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 長く広告写真や女性ポートレイトの世界で活躍され、最近も和紙などに乳剤を塗って写真をプリントされた作品を発表されたりとご活躍の藤井秀樹先生。40年近くにわたる先生の「写真人生」を熱く語っていただきます。

編集部(以下 編):先生ですら撮れなくなった時期があったと伺ったのですが。
藤井秀樹先生(以下 藤):当時、なかなかに売れていまして、忙しすぎたからでしょうか。ノイローゼ気味というか、作品に行き詰まりを感じるようになってしまいました。写真が面白くなくなる、というか、まわりを気にしてしまったというか、プレッシャーを強く感じてしまったのです。
 それで、沢渡朔さんが撮っていたミシェルという名のモデルを連れて、パリへ行きました。まあ、忙しくなると、ぶらっとどこかへ出掛けたくなるものでしょう?
 彼女はイタリア人だけど日本語が上手く、頭のいい子でした。
 パリには一週間いたのですが、一枚も写真を撮りませんでした。
 そこでレンタカーを借りてミシェルとスペインへ向かったのです。
 なるべく人里離れた所へ行こうと、ボルドーの方まで車を走らせました。夜も更け、車を走らせるのにも疲れ、小さなホテルを見つけてチェックインしました。もう食事はできないとのことでしたので、近くの小さなレストランへ行きました。そこの窓辺に花が飾ってあり、とてもきれいだったんです。そのことをミシェルに言うと、「藤井さん、なぜ撮らない」と言われました。それまでパリにいる時には、自分の中でライバルを作ってしまっていて、撮れなかったんです。「藤井さん、素直になりなさい」と、ミシェルに怒られました。そこで、そうだな、と思って、翌日から撮れるようになりました。
 そこからスペインへ入り、サンセバスチャン、マドリッド、セビリア、コルドバその辺りをずっとまわりながら、彼女をずっと撮り続けました。
 それが、僕の最初の作品展である「Past」で、1970年のニコンサロンでの個展でした。
 後に、その作品はイギリスの年鑑に収録されました。日本人のカメラマンがイタリア人のモデルを使ってスペインで撮影されたものがイギリスの年鑑に収録されたのです。
 その辺りから、外国を意識するようになりました。
 「Past」は、コマーシャルでもなく、純粋に素直になろうと撮った作品で、すごく印象に残っています。
 先日の名古屋で行われた写真展や、神戸での写真展でも展示されましたが、いい写真はいつまでたってもいいものだと、あらためて感じました。
編:まったく、おっしゃる通りです。
藤:ヨーロッパへ初めて行った時のお話しもしましょう。まだマックスファクターの仕事をする前で、外人慣れしていない頃です。
 世界一周をしたい、というので出掛けました。
 当時は、まだ1ドル360円で、500ドルしか持って行けませんでした。それで、ブローニーのフィルムの中に闇ドルを巻いて持って行きました。闇ドルは400円くらいしたでしょうか。コペンハーゲンのホテルに着いて、ブローニーのフィルムをほどいてドルを取り出したのです。ホテルのゴミ箱にブローニーフィルムの紙が一杯になったのを思い出します。
編:これは書いても構いませんよね?
藤:いいんじゃないかな。(笑)
 それは日本航空の仕事も兼ねていて、航空券はもらっていました。行く先々で4枚の写真を撮ってくることが条件でした。4x5のリンホフを担いで行ったのです。
 パリに着き、モンマルトルの丘の教会を撮影していると、横をフォルクスワーゲンビートルが走り抜けて行ったんです。見ると、後ろに日の丸の旗を立てていました。当時は、日本人観光客は非常に珍しかったのです。しばらくすると、後ろから、「日本の方でっか?」とかなんとか、大阪弁で話しかけられました。2人連れだったのですが、ここで会ったのも何かの縁と、カメラをたたんでカフェでお茶を飲むことにしました。話を聞くと、宝塚からドイツへ留学している兄弟で、休みを利用して旅行をしているとのことでした。お金がないので車に寝泊まりしながらの旅で、風呂にもろくに入っていないとのことだったので、泊まっていたホテルに行って風呂に入れてあげたんです。そしたら、よほど疲れていたらしく、ホテルの部屋で二人とも寝てしまったのです。
 僕はパリを出て、レンタカーでヨーロッパを巡るつもりでした。
 そこで、彼らに交換条件を出しました。一日5,000円で、車の提供や宿の手配や通訳をしてもらうというものです。
 そうして、3人の珍道中が始まりました。スイスの山を越え、イタリアへ出たり。ローマの駅で別れるまでの一ヶ月間、ずっとその3人で旅をしました。
 それが、僕にとっての最初の海外旅行でした。
 後から、彼らは実は大阪の薬品会社の跡取り息子だということを聞きました。その後、いまだに交流があって、縁というのは不思議なものだと感じます。
 ローマで彼らと別れ、リスボンへ行き、それからニューヨークへ行きました。大停電のあった年で、停電の終わった日にニューヨークに着いたと思います。
 初めてのニューヨークで、ホテルも予約していなかったのですが、飛行機の隣に席だったきれいな女性がとても親切で、入国の際に書く書類の書き方などを教えてくれた上に、ホテルも紹介してくれたんです。その人は、スイスの病院の看護婦さんで、ニューヨークに住むお姉さんに会いにきたとのことでした。
 おかげでホテルも取れて、レイモンド・オータニさんに電話を掛け、会いました。
 レイモンドさんは、kakoストロボの社長が紹介してくれたのかな。ニューヨークへ行ったらレイモンド・オータニに会え、という感じで。
 当時、レイモンドさんはニューヨークで日本人向けのお土産やなどもやっていました。3人の小さな娘さんがいたのですが、その後、彼女たちはオールアメリカで初めての日系人検事になったり、FBIになったりしました。レイモンドさんは、今は国連関係の仕事をしているのですが、今でも交流があります。彼のおかげでニューヨークが身近に感じられるようになりました。
編:お忙しいところ、ありがとうございました。