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第6回
江成常夫

写真界の巨匠に、写真を学ぶ若い人がお話を聞くコーナーです。第6回は、江成常夫先生です。

質問者:写真をやり始めて、やっぱりいろいろと悩んでいるのですけれど、先生が始められた頃、そこらへんのところお聞きしたいと思って。
江成:先生はやめましょう。江成さんでいきましょう。
質問者:はい、それでは写真を始められたきっかけみたいなものを。
江成:ルーツは定かでないんだけれど、ずっーと突き詰めていくと、僕はね、日本が太平洋戦争で負けた時が9歳だったんですよ。小学校の3年生ですか。それで、その後の敗戦で混乱した日本の社会の中にハリウッドの映画がどーっと入るんですね。それまで日本になかったアメリカの異世界が入ってきて、映画を通じて外国、特にアメリカの日本と全く違った世界を知るわけです。それが非常に印象が強いですよ。ハリウッドという夢の世界に憧れたと同時に映画そのものに対する興味が凄く湧いて、最初は映画をやろうかと思ったんですよ。ところが僕は神奈川県の田舎の人間でそういうものにとっかかりがまるでないわけですよね。どうしたものかと考えて、高校生時代に、あちこち土門拳さんとか映画のカメラの人たちにそういう世界に入るにはどうしたらいいんでしょう、という意味の手紙をずいぶん書いたんです。今でもよく下さったと思うんですが、土門さんから返事が来たんですね、直筆だったと思うんですが。土門さん曰く、あなたの質問ですよ。先ず技術はいつでも学習できるから、先ず基本的な勉強をしなさい。一般の常識というのかな、とにかく写真と直接関係なくてもいいから、まず基礎的な勉強をせよという意味の手紙をくれたんです。
 だから僕は大学を目指す頃には写真をやろうという夢を持っていたんですが、写真学校へは行かなかったんですよ。僕は事情があって大学に行くのが3年ほど遅れたんですが、このことは人間形成の上でプラスになったんだけど、普通の大学に行きまして、その後これまで、望みどおり順調にというか、非常に我侭に生きて来たんですよ。
 大学に進んだとき60年安保という一つのエポックの中で、アメリカと日本の問題、つまり平和の問題、あるいは防衛の問題を学生が非常に敏感に感じて、政治意識を持って政治の動きに積極的に参加していった、そういう時代に大学を過ごしたんですね。
 僕自身も社会的な問題に関心があって、あまり勉強はしなかったけれどそういう社会の動きに参加する。しかもそれを写真とつなげるということをやっていたんです。
質問者:じゃあ、その頃も撮影をやっていたんですね。
江成:それで。僕は62年に毎日新聞に入るんですけど、その時にぼくはスクラップブックが一冊できていました。新聞や雑誌に掲載されたものが。そのへんが買われてか、僕は写真部へ入ったんですよ。
質問者:大学時代写真は撮っていたのですか。大学の写真部で?
江成:僕は写真部に入らなかった。あくまでも個人、今でもそうなんですよ。田舎出で孤立無援でぶつかってたから、入社できたことは非常に喜びが大きかったですね。当時は今と違って新聞社は大変な世界でしたよ、クルマなんか子供じみた話ですけれどベンツですよ。そういうのにいきなり乗せられて、これはいいやっていう感じで、結構最初は面白かったですよ。
質問者:運転手つきで?
