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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[20]強迫性障害、『CURE』、反復

 強迫性障害(Obsessive-Compulsive Disorder)という奇妙な精神病理が存在する。(以下、この病理に関しては全て、ジュディス・ラパポート著、中村苑子・木島由里子訳『手を洗うのが止められない一一強迫性障害』晶文社、1996年による)それは、人間が日常生活のなかで無意味な行動をひたすら「反復」したり、無意味な想念に「繰り返し」襲われたりするという、言わば「反復」の痛理である。たとえばある患者は、手を洗っても洗ってもまだバイ菌が残っているような気がするため繰り返し皮が擦り剥けるまで手洗いを続けてしまうのだし、別の患者は、就寝前の確認行動(ガス栓が閉まっているかどうかやドアの鍵がかかっているかどうか)を何10回やっても安心できずにひたすらそれを繰り返してしまうのだ。またその他にも、自動車の運転中に突然、人を轢き殺したのではないかという想念に取りつかれ、その度に今来た道を引き返しては道路の周辺を何時間でも調べてしまう青年や、部屋中一面に粉砂糖をふるいでかける(まるでお菓子にするように)ことを20年間も続けてきた中年の女性など、その反復される行動の中身は実にさまざまである。彼らはいずれも、自分たちが繰り返している行動が全くナンセンスであることを良く知っている。しかし彼らはどうしてもそれを止めることができない。それが無意味だと知っている彼らの理性を越えたところで、その行動をひたすら反復してしまうのである。
 黒沢清監督の傑作『CURE』(1997年)を見たとき、私はこの強迫性障害のことを思い出さずにはいられなかった。なぜならこの映画の中の萩原聖人が、まさに強迫性障害者のように、いろいろな入々に殺人教唆の催眠術をかけることを強追的に「反復」していたからである。砂浜をうろついていた記憶喪失の萩原聖人を自宅まで連れて保護してくれたやさしそうな小学校教師、屋根から飛び降りて怪我した彼を交番まで連れて来た気の良さそうな警官(でんでん)、彼を診察する女医(洞□依子)、彼を重要参考人として取り調べる刑事(役所広司)や精神科医(うじきつよし)、こういった彼の前に次々と現れる普通の人々(もしくは善意の人々)に対して、萩原は会話が始まるや否やまるでぜんまい仕掛けの機械のように全く同じ様なやり方で催眠術をかけ、彼らを殺人へと導こうとする。つまり彼らの注意をライターの炎やこぼれた水が床を這う動きへと促すと、そこで『あんたの話を聞かせてよ』と無表情に囁きかけ始めるのだ。彼は、この「催眠術によって殺人を教唆する事」以外の何にも全く関心を持っていないかのように、ひたすらそればがりを反復する。私が萩原を「強迫性障害」と呼ぶのは、そういう意味である。
 しかし萩原には、現実の強迫性障害者とは異なっているように見える所がある。それは彼が「不安」を抱えていないということだ。当然だが、強迫性障害の人々はつねに「不安」である。彼らは手を洗っても洗っても、まだバイ菌が落ちきっていないという「疑い」を拭いきれないからこそ、手を洗いつづけるのだし、ガス栓が閉まっていることを何度確認してもまだ「不安」だからこそ、またガス栓を見に行ってしまうのだ。従って、彼らの一見無意味な「反復」行動は、こうした「不安」や「疑い」に煽り立てられているためだと考えることができよう。そしてだからこそ、私たちもまた彼らに共感を覚えることができる。彼らの行動自体はまるでロボットのように単純で不可解なものだとしても、その心理状態は私たちと共通点を持っているものなのだと。これに対して『CURE』の萩原聖人の行動は、私たちが彼を理解するきっかけとなるような、「不安」やその他の感情を伴っているとは思われない。たとえば、何人殺してもまだ殺し足りないというような「世間に対する憎悪」や他人を殺さずにはいられない「生への実存的不安」を彼が抱えているようにはとても見えないだろう。彼は実にたんたんと催眠術を繰り返すばかりだ。いやそもそも彼は全くの記憶喪失で、自分が誰であるかも分からないし、話している相手が誰であるかも(なぜか役所広司だけは誰であるかを認識し続けるのだが)すぐに忘却してしまう。つまり彼自身の言葉を借りれば、彼の内面は常に全く「空っぽ」の状態なのだ。だから「不安」や「悪意」などもちろんそこにはない。事実、女医の洞口依子に「そうやって記憶を喪失してしまうことで不安になることはないの?」と尋ねられたときにも、萩原は実に不思議そうな(そんなものがこの世にあるのかといった)表情でそれを否定していただろう。(そして「不安なのはあんたの方だろう」と見事に切り返していた)つまり彼は、何の理由もなく殺人教唆をひたすら反復する機械そのものとして生きていることになる。だがらこそ私たち普通の人間にとって、彼は怖い存在なのだ。
 「不安」に取りつかれたために生じる人間的な「反復」としての強迫性障害と内面のない単なる機械的「反復」としての萩原聖人、つまり、一方の人間と他方の機械。こうして見たところ、両者には明白な差異があるように思われる。しかし実は、ことはそう単純ではないのだ。たとえばジュディス・ラパポートは先にあげた書物のなかで、強迫性障害に関して次のように論じているのだがら。

