくったんですけどね。奈良原一高や、細江英公とか、川田喜久治、同じ世代の6人がお金出し合って、売り込みはマネージャーにやってもらって、長くは続かなかったけど、そんなこともありましたけどね。その頃からぼつぼつコママーシャルフォトグラフィーというのが主流になって来るんですけど、私は非常に少なかったですねコマーシャルの仕事。別に嫌ったわけではないですけれど向いていなかったのかな、スポンサーが指名してくれないもんだから、でもやったことはありますよ。一度だけびっくりしたことがあるなァ、コマーシャルで。「太陽の鉛筆」って代表作みたいに云われてる写真がありますよね。あれで賞をもらった時、毎日芸術賞をもらってその直後に芸術選奨もらったその年、読売広告社が私に無断で、ドイツの有名な製薬会社のバイエルのプレゼンテーションに、多分今年の芸術選奨をとった写真家だとかなんとかいって出したんでしょうけど、他の電通や博報堂とかが競って出したうちで、バイエルが僕のを採用しちゃった。それで広告社が慌ててね、僕はコマーシャルやってないでしょ。だから引き受けないんじゃないかってあちこち手を回していろんな人から電話がかかってきた。断らないでくれって。別に断る理由も何もないのでやったらね、朝日、読売、毎日その当時の大手三社の1ページ大の新聞と、その他に週刊誌が何誌か出るという、で一月もかからなかったその撮影でー、2年ぐらい食えましたよそのギャラで、だけどコマーシャルって来ないなぁ。その前も、後も。
質問 戦後の社会にカメラを通してずっと関わってこられて、政治イデオロギー、社会主義イデオロギーとは無縁でなかったと思いますが、振り返ってみて、どのような感想をお持ちですか。
東松 うんまぁねぇ、人間はその時々、抜き差しならない現実に引きずられたりするんですけれど、それだけじゃいけないって云うか、夢を持ちますよね、こうあって欲しいという。生活でももうちょっと豊かになりたいとか。その未来モデルが社会主義であったわけです。現実はいけない、こうあってはならない、将来はこうあるべきだという夢を描いたときに、そういうモデルが出てくるわけで、特に敗戦直後の日本の場合には、インテリのほとんどがそういう夢に動かされた。今の若い人はそういうことでは動かないと思うんですけど、僕なんかの時代というのは、その夢、今いった社会主義社会というのが未来モデルだったんですね。その当時日本は貧しかったし、物質的にも精神的にも惨めな状態だった。そこから抜け出そうとするときに、人間が描くひとつの未来像、それが、マルクス主義であったり、あるいは左翼思想といわれていた思想であったり、それを持たないことが不思議なくらい、そういう時代ですよね。だから当然私も影響を受けていますし、特に私の出た大学が中国の上海同文書院といいまして、日本の国策大学ですよね。日本が中国や東南アジアを植民地化していくその最先端の教育機関として創った大学であって、上海同文書院や京城帝大の引き揚げ学生と引き揚げ教授が創ったのが愛知大学で、敗戦による反動で社会主義イデオロギーの砦の様相を呈していました。そういう学校だったものですから、マルクス主義の影響を受けましたけれど、僕自身はあんまり激しい性格でないですからね、運動の中心で活動するというタイプの人間ではないので、ラジカルな活動はしませんけれど、影響は受けましたね。
質問 文化人の代表として、立場を問われた場合もあったと思うんですけれど、確かに撮る対象は変わってきましたね。沖縄へ行かれた頃から。
東松 どうでしょうかねぇ、そんなに変わってないと思うんだけれどね。人様から見てどういう風に映るか知りませんけど、発想の転換はあるし、変わりたいとは思うけど、いい加減といえば最初からそうだったし、どうなのだろうかなぁ、うちのカミさんに聞いて下さい。(笑い)いちばん身近だから。
質問 要するに、撮影される対象がかなり多様に変わって来ましたね。
東松 いや、最初から多様だったんですよ。もう写真をやり始めたときからメーキング・フォトがあったりなんかして、今でも同じことをやっているでしょ。変わったわけじゃないのね。
質問 東松さんの写真は写るものでなくて、創るものであるという方法論ですが。
東松 それは両方だと思う。よくアメリカ人や、ヨーロッパの人達は二分法でもって、メークフォトとテークフォトという言い方をします。テークは自然にあるがままの状態を撮ることで、メークというのは自分でイメージを創ってそれを撮る、だけどいずれにしても撮るんですよ。最終的には撮らなきゃ写真にならない。だから私にとってはどっちも一緒なんですね。写真をやり始めた当初から創ったものを撮っていたし、写真の主流はテークだと思いますがね、そっちの方が量的には圧倒的に多いですからね、沖縄のシリーズだって長崎のシリーズみんなそうです。テークが主流ですけど、でも両方が僕の中では矛盾なく住んでいるんですけどねぇ。
質問 じゃぁ長崎とか沖縄、ああいうのはパッと見るとテークと受ける感じの写真なんですけれど、撮っている側からいうとテークしつつメークするという。
東松 両方でしょ。同じ長崎の写真でもブツなんかほとんど創ってますしね、資料室から持ち出した遺物をいろんなバックの上に置いてメークしてるんです。創って撮っているんですよね。沖縄だってそうなんです。宮古大学というのを創って、そこで若い生徒達と一緒に古老たちの聞き書きをやったりね。あるいは過疎の問題を調べたりして、みんなで一緒に行動してその途中でパチパチ撮ったりしている。そういう写真もあるんで、メークでもあるんです。そういう状況をこっちが創っているわけだから。
質問 最近、デジタル写真とか、データを転送して世界中インターネットがそうなんですが、ああいう動きをどうお考えですか。デジタルフォトその他。
東松 よく判らない部分がいっぱいあって、はっきりした考え持ってないんですが、長いことアナログの世界で生きてきた人間ですから、アナログ写真の良さは判っているんですが、いかんせんデジタルは判らないですよ。今私が関わっているアナログの世界というのはクォリティーが非常に高い、特にプリント・クォリティーが、それがデジタルになるとそのキメの細かさが得られない、私にとって写真のコアになる中心部分ですから、質というのが。
質問 デジタルで見せるという、写真展をやるというその方法のことですが。
東松 そういう点では、僕も全く同じだと考えています。デジタルを否定するのではなくて、それは印刷と同じですね。印刷で見せる、また生の印画紙でみせる。今展覧会やってますけどね、自ずからメディアが違いますからね。それなりの特徴があって、メリット、デメリットがある世界だと思う。デジタルフォトはこれから伸びる分野だと思う。期待はしてるんですが。ただ、まだ関わっていないものだから、よく見えていないのです。
質問 必ずこのコーナーでお聞きしてるんですが、写真を学ぶ若い人達に何かメッセージを。
東松 いやー。無い!。まあ、好きなようにやってくれ。


