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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[17]映画カメラとフロイトのマジックメモ

 映画カメラは、この世界を時間的な流れとしてありのままに記録し、再現することに成功したと言われる。もはやそれは、写真のように時間的持続の一瞬だけを切り取って、「静止状態」として捉えるのではない。事物が時間の流れの中で刻々と「動いている状態」をそのまま捉えることができるのである。この意味では確かに、映画が私たちに与えてくれる視覚的世界は、写真のそれよりもはるかに人間の日常的な視覚世界に大きく近づいていると言える。しかし良く考えてみれば、映画が世界を光学的に捉えるそのやり方は、写真による捉え方とそれほど大きな違いがあるわけではない。なぜなら実際は映画カメラは、写真機のシャッターが断続的に素早く(一秒間に24回)押されるだけの装置にすぎないからだ。つまり映画カメラは、相変わらず「静止状態」の写真の無数の連続としてのみ世界を捉えているのであり、決して世界を時間的持続そのものにおいて捉えているわけではない。映画が切れ目のない持続的光景に見えしまうのは、私たち人間の眼の性能が不完全で、その間歇性を捉えられないからにすぎない。もし飛びきり高性能の眼を持った生物が映画を見たら、それは無数の写真と暗闇とが機械的な正確さでもって交互に写し出される奇妙な世界にしか見えないだろう。映画俳優たちは、暗間の中で間歇的にフラッシュが点滅する度に、少しずつポーズを変えるゲームをしているように見えてしまうだろう。つまり映画の持続的流れは、人間の主観的な錯覚の中にしか存在していない。客観的には、映画は断続的に写し出される「静止的」なイメージの集積にすぎないのだ。
 これがベルグソンによる映画批判の論理である。人間の視覚世界は「持続」的に生成変化していく豊かさを持つのに対して、映画はしょせん機械的な「瞬間の連続」にすぎない。だから映画というテクノロジーは、いまだ人間の視覚的世界の豊かさを再現することに成功していないというわけだ。だが、こうしたベルグソン的な考え方もまたどうも疑わしい。人間の「眼」は、本当に持続的流れの中で生成変化する世界をありのままに捉えているだろうか。たとえば「眼の瞬き」のことを思い出してみよう。人間はほとんど無意識的に無数の「瞬き」を繰り返しながら、世界を眺めている。つまり私たちの眼はいつも、世界の持続的な流れをわざわざ断続化させているのだ。むろん、「瞬き」は映画のように機械的で素早い反復によって行われるわけではない。しかし少なくとも人間の視覚世界が、滑らかな持続によって構成されているとは言い切れなくなってくるだろう。
 実際、それを補強してくれるような、全く奇妙な事実がある。テクノロジーの発達によって、映画よりもはるかに持続的な滑らかさを獲得した映像に対して、人間は日常性を感じるどころか、逆に拒否反応を示してしまうらしいのだ。コンピューター・グラフィックスは、一秒間60コマという目にも止まらぬ間歇的映写による映像をすでに開発している。ところがこうした持続的映像は、余りにも密度の高い情報を次から次へと観客たちに与え続けるので、彼らを異常なまでに疲労させてしまうらしい。10分も見るとたちまち映像に酔ってしまったような状態に陥るため、長時間にわたって見続けることはとても不可能なそうなのだ。ということは逆に、人間の眼は通常、そのような持続的流れにおいて世界を捉えているわけではないということになる。
 こうして私たちは、これまでの推論の流れから、人間はまるで映画カメラのように断続的な反復によって世界を捉えているのではないか、という奇妙な推測を持たぎるを得ないだろう。何とも奇妙な推測ではある。人間の眼が映画カメラ(や映写機)のようにシャッターの開閉を繰り返しながら世界を見ているというのだから。しかしフロイトは実際、人間の知覚システムをそのような断続的メカニズムによって説明しようとしていた。そのとき彼は、「マジック・メモ」という子供の玩具をそのメタファーとして使っている。私たちも良く知っている、あの、書いても書いてもその痕跡を消すことによって何度でも白紙の状態に戻すことのできる、あの不思議なボードのことである。フロイトによれば(中山元訳「マジック・メモについてのノート」『自我論集』ちくま文庫所収、312頁)、

