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第8回
鈴木 清

写真界の巨匠に、写真を学ぶ若い人がお話を聞くコーナーです。第8回は、鈴木清さんです。

鈴木清(すずききよし)
 1943年福島県いわき市生まれ。69年東京綜合写真専門学校卒。69年カメラ毎日「シリーズ・炭鉱の町」でテビュー。以来。看板描きを本業としながら創作活動を続けている。
【写真集】72年『流れの歌』、76年『ブラーマンの光』、82年『天幕の街』、88年『夢の走り』、91年『愚者の船』(IPC)、92年『天地戯場』、94年『修羅の圏(たに)』(いずれも自費出版)。
【写真展】インスタレーションの会場構成をした展示による「路上の愚者」「茶毘の赤」「行間の誂」「光の暴威」「FOOL'S PARADAISE」「母の漠」など多数。
【賞】写真集・個展『天幕の街』で83年日本写真協会新人賞、写真集『夢の走り』で89年第1回写真の会賞、個展『母の溟』で92年第17回伊奈信男賞受賞。

質問 写真の大家に写真を始めたばかりの学生が聞くという趣旨ですが、まず写真を始められた時のことをお話し下さい。
鈴木 もともと写真家でやり始めたわけではないんでね。炭鉱が閉山し、それまで通っていた夜間高校と勤めていた平(福島県いわき市)の印刷所をあとに、私は漫画家を志し上京したんです。その時たまたま行李の底に土門拳さんの写真集「筑豊のこどもたち」を1OO円で買ってつめておいたんです。絵、グラフィック、マンガとか手で書く方、同じ視覚的な分野でももそちらの方だったんです。でも若いからさあ、行き詰まるってことあるでしょう。それで絵を断念した日、行李の底に土門さんの映像世界を発見したのです。そこで判断して写真にしようと思って写真学校へ行ったのです。それからですね、写真やるようになったのは。
質問 美術の学校へは?
鈴木 それは行ってないけれど、印刷屋に勤めたり、コンテストに出したり、中学校の頃は美術展で賞をとったこともある。人から上手いと認められたことは自覚していました。東京へ出てくると上手い人はいっぱいいるわけすが……。
質問 絵をやめて写真というすぐそれがぽっと職業に?
鈴木 ならないですよ。昼間働いて夜写真学校行ったわけです。やはり自分の目指す先生がいるでしょ。あの頃は60年代の中頃で一種のリアリズムの社会派で英伸三さん、富山治夫さんたちが学校に先生としていましたからね。
質問 日吉(東京綜合写真専門学校卒)でしたか。
鈴木 そう日吉でした。写真ってほらひとつには技術的なあこがれというものがある反面、生きた現実のミックスしたものが膨らむでしょ。ぼくなんか26歳頃に学校入って卒業したのが30でちょっと遅いですよ。みんなハタチぐらいで来ているのだから。その分沈殿された経験がね豊富だから、噴出するものが違う。そうやって卒業にあたって「卒展」をやったんだけれども、その時たまたま「カメラ毎日」のこんなちっちゃな記事で桑原甲子雄さんが書いた文章の中に私のことが書いてあったんですよ。それが編集者の目にとまって、写真持ってこいといわれ持っていったら載ったんですよ。まあ、印刷物になると誰でも嬉しいですよね。それから「カメラ毎日」の編集部と関わって、山岸章二さんと親しくしていただいて。
質問 連載が始まったわけですね。
鈴木 炭鉱の写真など見てもらい、「シリーズ・炭鉱の町」として連載されるようになって、全国的に取材するようになったんです。
質問 じゃあ、すでに「卒展」の時にもうすでに作品として出せるレベルに達していたという………。
鈴木 そうですね。ずっとライフワークで炭鉱やっていたから。学校で課題として出されるのはずっと違うけど、私は炭鉱にこだわっていました。まあ生まれ故郷だからということもあって。あの頃は基地問題だとか、近郊の農村問題などを若い人はやったようですね。ただあのころ、そういう社会性をもった写真は古びた頃なんですよ。グラフジャーナリズムというものがこれでいいのか、と問われた時だったんです。コンテンポラリー・フォトがアメリカから入ってきて、ぼくらの世代はみんな影響されたわけです。社会性を敢えて出さない。自分で見たものが一番で、という。そういう写真は雑誌やなんかで通用しない。だから自分たちで写真展やったりしていくしかなかった。