江成:そう。最先端だった。今、旗は流行らないけれど社旗を立てて。でも僕はそんなに長くないうちに組織から離れようという気持ちになりました。生活の面で物質的に恵まれていましたけれど、精神的には乾きというか、自分をそこで、写真を個につなげたいという、わりあい早くからそういう想いがありましたね。だけど生活の面と、なんというか国会へは入れるは、事件現場には踏み込めるは、怖いものなしっていうかんじでね、新聞から出版局に移ったんですけど、出版は企画もので旅に出て帰ってくればページが待っていて、8ページとか12ページとか、そしてまた次の企画で旅に出るというように。取材費、フィルムは湯水のように使えて、環境としてはとても恵まれていた。
 でも、乾きがありましたね。自己をそこへ投影したいという。客観性ということが強く言われましたね。中庸というのか、公器性が求める客観報道。それが表現するうえの乾きにつながった。ものを斜めから視る志向が僕はとても強くてね。
 でも毎日に12年いましたよ。僕が出ましたのは1974年ですけれど、僕らクラス、今50代の後半の人達、ほとんどが名前でてましたね。桑原史成、英伸三、土田ヒロミとか。
質問者:すると60年安保の頃学生時代を過ごしてきた人達というのは、面白いというか、社会的に訴えることをやっている人達が多いと。
江成:僕からみるともっと多く出なければという感じがしますね。戦後の日本は写真に限らず社会全般が歴史観というか現代史認識を曖昧にしてきましたね。写真の世界では戦後のリアリズム運動のあと70年代、80年代アート指向が強くなって気がします。ドキュメントにしろアートにしても現代史をクリアーしないと本当の表現はできないと思うんですね。歴史観を持った写真家が少ないから写真の社会的力が弱い。
 僕がささやかながらやってきたのはその部分なんですね。だから僕は現代史認識の甘さという点において、僕より上の人達に不満を持っているんですよ。
質問者:社会的に記録されてないということなんですか。
江成:記録というか、仕事の量が少ないし、つまり認識が甘かった。
質問者:社会全体の構造を捉えた仕事がその部分抜けているということですか。
江成:なかったわけではないけれど、非常に甘かった。今そういうことを注文するのは酷かもしれませんけど、避けて来ちゃったことが写真の世界だけでなく、日本の政治や経済や文化をダメにして社会を不幸にしている。現代史を曖昧にしてきた、そのことが現在の厚生省汚職や住専問題の、責任あるものが責任をとらないという精神構造につながっている、と僕は思いますよ。
質問者:いや、そういうのが写真家の仕事だったという。そういうのを伝えるというか残すことが写真家の仕事だったのかということですか。
江成:そうですよ。仕事で表現していくということです。昭和という時代は何であったのか、それをシビアに見つめるということが、写真の力というのはそういうものを持ち得るし、その役割があると思うんですよ。
 僕は今、大学院のある人間を視てますけど、写真を撮るという目的意識が非常に曖昧に思えるんですね、形だとかフィーリングとかでよく写真に関わって満足出来るかという感じがするくらい、何故なのかという認識が浅いですね。だからテーマを持てないし、一方的にランドスケープとか、なんか動きの瞬間の面白さといった、そういう写真に行っちゃうんですよ。本筋の部分がスコーンと抜けちゃっているわけ。
質問者:社会的に主張しなければいけないというのですか。
江成:主張というより関係づけるということが大事だと思う。関係づけるということが、その仕事の価値につながる。
江成:自己表現も作品として自立するには、自己で終わってはダメでしょ。自立するということは社会とつながることですよ。演劇だって観客がいて感動が湧く。写真だって同じですよ。写真が社会的に弱いのは観衆(社会)認識が低いから。
質問者:特に日本ではその傾向が強いですね。写真評論家の名前にしてもも一般の方はご存知ない。 江成:評論家にしても僕より一回り若い人が一線で働いていますよね。そういう人達も昭和の時代が何であったのかに関心を示さない。日本が中国に対して、韓国に対して、東南アジアに対して何をやったかってことを本気で考えようとしないわ。彼らの責任ではなくて、直接関わった人、それをつないできた人、その世代の歴史認識が間違っていたわけですよ。
質問者:うまくバトンタッチ出来なかったという。
江成:そう。現代史認識がどれだけ大事だということをあまり考えなかったから。むしろそれを封印してきたところがあるそれは今ある我々一人一人国民の責任にもつながっている。
質問者:私も責任ありますかね。
江成:あると思うよ。お父さんの世代にまず責任あるよね。僕はそのことが大切だということでこの20年昭和史に関係する写真を撮ってきた。新聞社やめた時点では自分の写真撮りたいという理想をもったわけで、まず僕がやりました仕事は、戦争で大勢の若い人が殺されたわけですよ。それで、国に残って日本を支えた女たちがいた。負けたときに進駐軍と称する連合軍が入って来たわけでしょ。そこのところに生活の糧を求めた女がいっぱいいたわけですよ。そこで進駐してきたアメリカやオーストラリアの男たちと女と男の関係が出来て、大勢の女がアメリカへ行っているわけ、それを記録する仕事が僕の20年間の最初の仕事だったんですね。それをきっかけに日本の戦後、昭和の時代、あるいは戦争に負けてその後の復興につながる時代を見てきたわけですね。
質問者:その後につながる仕事もすべてそこが始まりでずっと満州まで?