 片手でマジック・メモの表面にメモを書きながら、別の手で定期的にカバー・シートを盤から剥がしている(引用者注=メモを消している)と想像すると、人間の心の知覚装置についてわたしが思い描いているイメージに近くなろう。

 というのである。つまり人間の知覚装置は「マジック・メモ」のように、外界から知覚したものを定期的に消しては、その度に新しい知覚を受け入れると彼は言っているのだ。だから、ここには映画カメラのような知覚の断続性が前提とされていると言えよう。知覚システムは、「定期的に励起されなくなることによって、外部との接触が断たれ」ることをそのメカニズムの一部にしているのだから。何とも常識外れの恐るべき理論である。人間は世界を知覚したり、しなかったりを定期的に反復していると言うのだがら。どうして、知覚がこのような奇妙な間歇性を持たなければならないのか。
 そこに彼の有名な「刺激保護理論」が存在している(「快感原則の彼岸」上掲書所収、とくに141-155頁)。彼によれば、生物(有機体)にとって、外界の刺激はあまりにも過剰であるため「刺激を受容することよりも、刺激から自らを保護することの方が重要な課題」となる。そうしないと生物は、刺激の圧倒的に強力なエネルギーによって、破壊されてしまうからだ。だから眼や耳のような感覚器官の役割は、「特定の刺激作用を受容する」だけではなく、「過剰な量の刺激に対して新たな保護を行い、不適切な種類の刺激を防ぐ」ことにもある。この二重の役割を遂行するためには、感覚器官は「外界に探りを入れてはすぐに引っ込む触手のようなもの」でなければならない。つまり適切な量の刺激を取りに出たら、素早く引っ込んで他の刺激を避けなければならないのだ。この探りを入れたり、引っ込んだりする感覚器官の反復運動こそが、知覚の間歇性になるわけである。つまりフロイトはここで、こう言いたいのだ。多様で無限にある外界の情報を、全てありのままに知覚することは人間には不可能である。それはただのカオスとして人間に押し寄せてくるに過ぎない。だから人間は、自分の生命活動にとって有用な情報(刺激)だけを選び取って知覚し、そうでない情報を捨て去ってしまう必要がある。この作業は間歇的なリズムで行われる。例えば、ぼうっとした放心状態で周囲に何の注意も払わないで寝ころがっているとき、自分に危害を与える危険な生物や物体が近づいてくると、私たちは注意を集中してそれを避けるなり追い払うなりし、危険が去ったところで再び放心状態に戻っていく。この興奮(知覚)と弛緩(知覚の中断)との反復運動によってこそ、人間(生物)の生命活動は成り立っているわけである。だから、映画カメラが外界を間歇的なリズムにおいて捉えることは、機械的というより極めて有機的で生命的なことだと言えるのである。捉えたり、捉えなかったりするリズムにおいてこそ、映画は人間的な視覚世界に接近しているのである。テクノロジーが目指す持続的な映像の流れは、非人間的なカオスの世界にすぎない。
 だから映画を見る快楽における重要な要素として、映写機のあの断続的なカシャカシャカシャという間歇的なリズムがあるのではないか。確かに私たちは、スクリーン上を生成変化していくイメージに眼を奪われていて、このリズムをほとんど意識しない。しかし、この生命活動と同型の間歇的なリズムこそが、私たちの映画受容の快楽を根底で支えているように思えてならないのだ。映画を見ているうちにしばしば眠くなってしまうというのも恐らく、この映写機の有機的な反復のリズムに身体が同調してしまうからであるに違いない。そして言うまでもなく、この快楽は鉄道乗車において私たちが経験しているものと同じなのである。あのガターン・ゴトーンという間歇的なリズムと映写機のカシャカシャカシャというリズムはともに、人間に不思議な快感を与え続けている。