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長谷正人
早稲田大学文学部教授


[36]東松照明あるいは写真家というパラドックス

 プロ(あるいは芸術家)としての写真家とは、いったいどのような存在なのだろう。それは画家や小説家がプロの芸術家であるほどには簡単なことではないと思われる。これまで私が論じてきたように、写真( カメラ) の特徴は、撮影者の意図を介在させることなくオートマチックに「光」としての現実を捉えてしまうところにあるのだった。とするならば、そこに写真家が介在する余地などないのではないか。つまりプロの写真家を名乗る限りは、自分の写真を自分の意志によってコントロールされた「作品」に仕立てなければなるまい。だから写真家がそうやって「芸術家」としての様々な工夫をすればするほど、写真の本源的特徴から遠ざかっていってしまうことになる。事実、プロの撮る多くの写真は、いかに美しく撮り、いかに対象物の本質に迫っていくかという工夫が凝らされることによって、限りなく凡庸なものになってきてしまったと言えよう(例えば大家を自称する写真家の、冬山の美しさをこれみよがしに捉えた写真)。つまり芸術としての写真は必ずにどこかで嘘を孕んでしまうのであり、だから本連載で私が論じてみせたように、そのような野心とは無縁の、素人がさりげなく撮った記念写真や肖像写真を取り上げて、そこに写真の本質的な不気味さや狂気性を見いだすことの方が、はるかに刺激的で生産的なのではないか・・・。
 私は確かに心のどこかで、そう思っていた。芸術写真家などについて論じても仕方がない、と。しかし、上野昂志の『写真家 東松照明』(青土社)というとてつもなく美しい本を読んだとき、その考えを少しだけ修正せざるを得なくなった。写真家はやはり重要な存在なのだ。どのようにか。説明していくことにしよう。
 まず私たちは上野が、東松照明の写真の特徴を、撮影された事物の「意味」よりも「実在」を感じさせるところにあると言っていることを確認しよう。つまりまさに私たちが論じてきたように、ここでも写真は「触覚的」に世界に触れさせるものなのだ。たとえば、東松が天草で1959年に撮った「家」の連作のうち、台所の流しを真上から捉えた作品(本当に言葉を失うしかない、触覚的な素晴らしい写真だ)を上野は次のように批評する(95頁) 。

 この黒々とした物質の、濡れたような感触の圧倒的な実在感は、それが流しであるとわかったその瞬間に、その了解の囲いから溢れだしてこちらに押し寄せてくるのだ。そこで脳は、改めてコレハ何ナノカ?という問いを発するのだが、その問いそのものを「流し」という杭に繋いでおくことは、もうできない。われわれは、現実の(とは、だが果して何か)流しを前にして、このような戸惑いや困惑に捉えられることは決してない。それが、どれほど古い家屋の、電灯の光も十分に届かぬ流しであったとしても、暗いとか物がみえにくいと不満を漏らすことはあっても、流しそのものの実在を前にして戸惑ったり困惑したりすることはない。流しは流しなのだ。だが、この東松の写真では、流しは、もはや流しではない。といって流し以外の何かであるというのでもない。・・(中略)・・そのようなものを、われわれは、写真と呼ぶしかないのだ。写真が、ここに現前する。

 つまり東松照明の写真は、それがある家の「流し」であるとか、洗いかけの食器が置かれているとかいった了解可能な意味を「視覚的」に伝えるものではない。そのような「意味」など越えて、いきなり「黒々とした物質の、濡れたような感触」を「触覚的」にわれわれに伝えてしまう。だからこの写真を見るものは、その「圧倒的な実在感」にいきなり触れさせられて、「戸惑ったり、困惑したりする」しかないのだ。逆に言えば、日常生活において、私たちが「流し」をそのような触覚的な視線において捉えることは決してないはずだ(「みえにくいと不満を漏らす」くらいだ・・)。もし触覚的に流しを感じ取ってしまったとしたら、私たちは何も「意味」として了解できないまま流しの前に立ち尽くし、恐らく狂ってしまうしかないだろう。つまり、家の「流し」を捉えただけのこの一見さり気ない写真は(そして上野によるその批評文は)、人間的な親しみを剥奪させられた狂気の物質的世界を出現させていることになる。
 人間に了解不能な、非=人間的な世界。だが間違ってはいけないが、それは決して人間的世界と真っ向から対立するような、おどろおどろしい世界であったり、混沌とした世界であったりするわけではない(むしろ、それらは人間の観念が了解可能なものとして生み出したファンタジーとしての狂気にすぎないだろう)。むしろ東松の写真はほとんど、人間が理解している通りに現実世界を捉えている。この写真は、誰が見ても間違いなく「流し」の写真だ。だが何かが微妙に違う。そこでは、「流し」が人間的な関心を脱臼させてしまったかのような、( カメラの) 視線によって捉えられているからだ。その無関心さが私たちには怖いし、神秘的でさえあるのだ。上野昂志は、その神秘性を東松の別の写真(アスファルトの表面を真上から微細に捉えた「アスファルト」)に対する批評で巧みに表現している。