江成:それはそんなに片意地はらずに自然にそういう結果になって、その途中で僕は日本が旧満州を侵略する途中に置いてきぼりにされた残留孤児の問題に出会った。僕は「戦争花嫁」を撮った後に木村伊兵衛賞を戴いたんです。そのご褒美に第一作を作れと言われたんですね。それでたまたま「花嫁のアメリカ」という仕事が終わったときに、中国残留孤児の第一回の身元調査が始まったんです。
 昭和史の庶民、戦争に翻弄された日本人という一点でつながる。ドキュメントの大事なことというのはなぜそれが被写体なのか、その関わることの必然性が大変な条件なんです。それが写真の価値、仕事の価値につながる。それは仕事に対していささかでも責任を持つという意味でも大事にしてるつもりです。
 で、たまたまそういうときに恵まれて、アサヒカメラのご褒美に第一作として撮り始めたのが今度は残留孤児だったわけです。その時何回か連載していただいたんです。それが今回の満州(江成常夫写真集「まぼろし国・満州」95年度毎日芸術賞受賞)につながるんです。
 残留孤児の仕事が「満州」につながったのは戦後数十年もたってなぜ孤児なのか、なぜ孤児が生まれたのか――という素朴な疑問からです。隠された歴史に教えられた、とも言えますね。封印された昭和史を見てみようと思って。旧満州(現在の中国東北部)には現在も日本が支配した時代の軍の施設や公官庁だった建物がたくさん残っています。それらを一つ一つ見ているうれに「満州国」の輪郭が現われて、またそれがシャッターを押すエネルギーになる。僕がこれまでやってきた昭和史の仕事は結局は対象との出会いの産物であって、被写体こそ教師という気がしますね。
質問者:写真というのは非常に間口が広いし、奥行きも深いですけど、いろんな写真があっていいかな、と、で社会的メッセージの非常に強い写真もあれば、全然ない写真もあって、まあ悪くない、と。
江成:アルバムに貼る写真も写真だから。だけどドキュメントもあれシリアスもある。最近ではデジタル写真なんか出てきたりして、ますます機能が広がっているのだけど、どんな写真でも最終的には創る人のメンタリティーに帰ってくる。そのバックボーンはやっぱり社会や時代感覚ですよ。
質問者:自分たちも、写真を撮りつつこんなもの撮って、でどうなるんだと思ったり、型や色の世界で何かつかめるかと考えたり、江成さんのおっしゃるように、現代史のことも考えなきゃいけないと思うんですが。
江成:今までは、余談というか、難しい話に入り過ぎちゃって、何というかそういう準備のできてない、結果的に我々の責任なんだけど、下地が出来ていないあなた達に、突然それ言っても非常に酷な話で、それは横に置いておいてもっと具体的に今日のテーマというのは、そういう部分で話を聞こうとしているんじゃないでしょ。
質問者:いや! 究極のところは、そういうところに行き着くと思います。
江成:短絡したんじゃないかと。もっと軽いエピソード的なものとかあるでしょ。
質問者:最初におっしゃっていた、ハリウッド的要素というのは、どこかへ行っちゃったのでしょうか。
江成:ハリウッドの世界は異世界だったし今でもそうだけど、ただそれに触れることで写真という自己を表現するキッカケを作ってくれたと思ってますよ。
質問者:最近の作品ですけれど、なぜ広島を選んだのですか。
