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 長く広告写真や女性ポートレイトの世界で活躍され、最近も和紙などに乳剤を塗って写真をプリントされた作品を発表されたりとご活躍の藤井秀樹先生。40年近くにわたる先生の「写真人生」を熱く語っていただきます。

編集部(以下編):お忙しいところ、ありがとうございます。よろしくお願いします。

藤井秀樹先生: 前回は婦人生活社時代のお話をしましたので、今回はそのあと、1960年に日本デザインセンターへ移ってからのお話をしましょう。
 担当したのは、主にトヨタ自動車と旭化成で、後半はトヨタが主体になりました。組ませていただいたデザイナーの方は、田中一光先生と永井一正先生です。
 車の写真を撮るわけなんですが、日本で最初に車の写真をスタジオで撮り、そのノウハウを確立したのは僕なんです。
 車を撮影したことのあるスタジオが、当時はまだ日本にはなく、どうやって車を撮るのか、ライティングの方法などはまった未知なものでした。
 外国のいろんな雑誌を読んでライティングを研究し、メタリックなミニチュアカーを買ってきてペンシルライトで光を当てて、どうやったらきれいにライティングが出来るかを、夜遅くまで研究しました。
 結果、一つ考えたのは、おおきな布で囲って、ライトを遮蔽して、それを壁に反射させて撮るという方法でした。当時は修正技術というものがありませんでしたから、とにかくフィイル上できれいなものをあげなければならないというわけで苦労をしました。当時、旭化成からベンベルグデシンという布を購入して、それをつなぎ合わせたものを天井にぶら下げて、ライトの反射を殺すということをやりました。それがパブリカの発売広告だったのですが、その技術は今でも生きています。フリーになって10年くらいたったときに、また車を撮る仕事があったのですが、当時僕はファッションの仕事が多かったので、車の写真は初めてだと思われていて、「スタジオに行くと大きな白い布があるからそれを使ってね」と、撮り方をいろんな人が教えてくれたりもしました。
 名古屋の「竹園」という旅館に一ヶ月くらい泊まりこみまして、テストコースで出来た新車を撮ったこともありました。もしその新車の発売がばれてしまうと、みんな買い控えてしまってトヨタはたくさんのストックを抱えてしまうわけですから、新車に関する一切のことは完全に秘密です。当時、梶山敏幸さんの「黒い試走車」などが話題になり、映画にもなったりもしたものですから、加速度的にチェックが厳しくなり、撮ったネガの数までチェックされたものです。
 ロケにも良く行きました、赤城山とか日光とか、カタログのために車を持っていってはいろんなところで撮影したのですが、実際に撮るとなると車に合う景色というものはなかなかないものなんでしてね。走る写真を撮るために、陸送用のトラックの荷台に乗って撮ったり、俯瞰で撮るためにクレーン車に乗ったら、大変揺れて命がけの撮影になったことなどもありました。赤城山の近くの湖で、凍った氷の上で撮ったときなどは、車が半分氷に沈みかけて青くなったこともありました。幸いもう一台の車で引っ張り上げてなんとかなりましたが、失敗していたら新車が湖に沈んでいるところでした。
 また、ダンプカーの下からローアングルで、もう一台のダンプカーを撮るというふうにデザイナーさんが絵コンテを描いて指示を出してきたものがありまして、炎天下にダンプカーの下からローアングルでカメラを構えたのですが、上にマフラーが通っていて暑くて暑くて大変でした。デザイナーは絵コンテを描くだけなのですが、撮る方はもう地獄のようでした。
 デザインセンター時代の仕事で一番印象に残っているのは、当時世界のトップモデルであったツイギーという女の子を撮ったことです。
 I LOVE CORONAというコピーの広告で、当時東京タワーの下にパークスタジオという車を入れることもできるスタジオが出来まして、そこで撮影しました。人気絶頂のモデルでしたので、警備員が何人も表に立ち、スタッフも総勢で50人くらいになりました。短い時間のうちに、ポスターから何かまで全てを撮らなければならなかったので、舞台装置やライティングの変更にたくさんの人材を使い、大変な撮影になりました。とても勘のいい子で、何か言うと人の目を見てすぐに動いていく子でしたね。
 実はその時大失敗をしました。タングステンで撮影をしたのですが、何故かフィルムの中にデイライト用の物がが混入していまして、何枚か救えたのですがみんな真っ赤になってしまって、僕の顔は真っ青になってしまいました。(笑)未だに原因は分からないのですが、それからはフィルムに関してはとても注意深くなりました。
 しかし、いま、こうやって思い出してみると、服装という雑誌で雑誌の作り方を学び、日本デザインセンターで大変優秀なデザイナーの方と一緒に仕事が出来たという事は、そのあとフリーになるときに本当に役に立ちました。人間としてのつながりが出来たことは、本当に幸運であったと思います。
 たまたま先月の23日から28日まで三越で小生の集大成のような写真展がひらかれたわけですが、そのために昔のネガを整理していたら、デザインセンター時代の作品が出てきて、懐かしくも思い、また勉強させてもらったなとつくづく思います。
 そうやって3年間デザインセンターにはお世話になったのですが、田中一光さんがデザインセンターをおやめになって独立するということになりまして、僕もその頃、会社とは別にやっていたファッション雑誌のアルバイトが忙しくなってきていましたので、63年にデザインセンターを辞めてフリーになりました。日本デザインセンターでは本当に色々なことを学べ、また広告の創生期にその仕事に携わることが出来たことを、大変感謝しています。

編:次回は赤坂スタジオ時代へとお話しがすすんでいきそうですね。よろしくお願いします。ありがとうございました。