 真っ黒な画面のなかに、丸や四角の形をしたものが埋め込まれたように散らばっており、ところどころが濡れたように光っている。そのさまは光の届かない宇宙空間のどこ かのようでもあり、また惑星の表面のようでもある(135頁) 。

 つまり、一言でいえば、彼ら(都市を撮る普通の写真家=引用者注)は人間が住み、行き交う空間としての都市を見ているのに対して、「アスファルト」の東松照明は、端 的に人間が去った後の物質としての都市空間を見ていたのだ(142 頁) 。

 人間が作り上げた都市を「人間が去った後の」世界として見てしまうこと。アスファルトという見慣れたはずの光景をまるで「宇宙空間」のように感じてしまうこと。つま りここで上野は、東松写真において、人間など存在しない神秘的現実に触れたことを率直に告白していると言えよう。アスファルトは人間が生活上必要なものとして作ったも のだし、その上に散乱している無数の鉄屑らしきものも全て人工物であるはずだ。にもかかわらずそれが上野には(私たちにも)、全く人間とは関係ない別世界の異物のように見えてしまう。だから、彼はそれを「惑星の表面」とでも呼ぶしかない。なぜ、人間的に作られたはずの現実世界が、そのような神秘的な異物に感じられてしまうのか。それはまさに、写真が人間の意志を介在させずにカメラが自動的に捉えた世界だからに他なるまい。人間( 的な意味) に全く無関心なカメラが、人間に無関心な現実世界をそのまま自動的に提示してしまう。だからその写真を見る人間も、一瞬、慣れ親しんだ日常的な意味世界のすぐ裏側に、こうした神秘の世界が現実として広がっていることを触覚的に感じ取ってしまう・・・。
こうして上野昂志は、バザンやバルトのように、人間的な意味作用を介在させない写真の「触覚性」や「神秘性」を東松照明の写真から感じ取ったわけである。ではなぜそ のとき、それが「写真家論」でなければならないのだろうか。実際ここで上野は、「東松の写真は、そのブツとしての圧倒的なリアリティを立ち上がらせてくる一方で、写真家としての彼の存在を消してしまう」(10 頁) とまで主張しているのだ。東松という写真家は、みずからの存在を消すことによってはじめて、優れた写真家になっているのだとすれば、最初から「カメラ」や「写真」のオートマチズムの問題を一般的に論じてしまった方が早いのではないか。しかし、それは違うと言うべきだろう。上野にとってやはり、これは写真家論でなければならなかった。
 なぜか。写真家論は、なぜ重要なのか。簡単に言えば上野は、東松照明という写真家について論じることで、人間が、人間に無関心な世界とどのように付き合ったらよ いかという「生の倫理」を問題にしたかったのだ。カメラは必ずオートマチックに現実を提示してしまう狂気の機械だとしても、やはり実際には誰かが人為的に撮影対象を選び、構図を決め、シャッターを押さなければなるまい。たとえ素人であったとしても、私たちもカメラを構えるたびに、そうやって写真をどうやってコントロールするかという小さな決断を下している。だから、これまでの本連載の主張のように、写真のコントロール不能な神秘性に大袈裟に驚いてみせるのは、それだけではしょせん観念的にロマンチックな姿勢にすぎないだろう。さらに、その神秘的世界に自閉的に入り込み、幽体離脱的世界を本気で信じてしまうことなど、まさに自堕落と言うしかあるまい。やはり私たちは、写真の狂気に触れてしまったとしても、半分は正気でいるべきなのだ。そして、正気を失わずに能動的に狂気の世界とつきあう技法を考え出さなくてはならない。
 そう。だから私たちは、この小さな、だが重要な決断の下し方を東松照明という写真家から学ぶべきなのだ。凡庸な芸術写真家たちのように、コントロール不能な自動性を 隠蔽してしまうために美的な努力をするのでもなく、かといって所詮コントロール不能なのだからと諦めて作家性を放棄してしまうのでもなく、その写真のコントロール不能性に自分の身を浸しながら、その不自由な状態をありのままに肯定すること。東松照明という写真家が写真を撮ることにおいて身をもって示しているのは、そのような姿勢なのだ。むろんそれは決して、写真だけの問題ではない。実は写真とまったく同様、人為的にコントロールすることが絶対に不可能なこの現実世界のなかで、どのように生きるかと言う「生の倫理」の問題でもある。むろん上野昂志もまた、東松照明の写真や人生に身を寄り添わせながら、そのような倫理的な姿勢を学ぼうとしている。それが本書を限りなく美しい書物にしている理由なのだ。