江成:ずーと関心を持ち続けていましたが、広島へ行く理由がなかった。被爆者でもない、家族にも被爆した者もいない。なぜ広島なのかと。スタッフならば命令のもとに行けますよね。だが個人となるとさっきの話じゃないがそこにつながらない。僕はそこでなかなか行けなかった。子どもの時から土門さんの『ヒロシマ』だとか、新聞社にいた頃も気になっていた。広島をなんとかという気持ちがぎりぎりになって、これは自分自身に対する口実なんですけど、戦争花嫁と残留孤児をやった。それは昭和の戦争に関わる庶民のテーマである。それに個人的なことから関わってそういう時間を経てきましたね。だからそれを免罪符にして近づかして貰おう、ということを自分に決めて出掛けたのが十年前のことでした。
 その頃は何もないわけですよ広島には、対象がない、形が、原爆ドームと資料館ぐらいのもので、そこで僕は戸惑ったわけですね。で、とりあえず生きている人の証言をとろうということで、具体的な記憶を辿り始めた。それがこの本になったんですけれど、一方で話を聞いていましたら、今の平和公園のあるところは昭和の初めの頃までは広島一の繁華街だったと、そこには千人単位の人が住んでいた。その両脇を流れる元安川や本川は原爆が投下された当時は苦し紛れに飛び込んだ人で埋まったとか、下流では遺体を焼く荼毘の煙があちこちから上がったという、そういう話を聞いているうちに、僕は広島全体がこれは聖地であると、犠牲者たちの聖地である、そうするとその道端にちょっと咲いている花が、犠牲者たちの霊魂として見えるようになったわけです。で川面のいろいろ映る形も霊魂に見えてきたのですね。それで撮り始めたんですよその写真を。つまりあらゆるもの、広島のあらゆるものを撮っているわけですね。片隅に咲く花だとか水だとか土だとか。
質問者:ヒロシマ・モニュメントでしたか、そういうタイトルで毎年のようにちょっとずつ、土田ヒロミさんでしたか。花というかそういう写真も、川面に灯篭が流れているという。
江成:それは僕の写真じゃあない?アサヒカメラにもう4年やったです。8月号にこだわって、写真展も8月にしているし、こだわることに意味があるんですね。森羅万象で広島を語ろうと、それを今やっているんですよ。
質問者:戻りますけれど、必然性がなけりゃダメですか、対象に対して。
江成:ダメということじゃなくて、それは関わっている人間の問題じゃないのかな。Aという人間とBという人間みんな考えること違うんだもの。だけど客観的に見たときにどちらに価値付けができるかというと、こだわることの意味というのが大きいと思うのね。特にドキュメントにおいては、それは大事なことだよ。こだわりを大事にすること、それは作家性につながるとも言える。その辺のところが案外軽く見られているんですよ。そのことは写真を上手く撮るなんかよりずっと以前に大事なことだと思う。
質問者:物の見方が出来たうえで、それから写真が来るという。
江成:土門拳さんや木村伊兵衛さんが日本の戦後写真史のなかに大きく存在しているのは技術だけじゃなくて作品の表に人格が重なっているからだと思うのね。時代を越えて作家性を保っているのは写真家としてどう生きたのか、対象とどう関わったのかでしょ。
質問者:これはと思う写真家いますか。
江成:日本の写真界で1人あげるとすれば――。
質問者:どなたですか。
江成:僕はねえ、尊敬しているといいますか、真っ直ぐに被写体に向かっておられるという感じの方は、まあ好きな人ですね、学びたいという、そうありたいという人は石元(泰博)さんですね。それと才能の上では藤原新也ですね。あとは――。
質問者:うーん、石元さんは江成さんの写真とはかなり違って見えるんですけど。