 「患者たちはなんらかの内的心理的葛藤をコントロールするため、またはバランスを保つために、症状を「必要」としているのではけっしてない」(163頁)

 つまり実はラパポートは、何らかの心理的要因によって強迫性障害が起きるのだとは考えていないことになる。だとえば自分がエイズになるかもしれないという「不安」に取りつかれながら手洗いを反復している患者がいるとしたら、彼女の考えでは患者はエイズが怖いから手を洗うのではなく、「手洗いが先に起こり、エイズが怖いから手を洗うのだと、後で理由づけ」(243頁)しているにすぎない。つまり患者は、不安を抱くまえに既に手洗いを反復してしまっていると言うわけだ。とするならば、この反復行動自体はなぜ起きたのか? 彼女は大胆にも、それは先天的かつ潜在的に人間の脳にプログラミングされている動物としての原始的行動パターン(毛繕いとか巣作りなどの)が突如出現したものではないかと論じている。コリー犬が、どこで寝るときでも寝床に入る前にぐるぐる回ってからでないと横になれないのと同じだと言うのだ。この仮説が正しいかどうかは別としても、強迫性障書が「精神分析」的な問題(こころの問題)ではなく、こころを越えた「生物学」的な問題であることはどうやら間違いなさそうだ。確かに精神分折よりもアナフラニールという抗うつ剤の方が圧倒的に強い治療効果を持つのは間違いないらしいのだから。つまり、強迫性障害は「不安」に煽られて生じる反復行動であるどころか、人間が機械的な反復行動に支配されてしまうことであるらしい。人間の中に眠っていた機械が目を覚まし意思を越えて勝手に動き始める病なのだ。。
 従ってどうやら、『CURE』の萩原聖人を強迫性障害者と呼ぶのはあながち間違いではなさそうだ。ただし萩原が、自分の反復強迫行動に何の「不安」も感じず、何の理由付けも与えないところはやはり現実の病とは違っている。現実の患者たちは、自分の行なう機械的反復に何らかの合理的な理由付けを行なわずにはいられない。しかし彼は空っぽの状態で強迫性障害に陥っていることに快楽を感じてさえいる。だからこそ彼はその快楽を、さまざまな相手に感染させようと催眠術にかけるのだ。彼が役所広司(精神病の妻を抱えて悩んでいる)を催眠術にかけるときに囁いていた言葉を思い出そう。

「空っぽになれよ。楽になるぜ」

 意思も感情も捨てて空っぽになり、機械的な反復行動に身を委ねてしまうこと。そうなれば確かに私たちは楽になれるだろう。従ってある意味では、萩原聖人は、心理的な葛藤に苦しんでいる人々に治療を施しているのかもしれない。だからこそ、この映画の題名は『CURE』(治癒)なのだ。彼の催眠術を被った者は確かにみんな楽になれる。しかし実際には、この治療は強い恐怖心と抵抗を呼び起こしてしまう。殺人を教唆されてしまうからではない。そうではなく、それは人間が自分の理性や意思を完全に殺してしまって、ある種の物質となってしまうことだからである。つまり生きたままに、死(無機物)の反復運動に身を委ねてしまうことに私たちは恐怖するのだ。例えば強迫性障害者たちが、無意味な手洗いの反復行動に身を委ねることもできずに「これはエイズが怖くてやっているのだ」と意味づけてしまったように、私たちは理性を完全に捨てて空っぽになるという快楽にどうしても浸りきることができない。それは、死の快楽なのだがら。つまり『CURE』の恐怖は、けっして「普通の人々の心のなかに眠る殺意」というテーマにあるのではない。むしろそれは黒沢清が、ホラー映画という枠組みの中でしかこの作品を作りえなかったという限界を示しているにすぎない。萩原聖人の催眠術がたとえ殺人を教唆するものでなかったとしてもやはりここには恐怖が残る。つまりこの映画の本当の怖さは、死の強迫反復運動に身を委ねてしまう快楽を私たちにささやきかけてくるところにある。いや既にこれを見てしまった私たちは、役所広司のように知らずしてその快楽の方へ一歩進んでしまっているのかもしれない。そしてむろんこの死の快楽とは、映写機のカシャカシャカシャという反復運動に身体を同調させるという、映画の快楽そのものでもあるのだ。