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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[29]韻律的な物語映画としての山中貞雄

 今は失われて見ることのできない山中貞雄監督のサイレント作品の数々が、当時の批評家たちによって「韻律的」な作品と呼ばれていたことは良く知られているだろう。それらの作品が、とくにサイレント映画独特の「説明字幕」の巧みな挿入によって、映像の流れに実に見事な「リズム」が刻み込まれていた美しい作品だったらしいことは、当時の批評文からだけでも充分伺い知ることができる。たとえば山中貞雄の「発覚者」として知られる岸松雄は、山中のデビュー作や二作目への見事な批評のなかで、その「韻律的」な画面連鎖の鮮やかさを次のように説明している。

 「矢初一家の急を聞き、喧嘩の場所へ宙を飛んで走って行く源太の名乗。『常陸の国は、』『茨城郡』『祝生れの』『源太郎』、一一その切れ切れ名乗の字幕的表現と、人影なき堤の左から右上へと斜め横に切れ上がっていく移動撮影画面との、交互的接続は、颯爽たる旅人の身を捨てて走って行く勇ましい気骨を感じさせる」(処女作『磯の源太 抱寝の長脇差』への批評、『キネマ旬報』1932年2月21日)

 「笠が流れで行く。と『流れて』『流れて』『此処は』『何処じゃと』『馬子衆に問えば』『此処は信州』『中仙道』これらの字幕が美しい野や山と街道の画面とを相互に組み合わせるとき、われわれはそこに単にその劇の背景をなす地理的な環境の変移を感じるだけでなく、気分の転換をも感じる」(第二作『小判しぐれ』ヘの批評、『キネマ旬報』1932年5月1日)

 つまりサイレント期の山中作品は、こうしたリズミカルな画面連鎖によって観客を視覚的かつ身体感覚的に楽しませる作品だったのであり、その物語の内容によって観客を心理的に共感させるものではなっかたと言えよう。だからこそ当時の批評家たちの中には、山中の「形式主義」を批判して、「内容」が薄っぺらだとか「現実」が描けてないなどといった言葉を投げつける者もいたのである。たとえば上野一郎は、「デテイルの技術的完成」にばかりこだわって「映画全体の把握」を怠ってしまう山中貞雄の作品は、ヴェルトフのそれのように主観的な支離滅裂に陥ってしまっていると批判している(「山中貞雄に対する小感」、『映画評論』1932年7月)。しかし、こうして物語内容の心理性や現実性よりも、リズミカルなモンタージュや映像の視覚性を重視するような映画作りの方向性は、山中貞雄やヴェルトフのみならず、エイゼンシュテインやアベル・ガンスから伊藤大輔にいたるまでの世界中の優れたサイレント映画全てに見られる特質だったと言えよう。恐らく観客にとっても、サイレント映画の魅力は、テクノロジーとしての「断続的」で「形式的」なリズムを身体感覚的に楽しむ(心理的な外在性において楽しむ)ところにあったのであり、そこには物語に没入する心理的な楽しみは(ほとんど)なかったのである。山中映画の「韻律」的字幕挿入もまた、そうしたサイレント映画のテクノロジー的「断続性」を表現する方法の一つだったと言えよう。
 では、そうしたサイレント映画的な才能を発揮していた山中貞雄は、映画のトーキー化という製作条件そのものの変容に対してどのように対処したのだろうか。たとえばエイゼンシュテインや伊藤大輔のように、サイレント映画の視覚的表現で才能を発揮した監督たちの多くは、こうしたトーキーの物語映画の表現方法に上手く馴染むことができずに第一線から退かなければならなかった。だから彼もまた危機に陥ったのではないか? いや実はそうした歴史的変化の渦中にあって、山中は巧みにこの変化に適応したのである。つまり彼は字幕挿入によるリズミカルなモンタージュはきっぱりと捨てて、セリフによって物語内容を表現するような古典的物語映画を改めで作るようになったからだ。だから山中のトーキー作品に対しては、「形式性」や「韻律性」を指摘する批評家はほとんどいなくなったのである。代わって「昨日我々家庭にあった会話と同じかもしれない」(戸田隆雄「『百万両の壷』よりの連想」、『キネマ旬報』1935年7月1日)とか「従来の時代劇映画に欠け勝であった「生活」がある」(津村秀夫「人情紙風船」、『映画と批評』小山書店、1939年所収)といった生活感溢れるリアリティヘの賞賛や、「丹下左膳という人物に一つの風格を見せている」(北川冬彦「丹下左膳余話 百万両の壺』、『キネマ旬報』1935年7月1日)といった人物描写の確かさへの評価、それに「描かれる対象はひとりの人間の悲劇ではなく、この悲劇を生み出している社会の姿に、そうした人生に向けられている」(新洞寿郎「山中貞雄と『街の入墨者』」、『キネマ旬報』1935年11月21日)といった物語の社会的メッセージ性に対する賞賛に至るまで、もっぱら「内容」と「現実性」を指摘する批評が中心になる(むろん戯作趣味的な浅薄さ=内容の薄さを批判する批評もあった)。こうして山中貞雄は、映画製作システムのトーキー化の流れの中で、「韻律」的映画から物語映画へとその表現方法を人きくシフトすることに最も成功した作家の一人(もしかしたら小津や成瀬やマキノ以上に)だったと言えるだろう。
 しかし実は、事はそう単純ではない。もう少し繊細に山中のトーキー作品を見てみる必要があるだろう。たとえば蓮實重彦は、残された山中貞雄のトーキー作品のなかにも、サイレント映画同様の「音楽」性もしくは「抒情的な韻文性」を読み取っている。彼のトーキー作品もまた、観客を心理的な共感によって物語に没入させるのではなく、まるで「音楽」のように、その画面連鎖の「旋律とリズム」によって観客を外在的に同調させる映画だと蓮實は言うのだ(「山中貞雄論」『山中貞雄作品集』第二巻解説、実業之日本社、1985年)。たとえば蓬實は、『丹下左膳余話・百万両の壷』の中で少年・安吉が、左膳とお藤が自分のせいで夫婦喧嘩を始めてしまったことに心を傷め、壺を抱えて誰にも気づかれずに家出をする、あの美しい場面の「旋律とリズム」の素晴らしさを次のように説明している。

