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 長く広告写真や女性ポートレイトの世界で活躍され、最近も和紙などに乳剤を塗って写真をプリントされた作品を発表されたりとご活躍の藤井秀樹先生。40年近くにわたる先生の「写真人生」を熱く語っていただきます。

編集部(以下編):今回はデザインセンターを辞められ、独立された頃のお話をお願いします。
藤井先生(以下藤):もう時効だから話しますが、デザインセンターに勤めながらもファッション雑誌のアルバイトをしていたんですよ。だんだんアルバイトの方が忙しくなってきてしまって、会社は給料制ですがアルバイトは毎回ギャラが出ますからね、そのおかげで家が建ったようなものですよ(笑)
 前の「服装」の時にも話したけれど、何か仕事を3年やると人間って変化が大きくなってくるんですよ。服装から引き抜かれてトヨタや旭化成の仕事をしているうちに、亀倉雄作先生が辞められ、社長も代わり、田中一光先生が独立され、じゃあ僕も辞めて独立しようかという事になったわけです。
 そのころ貸しスタジオというものがあまりなかったんですが、飯田輔広さんが赤坂スタジオをやられていて、デザインセンターの頃からよく使っていたんです。フリーになって事務所を探していたら、飯田さんから赤坂スタジオに3畳の部屋があるからそこに来ないかという事になりまして、やはり事務所を探していた横須賀功光さんと3畳を分け合って事務所にしたんです。
 そうやってフリーとしての仕事を始めたんですが、会社に勤めながら仕事をしているときは仕事がたくさんあったのに、フリーになると仕事がそんなに無いんですよ。考えてみたら会社の仕事が無くなった分、まるまる暇になってしまったんです。横須賀君は当時から売れっ子だったから仕事がバンバン入って来るんですが、僕は事務所に行っても仕事があまりない。ぼけっとしていたら横須賀君が作品を撮りなさいよと言うんです。誰か好きな女の子を見つけてきて撮りなよと。当時は装苑やハイファッションの仕事をしていたんですが、その編集者から丘ひろみを紹介して貰って、まだまったく無名の16才の女の子だったんですが、顔が凄くきれいだからと撮る事になったんです。
 飯田さんにはすごく感謝しているんですが、スタジオ代なんてとらないで好きなだけ空いている時間には使いなよと言ってくれて、夜中でも昼間でも好きなだけ撮っていましたね。
 丘ひろみには当時のお金で10万円払いまして、専属のような形にして貰ったんです。10万円と言ったら当時は大変な額ですからね、金払ったんだから撮らなければ損だというわけで、無我夢中で撮っていましたね。
 若い人達には、暇なときに何をするかというのが、とても大事なことだと僕は思うよ。暇なときに遊んでいないでどれだけ作品を作っていくかという事がすごく大事。
 僕と横須賀君は秋山おやじに呼ばれて、言われたことがあるんですよ。僕の写真はほめないんですが。「横須賀君な、君は剃刀のようにシャープな写真を撮る。すごい写真だ。だけどなあ土門さんの写真もすごいぞ。1枚を比べたら君の方が優れているかもしれない。けれど、50枚100枚となったら、重みが違うよ」と言われまして、積み重ねていくことの大事さみたいなものを教わりましたね。
 そうやって3年ほど丘ひろみを撮りました。電通からマックスファクターの広告の企画があるんだけれど、何かプレゼンテーションしてみないかというお誘いがありまして、束になるくらいにたまった丘ひろみの写真を宇野亜喜良さんに料理してくれと頼みまして、ダイヤモンドの絵を描いて貰って「ダイヤモンドの涙」と言うタイトルでプレゼンしたんです。そうしたら、この写真はいいねということになって、撮りためた3年間の写真で広告展開することになりました。途中で写真が足りなくなるから、入江美樹や渡辺ひろよさんを撮りましてね。3年くらい続いたのかな。そのシリーズが大ヒットして、アートディレクター賞をはじめとして数々の賞を頂きました。今でも、あの新聞広告を見てデザイナーになりましたカメラマンになりましたと言われることがありますよ。
編:当時の広告写真というと、商品の写真ばかりで、そういった作品的なものはあまりなかったのではないですか。
藤:そうですね。当時から広告業界には一つのシステムが出来上がっていたからね。そういう枠にはあまり当てはまらないシリーズでしたね。もともと広告のために撮った写真ではなく、自分の作品を広告として使ったわけですからね。良いか悪いかは分かりませんが、自分の中で一つ癖が付いてしまいまして、言われたままのただ写真を撮るのではなく自分にしか撮れない写真を撮るようになりました。僕にとって広告写真と作品は二つの車輪のようになっているわけだけれど、その二つでキャッチボールされることはよくありましたよ。最近でもオーチャードホールのポスターに昔の作品が使われることになりましたし、今となっては20年くらいの作品なんですが、そういうところは面白いですね。良い写真というのは時代には関係ないんだということを若い人には言いたいですね。
 そうやってマックスファクターの仕事を始めたんですが、横須賀君は資生堂の仕事をしていて、部屋にライバル関係の会社のコンテや写真がちらばっているわけですから、これはまずいよ(笑)ということになりまして、赤坂スタジオから近くの三銀ビルにそれぞれ6階に彼が5階に僕が移ったんです。そこまでが、僕の赤坂スタジオ時代かな。
編:ありがとうございました。次回は事務所を移られ活躍されていく頃のお話をお願いします。