質問 やっぱり江成さんみたいに一匹狼で。
鈴木 みんな単独ですよあの頃は。原稿料はたいしたことないから、みんな自前でいくわけですよ。それよりも若いから、雑誌に出てうれしいとか、若いから違うんですよ。でもそれからは、看板描きを本業とし、その合間にカメラを手にし、日本各地の炭鉱をはじめ、返還に揺れ動いていた沖縄本島にも出掛けていきました。それからサーカスの人々や、旅役者たちの一種虚構的な生活に憧れ、彼らとドサ回りしたこともあります。
質問 「流れの歌」「天幕の街」はその頃ですね。
鈴木 ええ、それらを撮りためては自費による出版で自分なりのものを求めたといえますね。しかし、いつしかそんな自分の心情的な面がイヤになり、インドの精神世界や、金子光晴のテクストに沿ってアジアの街々を旅したりもしました。
質問 ずっと自費出版でこられましたね。
鈴木 カメラ毎日で連載しましたが、次々に新人が出てくるし、自分が忘れられないうちに、という思いもあったから、自分で写真集出しちゃえと。自分の中で充足してしまうかもしれないけれど、社会の流れを気にしないで写真撮れますからね。山岸章二さんに「雑誌に載って喜こんでいるような人間じゃダメだ」と云われたこともありました。
質問 賞をとられたのは。
鈴木 ぼくが賞をとったのは83年、個展「天幕の街」で日本写真協会新人賞が最初だけどそれだって43だからね、結構遅いんですよ。
質問 鈴木さんが写真を発表されるようになった頃というのは、それまでと写真家の立場というか変わってきましたよね。はっきり云って写真で食べていくのが難しくなった。その点鈴木さんはひとつの職業を持って、そして写真家としてもという。
鈴木 無名の人もというか、職業化されてない人もでてきた。写真は好きな人日本人に多いよね。一般にアマチュアといわれるけれど。ぼくもアマチュアでいたいですよね。アマチュアというとちょっと誤解があるかもしれないけれど。
質問 今でも看板の方はやっておられますか。
鈴木 今でもやってますけれど、仕事の内容が少し違いますね。
質問 炭鉱からサーカスへという作品の系列なんですが。
鈴木 まあ、小さい頃から炭鉱の街に住んでいて、いわゆる流れ者の世界に近かったんです。長屋の生活の中にいろいろとそういう大人の世界見ていたんですが、すべてそこに居た人たちが津々浦々から流れてきた、そういう何かを背負っていたんですよね。最初「流れの歌」という写真集出したのもその辺から来ているのかも知れませんが、そういう流れている人に興味がありました。象徴的に炭鉱であり、サーカスですね。自分の心象もふくめて、あの頃60年代は地方というところ自体に、日本人の原形がありました。
質問 河原に住む浮浪者を撮った作品が、最初にアサヒカメラに載ったのがひどく印象的だったんですが。それまでの社会派的でもなく、ツーリストが撮る観光写真でもなく。つまりそういう手法は浮浪者そのものでなく、生活の方法に目を向けるという、優越感みたいなものがその底にあるけれど、あの写真からは人間が悠々と生きる尊厳みたいなものをしみじみと感じさせられましたね。
鈴木 あれはぼくの身近なところに、鶴見川ですが、あの人ほんとうは多摩川に居たと思うんですが、居られなくて一つこちら側の鶴見川に来たらしい。ぼくも居るのを発見してすぐには撮れないから2〜3年は様子を見てたんです。ようやくカメラを向けたのは3年ぐらい経った頃でしたか。その頃実際に撮った写真を見ると、すごいこちらに対する警戒心があるんですね。だんだんそれがほぐれていって、3年ぐらい経ってもうこの人との関わりは終わりだと思ったときの写真と比べると違っている。医者でもないしセラピーじゃないけれど、カメラを介在してそのほぐれて来るその過程を追求したという作品になったのです。でぼくはその人が浮浪者だから社会的にどうだ、というんじゃなしに、その前にインドに行っているからね。インド体験で結構荒々しい写真なんだけど、浮浪者というよりも自由人、聖者として見てしまったかも知れない、あの写真は。
