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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[21]北野武あるいは「死」の快楽としての反復

 北野氏もまた、身体における「単調な反復」の運動をくり返し描いてきた映画監督だと言えるだろう。ただし彼は、たとえば小津安二郎の釣りやバスの場面のように、それを身体が身を任すべき心地よい快楽として描いてきたわけでは必ずしもない。むしろ彼の「反復」は、身体が抱え込んでいるコントロール不能な過剰性が不随意的に表出されてしまったものであり、当の本人にとっては不快な運動としてさえ描かれてきた。たとえば、彼の監督デビュー作『その男、凶暴につき』(1989)において執拗に描写されて話題になった、俳優ビートたけしの歩行シーンを思い出そう。言うまでもなく、ふつう「歩く」という身体運動は左右の手足を互い違いに出すことをひたすら繰り返す「単調な反復」からなっている。この反復運動を私たちは日常生活のなかで、ほとんど意識することもなく滑らかに行なってしまう。いや無意識的には微かな快楽さえ感じているだろう(何もしないでぶらぶらただ歩くこと=散歩の心地よさを思い出そう)。ところがこの映画の中のたけしときたら、手を真っ直ぐに伸ばしてまるでロボットのようにギグシャクとしか歩くことができない。何だがカメラの前に初めて立たされた素人俳優が、舞い上がって自然な歩き方をすっかり忘れてしまい、ひたすら意識過剰に「歩こう」と演技している感じなのだ。つまり北野氏においては、極めて日常的なはずの「歩行」という「反復」の身振りさえ、意思によってコントロールできない過剰な身体運動として現れてしまうのである。だがらそれは当然、少しも心地良いものではない。
 こうした「反復」運動の過剰性やそれへの違和感がさらに強く表現されるのが、暴力シーンである。北野武の映画において、「反復」は何よりも暴力として表現されるのだ。再び『その男、凶暴につき』の中からあげるとすれば、たけし刑事がディスコのトイレで、麻薬の売人を平手打ちで執拗なまでに繰り返して殴るシーンが思い出される。この平手打ちの反復の執拗さは、見ていて不気味なほどであり、黒幕の名前を聞き出すための暴力という元々の職務目的など完全に逸脱してしまっているとしか思えない。たけしは、まるでその「反復」運動に取りつかれてしまったかのように、ひたすら平手打ちを繰り返す。しがしだからと言って、彼がその「反復」運動に心地よく身を任せているわけではなさそうだ。いかにも彼は不機嫌そうなのだから。むしろ、平手打ちを相手に加えるたびに彼の「反復」への違和感はかえって増幅され、そのためますます平手打ちを反復するしかないという悪循環にはまってしまっているように見える。
 この悪循環的な「反復」運動におけるたけしの不機嫌さは、第二作『3-4x 10月』(1990)にあって一層明白になる。ここでは沖縄のやくざを演じるたけしが、自分の舎弟(渡嘉敷勝男)と寝た情婦の頭を(たけし自身が命じた行為であったにもかかわらず)、非難がましく何度も何度も執拗に小突いていただろう。砂浜でゴムボール野球をするときにも、投手のたけしはバッターの愛人に対してしつこいまでに繰り返しボールをぶつけ、彼女が野手となると打者としてその背後に繰り返しボールを打って彼女をいたぶっていた(しかも、モンタージュによってその「反復」の執拗さは誇張されている)。ここでもやはりたけしは、強く殴って一発で怒りを解消するのではなく、わざわざ小さな暴力を執拗に繰り返すことで自分の苛立ちを高めているかのように見えてしまう。やはり北野氏においては、「反復」は何よりも自分の身体が抱え込んでしまっている過剰性として表象されてきたのである。
 こうした暴力の「反復」は、第四作『ソナチネ』(1993)においても描写されている(なお、第三作『あの夏、一番静かな海。』(1991)においては、身体における「反復」は見られない。ここでは「反復」は映像自体(編集)の問題へと移行してしまっていて興味深いのだが、説明が煩瑣になるのでこの問題は省略する)。しかしこの映画にあっては、「反復」の有り様はそれ以前とは決定的に違ってしまっているように見える。それがこの映画を北野氏作品の中でも特異な印象を与えるものとし、同時に最高傑作ともしている理由である。たとえば、上納金を納めない麻雀屋の主人をクレーン車から吊るして海に溺れさせるシーンを思い出そう。確かにここでたけしは、麻雀屋をクレーンで海に沈めることを二度繰り返しはする。しかし二度目には長時間沈めてあっさりと麻雀屋を殺してしまうのだ。いくらでも反復していたぶり続けることの可能な状況が整っていながら、この映画のたけしはそれに全く関心がないかのように見える。それは彼がその直前に、トイレで同じ組の矢島健一を殴りつける場面でも同じだ。観客は、例によって執拗に殴打が繰り返されるのではないかと固唾を飲んで見守っているのだが、彼はここでら四回殴っただけであっさり止めてしまう。つまりこの映画では、苛立ちながら暴力を悪循環的に「反復」するといういつものたけしの姿が見られない。苛立つこともなく、ただ無表情に立ち尽くすばかりのたけしは、「反復」ヘの関心をすっかり失ってしまったかのように見える。
 しかし、そうではない。たけしは、ここで不機嫌に暴力を「反復」することを止めたにすぎない,むしろ彼はここで初めて、自分の身体における「反復」を積極的に受け入れ、それに快楽を感じることさえ成功するのである。奇跡的なまでに美しい沖縄の砂浜の場面を思い出そう。陽光が燦々と輝く無人の砂浜で、やくざ社会にさえ居場所を失ってしまったたけしたち一団は、もはやただの友愛集団として子供のように無為な遊戯(落とし穴ごっこ、花火の戦争ごっこ、フリスビーなど)をひたすら単調に「反復」するばかりである。従ってここでは、暴力の象徴としての「銃」さえもが、馬鹿馬鹿しい遊戯(ウィリアム・テルごっこや弾のないロシアン・ルーレット)の為の道具と化してしまう。つまりここでの彼らは、「生」に向かって前向きに生きることはもちろん、死に向かって生きることさえ許されない、無為で宙ぶらりんな存在なのだ。何も起こらない、何の目的もない、無為な時間のひたすら退屈な繰り返し・・・。しかも、こうした日常生活の「単調な反復」に埋没していくことに、彼らはある種の快楽さえ感じ始めてしまう。それを最も端的に表現していたのが、あの素晴らしい「紙相撲ごっこ」のシーンであろう。最初は退屈まぎれに部屋の中で紙相撲で遊んでいたたけしたちは、やがて砂浜で自分たち自身が紙相撲の力士となり、固定した姿勢のままピョコピョコと小刻みに上下運動し始める。いかなる自由意思も人間的な感情も失って、ただ地面の振動に身を任せて気持ち良さそうに反復運動するだけの人間ロボットたち。この場面で北野氏は、とうとう小津のように「単調な反復」を快楽として表現することができたのだと言えよう。
 しかし『ソナチネ』におけるこの「単調な反復」のシーンは、小津映画が秘かに胚胎させていた不気味な死臭や虚無感のようなものをもっと露骨に漂わせてしまう。たとえば阿部嘉昭は、その優れた北野武論(『北野武vsビートたけし』、筑摩書房、1994年)の中でこの作品を次のように論じていた(136頁)。

