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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[13]意味記憶、エピソード記憶、そして映像

 7月15日の深夜、就寝前に何気なくテレビをつけると、そこに放映途中のドキュメンタリー番組らしき映像の何とも奇妙な光景が映し出されていて、思わず画面に吸いよせられてしまった。そこには30代半ばくらいに見える一人の眼鏡をかけた知的な感じの男性が、自分の家の食卓らしきところに腰をおろし、やや伏目がちに何かを思い出そうとしている。そして向かい側に座っている妻らしき女性に尋ねる。「もう一年三カ月も(僕は)こうしてずうっと家にいるの?」女性が答える。「そうよ。退院してからもう一年三カ月にもなるわ」すると男性は、笑みは絶やさないものの本当に驚いたような表情をして困惑している様子である。「正直言って、驚いている」そこにナレーションで説明が入る。彼らは毎日毎日、いや一日何度となくこうした会話を繰り返しているのだと。これだけではみなさんも何のことだか分からないだろう。私も一瞬呆気にとられて呆然としてしまった。だが、番組が進行するにつれてナレーションによる解説や医者の説明などが入り、私も段々と事情が飲み込めてくる。つまりこの男性は、一年三カ月前に胃の悪性リンパ腫の手術をしたときに、術後の栄養管理のミス(ビタミンの不投与)からウェルニッケ脳症にかかってしまったのだ。この病気は記憶に関する障害なのだが、いわゆる「記憶喪失」のように過去の記憶を失ってしまうのではない。「前向性健忘」と呼ばれて、病気になる以前の過去の記憶は保持されたまま、日々刻々と新たに起きる出来事をほんの数時間もしないうちにどんどんと忘れていくという恐ろしい病気なのだ。もちろん彼は自分が誰であるかは分かっているし、どんな人生を送ってきたかも入院の時点までは記憶している。しかし日常生活を成り立たせることは全く不可能だ。何しろ朝何時にどのように起きたか、朝食に何を食べたか、その後何をして過ごしたか、妻とどんな会話を交わしたかといったことをその直後に全て忘れてしまうのだから。つまり彼はいま何をしてどのように生きているかという実感がまるで持てないまま生きている。しかも、そういう「前向性健忘」という病気にかかっていること自体も刻々と忘れてしまうために、上記のようなほとんどギャグのような会話が日々、夫婦の間で交わされることになる。奥さんは、毎朝起きる度にそして毎日何度となく、記憶を矢って混乱している彼に向かって、彼自身がどのような病気であるかを説明しなければならない。彼はその度に自分が、そのような病気であること、そして、そのことを何度も尋ねていることを「初めて」知って驚くのだ。いやはや凄まじい生活としか言いようもない。
 このテレビ番組は、NHKがこの家族の生活を2年半に渡って記録したドキュメンタリーの再放送であるらしい。それが段々分かって来たところで、私は何だか怖くなって見るのを止めてしまった。しかしどうしても、彼が思い出そうとするときのあの独特の表情、少しだけずり落ちた銀縁メガネと伏目がちの眼がどうしても気になってなかなか寝つけなかった。やっぱり見れば良かったと後悔しつつ。しかし幸運なことに(臨時ニュースによって途中中断があったために)、一週間もしないうちに再び再放送があってそこで私は全編を見直すことができた。そして、この番組が最初は昨年(1996年)の12月27日に放映されたものであり、第23回放送文化基金賞を受賞していることも知ったのだった。
 それにしてもやはり、感動的なドキュメンタリー番組だった。この感動はいったいどこから来るのだろう。先月に続いて再び映像における「見ること」と「知ること」のズレの問題という視点から考えてみることにしよう。私は先月、報道写真(や映像)は何も報道しない写真であると論じたのだった。酒鬼薔薇聖斗の顔写真によって私たちは何も「知ること」はできない。何かを教えてくれるのは、言葉だけであると。しかしやはり常識的に考えれば、この番組の映像は私に多くの情報を教えてくれたのではないか。つまり私は、このドキュメンタリー番組の映像を「見ること」を通して、沢山の重要なことを「知ること」ができたのではないか。そしてそれは間違いなく、私の感動の重要な部分を占めているのではないか。