質問 最近の街の浮浪者は撮らないのですか。
鈴木 撮らないですね、それは生きていく過程の問題であって、どうしてそこまで落ちてきたかってわからないから。ちょっと性質が違いますね。集団でしか生きていけないじゃないですか。オレから云わせるとほんとに生きていくならば一人で生きていけばいいじゃないかと思う。であと主張するでしょみんな。権利みたいなものを。それは普通の社会生活送っているのと同じですよ。尊厳もなにもない。
質問 土門拳賞(95年)の『修羅の圏(たに)』は自伝的作品といわれますが。
鈴木 ええ、母方の鉱山労慟者だった祖父がかつて住んだことのある北上の水沢銅山跡、足尾銅山。そして母が工員をしていた東京・墨田区の鐘ケ淵紡績工場跡、そして、そもそもの私の起点である常磐を巡って4年をかけた、自分探しの性格が強いものです。映像による自伝として編んだものです。
質問 生い立ちと記憶と?
鈴木 撮ってるうちに当時の背景である時代の様々な時間が、カメラの前に見えてきたような気がしました。だから、『修羅の圏(たに)』はそういう意識や記憶の遊びを出したものです。なにか自分の半生を性急にくくってしまっているようでもあるのは、もうひとつのタイトル“finish dying・・・・”、死に切りのあとに何が再生できるか・・・・、それが当面の自分に対する問いだからなんです。
質問 私写真的な性格も強く、今まで社会性を求められた土門拳賞としては異色ですが。
鈴木 いま云った自伝的要素の背景の時代、社会の扱いを見ていただいたと思います。こんな大きな賞を受けたことは土門さんが、「いまやっていることを限りなく続けなさい」と、私に言っているように感じます。
質問 鈴木さんはロバート・フランクと親しいそうですね。
鈴木 ええ、東京に来られたとき会って、ぼくは彼の社会的風景に影響を受けていますからね。彼は私の写真を見て「キヨシの写真は私に似ている」と云ってくれたんです。
質問 鈴木さんはモノクロが主体ですね。その辺はカラーについては。
鈴木 使い分けは自然にありますよ、頼まれた仕事でもそうだけど、使い分けが、やはり精神的なものの表現はどうしたってモノクロになりますね。あとは、写真は遊びの一種だからカラーで遊べるかモノクロで遊べるかの問題でしょう。展覧会になるとそういう範疇を超えちゃうから一概には言えませんね。
質問 展覧会もそうですが、鈴木さんは写真集を作ることに関して几帳面というか、活動の拠点にしているところがありますね。
鈴木 それは別に写真集のために撮っているわけでもなく、結果として残るんだけど、そういうことを設定しないと動かないというか、変わっていかないんですよね。だから次の対象はなんでもいいんですよ。ただ次に展開しやすいテーマを決める。変わり目でプッツンしないように、考えていかなければ、それだけですよ。
質問 写真集、写真展、雑誌の連載などがありますが、最近のデジタルという媒体についてはどうですか。
鈴木 いやおれ、CD-ROMあるんだよ。幻の。150点写真はいっているんだ。
質問 えっ!あるんですか。それは知らなかった。
鈴木 出来てんの。出来たんだけど。事情があって出版がダメになってしまった。世に出すのを。ぼくの手元にあるんだけど、それを上手くプレスすれば商品化されるんだけれど。まさに幻のCD-ROMですよ。自分で編集して、ムービーも、音も入っているんです。見て下さいよ。タイトルは“漂う水、女――ナジャ”ですよ。ぼくも結構サーカスの女など旅先で拾った女性の写真が多いんですよ。インターネットとかパソコンは自分独りで見るものじゃないですか。そういう雰囲気でジワジワと編集したものです。
質問 それではどうも有り難うございました。


Reported by Hiroshi Tani.