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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[14]「身体失認」と「視覚的失認」

 脳神経外科医オリバー・サックスの『左足をとりもどすまで』(金沢泰子訳、晶文社)は本当に素晴らしい本だ。これは、ノルウェイの山中で転落事故にあって左足の大腿四頭筋腱切断という重症を負った著者自身が、手術に成功して入院生活を送ったのち社会復帰するまでを綴った感動的な物語である。しかしだからと言ってこの書物は、けっしてそこらにある凡席な闘病生活記と同じわけではない。つまり、病気を克服する本人の努力やら周囲の人々による温かい精神的支えといった凡庸なメロドラマによって私たちを感動させるのではないのである(そうした要素が全くないではないが)。むしろ医者や看護婦たちの自分に対する気遺いのなさへのサックスの冷静な観察や批判は意地悪なくらいで、私たちを驚かせる。では私たちは何に感動するのか。サックスがいつも医者として診ていた「身体失認」に、彼自身が陥ってしまうという信じがたい事態への一時的な精神的パニックとそれへの冷静な対処・観察、そしてこの症状に対する詳細な自己診断が実に素晴らしいのである。彼はこうして、医者として外側から観察していただけでは決して分からなかった「身体失認」患者の苦しみを内側から経験することになる。そしてこの症状記述は、読者である私たちにとっても実に示唆に富んでいる。
 では、その「身体失認」とはどのような病理なのか。サックスの左足は手術によって外科的には冶癒したにもかかわらず、なぜか自分の足だとは彼自身に感じられなくなってしまうのである。しかし、こうして客観的に表現してしまえば簡単に済んでしまうこの病理の、患者の側にとっての経験としての物凄さを、サックスは以下のように鮮やかに描写してみせる(150頁)。

 「左足は「そこに」あった。足のかたちをして存在していたのは事実だ。視覚的にはそこにあるが、生きている、ほんとうの自分の足ではない。目のまえにあるのは、足そっくりの偽物、模造品にすぎなかった。それは繊細で透きとおるように美しいが、ぞっとするほど現実感がない。生命がない。解剖標本室から持ってきた、精巧なろう細工のようだった。
 恐るおそる手をのばし、さわってみると、左足は見かけと同じように奇妙な感じだった。外見ばかりでなく、手触りもろう細工のようだった。みごとに象られているが、生気のないぞっとする代物。さわっている指の感触も足には感じられなかった。私はそれを締めつけたり、つねったり、毛を抜いたりしてみた。感触をとりもどすことができるなら、ナイフをつきさすことだってできただろう。だが、まったく感覚がなかった。まるでパン生地だ。解剖学的にみて、左足が完全な状態にあることは明らかだった。(中略)しかし、奇妙なことに、外見も手触りも、異質のもの、自分のものではないようだった」

 自分の足が「パン生地」のように自分とは無関係にそこにあるというのは、全く想像を絶する経験としか言いようがない。逆に考えれば、通常は無視してしまっているのだが、私たちはいかに自分の足を自分の足として身体の内側から感覚的に感じ取っているかということに気付かざるを得ないだろう。サックスによれば、その感覚を「自己受容感覚(proprioception)」と呼ぶのだそうだ。ところがこのほとんど無意識的にしか感じ取っていなかった「自己受容感覚」が自分の身体から奪われ、身体が未知の物体と化してしまうと、それはとてつもなく不気味な経験になってしよう。実際驚かざるを得ないのだが、この「身体失認」患者は、自分の身体が他人のものであるとか、あるいは「模型」や「悪戯の道具」としか思えないらしい。電車の中で隣り合わせた人に向かって、自分の手を指しながら「失礼ですが、私の膝に手をのせないで下さい」と言ってみたり、毛布を取り替えにきた看護婦に「ああそう、そこにある腕ね。お盆といっしょに下げてください」などと言うらしいのだ(90頁)。これらの発言は決して冗談でも大げさな誇張でもなく、彼らにとっては実に率直な実感なのである。
 サックスがいかにしてこの「身体失認」から解放されるかは、それ自体興味深く感動的な話なのだが、それは本書を読んでいただくとして、ここではやはり映像の問題に戻っていくことにしよう。私は、このサックスの「身体失認」が「視覚」にも起きるのではないかとすぐさま想像してみた。自分の見ている「視覚世界」が突如として自分にとって意味のある世界ではなくなり、感触のない「ろう細工」か「パン生地」のような世界に見えてしまうこと。そんなことがあるのではないが。そう想像するなり、私はゴーリキーによる、あの世界最初期の映画批評を思い出さざるを得なかった(Jay Layda“Kino:A story of the Russian and Soviet Film”, Prinston U.P.(1983)p.407より引用)。