江成:石元さんは技術の面でも、それから考え方、生き方ですね。非常になんというか、清潔というか、僕にはとてもできないなあという感じがしますね。そういう人は他にもいるんでしょうが、あの人は際立ってますね。それと何でもないものを作品にしちゃうという力がありますよね、あの人には。技術的な面で。特に印象が残っているのは桂離宮とか傑作は沢山あるんですが、一時期物を撮ってましたね。『京の手業』だったか。とにかく何でもない物を撮ってるんですが、透き通るような作品に成立させるという、そういうものすごい力を持っている。描写力、光を感じとる力というか、これはとてもかなわないと思います。それと近づき難いようなピッとした姿勢。人間的にクリアーというか。見習いたいですね。
質問者:それではどうも長い間有り難うございました。


インタビュアーの感想

 約束の時間の10分前くらいに江成氏が黒のロングコートに身を包み現れた。なかなかお洒落な人である。それとは反対に、やや乱れた長い髪がワイルドな印象を与える。江成氏は、あまりいじめないで下さいよ」などと笑いながらおどけたりして、ある評論家の本にのっていた江成氏の解説“憤怒に燃えている”の印象は微塵もなかった。実に人当たりのいい人だった。しかし、後にこの思いはことごとく裏切られた。
 江成氏と向き合うとさすがに緊張がこみあがる。始めにあきら氏が「写真をはじめられたきっかけなどを....」と振ると、江成氏は子供の頃見たハリウッド映画の話を始めた。
 江成氏は話がすきなのか一人でずっと話していた。「つまらん」と思った。すでに本で読んだ経歴の羅列にすぎなかった。このまま終わるのだろうかと思い上の空で話を聞いていた。しかし頼んだ紅茶には手を出せずにいた。だが、しかし江成氏は“憤怒に燃えていた”。学生時代、毎日新聞社時代を経てフリーになった頃の事に話が及んだ時だろうか、氏の語気は次第に荒くなり、その眼は鋭い眼光を放っていた。氏は、いつしか色々な物を批判していた。戦争、政治家、社会、若者、etc.こうなると、もうだれも止めることはできない。それでも時折口をはさむあきら氏をことごとく退け、私は事態の急変にとまどいながらゴミくずと化した。質問を書いた紙を捨て、メモ用紙を手にした。
 さらに氏の怒りの炎は写真界にも飛び火した。感覚、フィーリング、上っ面の表現に走る若手。氏の焼き直しにすぎないH氏。
 そして、それを批判しない評論家。しまいには、名だたる大家も“撮れていない”の一言で一刀両断。あまりの過激さにVTRを止めることも度々あった。しかし、藤原新也、????、シンディー・シャーマンなどには好意的だった。他にも“写真家というより個人としての主題とのスタンスをより密接にしていかなければならない”“優れた芸術は常に負の部分を直視している。表面や型を追求しても仕方ない”など印象深い話が多くあった。話を通してフリーとしてやってきた、誇り、自負心が感じられた。そして怒りの裏に一人の寂しさがあったように思う。
 場所を変えて飲もうかという話になったが、氏は酒が飲めないといって帰られた。
 実にExcitingな人だった。そして、誰にも増して真摯だった。
 色々な事情で昔のように活動できないとおっしゃっていたが、江成氏にはまだまだ活躍して欲しい。写真界のためにも日本のためにも。
 あらためて氏の作品を手にしたいと思った。
 本当に余談になるが、氏は、熱弁の間中しきりに手まぜをしていた。初めは自分の頼んだアイスティーのストロー袋を指に巻いたりしてひとしきり遊んだ後、次におしぼりの袋を手にした。しまいには、僕のおしぼりの袋にまで手を伸ばした。しかし、さすがにためらわれたのか何度か行き来した後、手を引っ込めた。話とのギャップがおかしかった。
 私としては、写真家としてより人間としての氏に迫りたかったが、685年くらい早いようだった。

日本写真芸術専門学校
中岳 靖

Reported by Hiroshi Tani.