 実際この映画には、観る者を明確に「死」に誘う虚脱感、虚無感か満ちていた。映画のどこかで絶えず、死から生の領域に向けて無気味な「熱冷まし」が作用していた。人を絶望と死に向けて覚醒する太宰治が仮構した「トカトントン」のような物音は、音としての実体を失いつつも、確実に基調低音として作品の基底部で鈍く響いていた。

 なぜ『ソナチネ』には「死」の虚無感が満ちているのか。それはけっして、この映画に暴力と殺人が満ちているからではない。あるいは最後にたけしが自殺するからでもない。そうした暴力や自殺はむしろ、たけしの「生」ヘの執着心のために引き起こされる能動的なアクションにすぎないだろう。つまり人間が「死」を目指す行為には、必ずどこかに「生」のエネルギーを宿らせているのだ。ところがこの砂浜の場面のような無為な「反復」の世界では、そうした「生」のエネルギーはすっかり冷まされてしまっている。何も起こらず、何も能動的にすることもなく、ただ単調に遊戯を反復するだけの日常的「生」の世界・・・。たけしたちが快楽を感じてしまったこの無為な「生」においてこそ、「死」の虚無感はじわじわと現れ出ていたのだ。そこにこそ「トカトントン」という乾いた死の物音は鳴り響いていたのだ。
 北野氏は、こうして「死」の快楽を日常的「生」として描くことに成功してしまった。だから、さまざまな「単調な反復」から構成されている私たちの日常生活も、それ自体において「死」を胚胎させているのかもしれない。そんな恐ろしいことさえ北野武は私たちに想像させてしまう。だから『ソナチネ』は恐ろしい映画なのだ。だが、話はまだ終わらない。では北野氏は、その先どうすれば良いのだろうか。小津安二郎のようにだだひたすら「単語な反復」として日常生活を描き続ければ良いのだろうか。だが、そうはいかない。彼は小津のような天才ではなく、あくまでも我々と同じ現代の凡庸な人間なのだ。だから彼は、「死」の快楽を知ってしまった後でなお、そうした人間がどのようにして「生」を引き受ければよいのかを考えようとする。それが『キッズ・リターン』(1995)や『HANA-BI』(1998)における困難な試みだと思われる。ボクサーややくざとしての性急な上昇と挫折を知りながら、なお「生」き延びようとする『キッズ・リターン』の二人の青年(「俺たちもう終わっちゃったのかな」「バカ野郎、まだ、始まっちゃいねえよ」)。下半身不随になりながら、なお絵を描くという無為な遊戯において「生」き続けようとする『HANA-BI』の元刑事。彼らはいずれも「生」の無為さを知りながら、なおその無為な「生」を真剣に生きようとしているように見える。言うまでもなくそれは、『ソナチネ』で「死」の世界を描いてしまいながら、なお「生」としての映画を作りつづけようとする北野氏自身の姿に重なって見える。だが残念ながら、今のところその試みは、『ソナチネ』の砂浜における「単調な反復」の美しさを越えでてはいないように思われる。しかし、私達は彼の誠実な歩みを見つめ続けるしかあるまい。