インタビュアーの感想

 東松照明氏にお会いして、最初の印象は想像していた方とは違い、とても落ちついた雰囲気の静かな方で、少しびっくりしました。そしていくつか質問をした中でも、写真を始めたきっかけが好きな女の子に会う口実だった事には驚かされ、僕も写真を始めた理由にたいしたものがなかったので安心しました。それと印象的だったのは「インターフェイス」についての質問をした時に、東松照明氏が言われた「写真展の写真を選ぶ際に写真が自己主張してきた」という言葉。今、僕が撮っている写真の中に、そんな写真があるか、ちょっと不安になりました。同時に、そんな自己主張してくるような写真をこれから沢山撮るんだと、やる気が出てきました。その他にも、これから僕が写真を撮っていくにあたって、色々為になるお話しをしていただき本当に勉強になりました。やはり、一流と呼ばれる写真家には不思議な魅力があったような気がしました。

日本写真芸術専門学校 二年
片山順平

 東松先生の言われた事で最も印象に残っているのは、「写真を撮りはじめてから50年経った今でも自分の写真スタイルは確立されていない。これからも写真を撮り続けていく上ではそうだろう」と。
 一つのことを何十年もの月日をかけてやり遂げようとするパワーをすごく感じた。自分もこれから何年、何十年写真を撮り続ける事ができたら幸せかもしれない。しかしそこまでの自信が今の私にはまだ足りない気がする。
 先生が「迷うことも不安になる事も人生には必要。どんどん迷いなさい」と言って下さって自分はとても安心した。今、ちょうど二十歳で東松先生も写真をはじめた時が同じ歳で、これからだなと改めて思った。自信はなくとも撮りたい気持ちがある限り撮り続けていければ先生に近づけるそんな気持ち。そしていろいろと決定を迫られているだったので、写真の先輩であり人生の先輩でもあった先生の言葉を聴いて勇気づけられた。

日本写真芸術専門学校 二年
皆木優子


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