 安吉少年の家出から橋での再会にいたるまでのシークエンスは、流れてゆく時間につれて拡がる距離の意識が、適確な画面の連鎖によって甘美な旋律をかたちづくり、あくまでのろい安吉の歩みとそれは対照的な左膳の疾走ぶりや、鏡のような川の流れとそこに一瞬の連動を導き入れる波紋のひろがりといった視覚的な要素が、音としては響かぬ韻を踏み、見ている者の感性そのものに一つのリズムを刻みつけずにはおかない(後略)。

 つまり山中はトーキー作品を作るようになってからも、サイレント時代におけるようなリズミカルな画面連鎖をけっして捨て去ったわけではなかったのだ。実際、『百万両の壷』の生活感について論じた戸田隆雄の先の批評の中でも、彼は他方ては「移動やパンが非常に少なくて、一カット一カット比較的短いあの編集は、時に時計のような冷たさを感じる」と、編集のテクノロジー的リズムについても触れているのだ。だから確かに当時の人々も、山中のトーキー作品を意識的には物語として解読しながらも、無意識的にはそのテクノロジー的な「リズム」(時計のように冷たい編集)に何らかの快感を覚え続けていたに違いないのだ。ただ、多くの観客(や批評家)は、いまや「物語内容」や主人公の「心理」ばかりを意識するようになっていたために、こうした画面編集の「リズム」にはほとんど気づかなくなったにずぎなかったのである。
 いや、それどころかむしろ、こうした画面連鎖の「リズム」の美しさこそが、山中作品における物語の楽しさをも支えていたのではないだろうか。たとえば先の安吉の家出場面において、もし凡庸な作表がこうした「リズム」の美しさを無視した画面連鎖で編集してしまっていたとしたら、どうだったであろうか。つまり、安吉の寂しい心情をもっと強調するために、彼が一人歩く姿をひたすら長いショットにおさめるとか、安吉の表情がもっとはっきり読み取れるような心理的ショットを挿入するといったことが行われてしまったとしたら、観客はこの感動的な意味を持った場面をどう感じただろうか。恐らくこの場面は、説明過剰でただ感傷的なだけの、物語的にも退屈な場面になってしまっていたに違いない。つまり、この場面の物語的な感動(安吉の孤独な心情への共感)は、山中が物語内容の説明に表面的には従いつつも、あくまで「時計のような冷たさ」(テクノロジー的リズム)にこだわって、その安吉の心理的説明に溺れて行かなかった事によって漸く保たれていたのではないだろうか。先述の新洞寿郎の言い方に従えば、山中が安吉の「心理にくい入」ることなく、あくまで彼の心理とは冷酷な距離を置こうとするその外在的な緊張感が、私たちをしてこの場面に物語的に感動させていたと思われるのだ。
 こうして私たちは前回に引き続いて、観客を映画に対して外在的な位置に置くような反心理主義的映画を、物語映画以外の場所にではなく、他ならぬ物語映画自体の中に発見してきたのである。いやそれどころか、映画のテクノロジー的なリズムを前面に押し出したサイレント映画や実験映画の数々よりも、山中貞雄のトーキー作品のようにそれを無意識化しつつ保持した物語映画の方がはるかに貴重なものだとさえ私は思う。その理由について詳細に論じるには稿を改めなければならないだろうが、しかし次のようには言えるだろう。私たちは映画においても人生においても「物語」がら逃れることは決してできないのだと。だからそうした必然的に存在してしまう「物語」を無理に否定して、それとは異なった前衛的形式を求めた作品などよりも、「物語」の内部に入り込み、その心理的な醜悪さと巧みに距離を置く方法を教えてくれている山中貞雄作品の方が、私にははるかに貴重なのであると・・・。

(なお文中に引用した山中貞雄についての批評は(蓮實氏のものを含めて)全て、千葉伸夫編『監督 山中貞雄』実業之日本社、1998年に転載されたものを使用した)