「夕ベ私は影の王国にいた。/そこにいることがどれほど奇妙なことか、あなたが知ってさえいてくれたらと思う。それは音もなく色もない世界だ。そこにあるもの全て一一大地も、樹木も、人々も、水も、空気も一一が単調な灰色の世界に飲み込まれてしまっている。灰色の空を横切る太陽の灰色の光線、灰色の顔の中の灰色の目、そして木々の葉は灰色に色づいている。・・・(中略)・・・音もなく灰色の木の葉が風に揺らぎ、人々の灰色のシルエット、それはまるで永遠の沈黙を宣告され、全ての色を奪われるという罰を受けているかのようなのだが、それらは灰色の地面の上を音もなく滑って行く」

 いつもなら季節の息吹や生命の躍動さえ感じさせてくれるはずの、自分にとって親しげな自然や人間生活の光景が、突如として自分にとって全く疎遠で陰鬱な「灰色の」世界に変貌してしまうこと。つまり映画(カメラ)を通してゴーリキーが見たのは、「ろう細工」のように味気ない「視覚世界」だったわけだ。だからこれは、サックスの「身体失認」とよく似ているだろう。むろん「視覚世界」はあくまで自分の外側に客観的に存在しているのだから、そこは少し違う。ただ「視覚世界」に対してもまた私たちは、自分が行動するために、自分の身体の一部であるかのように馴染んでいるということだ。だから、カメラのように「自己受容感覚」なしに視覚的世界を捉えてしまうと、私たちは「身体失認」と良く似た感覚に襲われるのである。
 そして実際に「視覚的失認症」という病理自体も存在するのである。サックスが別の本(『妻を帽子と間違えた男』(高見幸郎・金沢泰子訳、晶文社))で教えてくれるように、「視覚的失認」患者は、目の前に様々な物を知覚していながら、それを生命のない抽象的世界としか捉えることができない。たとえば一輪のバラを受け取った患者は、「約三センチありますね。ぐるぐると丸く巻いている赤いもので、緑の線伏のものがついている」ということが分かっても、それが「バラ」であることも、親愛の印としてもらったものであることもどうしても理解できないのである(38頁)。従って近親者の写真を見せられても、「なにか抽象的な判じ物のテストをやらされるときのような態度」でしかそれを眺めることができない。つまり、彼の「視覚世界」には抽象的なかたちしかない。何と殺風景な世界だろう。そしてこの「殺風景」さが、ゴーリキーの映画的世界と良く似ているだろう。見ている者との関連を失ってしまった生命なき世界として。
 こうして私たちはカメラが与えてくれる「視覚世界」を、失認症患者が見ている生命なき「パン生地」的世界のようなものとして考えることができる。・・・しかし、私はそうやって思考を進めてきながら、どうしても疑問を払拭することができない。本当にそうなのだろうか。本当に映画は、私たちにとって生命なき世界なのだろうかと。むしろ私たち観客は、映画の世界をまるで本当に生命ある世界のように親しんでいるのではないだろうか。ゴーリキーのように、カメラの世界を不気味に感じてしまう観客など今やいないのではないか。むろん私たちが映画の世界自体に馴れてしまったということもあるだろう。だが、どうもそれだけではなさそうだ。私たちはこの事実を説明しなければならない・・・(つづく)。