たとえばウェルニッケ脳症という病気があること、それは記憶が蓄積されないという重篤な病気であること、ただし不安を感じた場面だけは翌日まで記憶に残っていること、「ひろしさん」という宮城に住む男性がその病に医療ミスによってかかっていること、「ひろしさん」は福祉施設の職員として働いていた知的で感じのよい男牲であること、奥さんの「美和さん」がまたとても感じのよい女性であり彼を精神的に支えていること(何かこの二人は絶対に夫婦になる運命だったのだろうというような得も言われぬ雰囲気を共有している、とくに同じような銀縁メガネが凄い)、二人が病院を相手どって裁判を起こしていること、それを大学時代の同級生が支援していること、ビタミンの不投与という医療ミスの背景には厚生省による医療保健支給額の削減という政策転換があったこと、二〇人ほどの妊婦が入院中に同じ医療ミスによって同じ病気にかかっていること(つまり社会間題であること)等々。私は確かにこれらのことを番組を通じて「知った」。そして感動した。さらに、誰かにその感動を伝えたくなった。だからそのとき私は、上にあげたような数々の「情報」を伝えることになるであろう。そして事実私は今、この文章を書いて伝えようとしている。だがやはり、私が感動したもっと大きな理由は、こうした「情報」と「知識」にあったわけではないと言わねばなるまい。これらの「情報」や「知識」なら、新聞やルポルタージュにおいても知り得ることができただろう。しかし私がこの番組から得た感動は間違いなく、映像(見ること)によってでなければ得られない種類のものだった。たとえば先にも述べた「ひろしさん」が思い出そうとするときの伏目がちの独特の表情、それが私を感動させたのであって、けっして「前向性健忘」について「知ったこと」が私を感動させたのではない。あるいは、奥さんの「ひろしさん」に記憶の有無を確かめるときに彼を見つめる真っ直ぐな視線が私を撃ったのであって、病気の夫を支える健気な奥さんという「情報」が感動的なのではない。またあるいは、福祉施設でボランティア活動を始めた「ひろしさん」が他の職員たちと一緒に障害児の手足をさすりながら歌う「キュッキュッキュッー」の歌の可笑しさやそれを歌う「ひろしさん」のうれしそうな表情とが、既に会っているはずの撮影スタッフの面々が思い出せないために、もう一度自己紹介をしてもらうとき、椅子に腰掛けたままいちいち深くお辞儀をするその「ひろしさん」の馬鹿丁寧な身振りなど、こうした映像上に捉えられた「光景」の独特の雰囲気や表情などが私を強く打ち、私の記憶に深く刻みこまれたのだ。
 つまり私の感動は、あくまで「見ること」から生じたものだ。むろんそこで「知識」は重要な役割を果たしている。私は、彼がウェルニッケ脳症であることを「知った」うえで彼の表情や身振りを「見る」からこそ感動するのであって、彼が普通の人として同じ表情を見せても恐らく私は感動しないだろう。だから確かに言葉による「情報」は大事だ。しかしこの番組が私を感動させたのは、情報には還元できない「映像」の力である。「ひろしさん」独特のふるまい、表情、話し方、歩き方等を「見ること」が私の心を動かしたのだ。上のような情報を羅列しただけの文章を読んだとしても私はけっして感動しなかっただろう。逆に言えば、映像がそうした表情を捉えていないときには私は感動できない。殺人事件の犯人たちの証明写真のような顔写真は、映像として何も訴えかけてこない。それは犯人はこの顔であるという「情報」を伝えるだけだからだ。
 ・・・このドキュメンタリー番組が教えてくれたことの一つに、「意味記憶」と「エピソード記憶」の違いがある。意味記憶とは、人や物の名前や形に関する記憶である。「ひろしさん」はこちらの記憶は持っている。取材スタッフの顔と名前も記憶し、O-157という新しい時事単語もちゃんと記憶している。しかし彼は、その取材スタッフとこれまでどのような経験を共有しているかがまるで記憶できていない。O-157をどんな新間記事から知ったのか、それについて誰とどんな会話を交わしたのかについての記憶は全くない。これがエピソード記憶である。エピソード記憶なしに、知識と情報だけが蓄積されることがどれほど人生を味気ないものにしてしまうか、それをこの番組は教えてくれる。
 だがたとえば酒鬼薔薇聖斗の顔写真を手に入れようと殺到した人々は、まさに「意味記憶」のなかにこの事件を押し込めて、エピソード記憶としては忘却しようとしているのではないだろうか。つまりこの事件の微妙な表情を感受するのではなく、事件を情報として処理してしまおうとしているのだ。むろん、その方がずっと楽だから。だが私たちは、エピソード記憶によってこそこの事件を記憶しなければなるまい。むろんこのエピソード記憶は、映像によってだけでなく言葉によっても与えられるはずだ。酒鬼薔薇聖斗の(恐らくは)証明写真のような顔写真を見るよりもはるかに、少年の言葉や周囲の人々の言葉やルポライターの分析の言葉の方が私たちにこの事件の表情を教えてくれているはずである。こうして私は先月の結論をいささか修正しなければなるまい。先月私は、大事なことは「見ること」ではなく「知ること」だと言った。しかしむしろこういうべきだっただろう。大事なことは、映像によってであれ言葉によってであれ、この事件の原因を突き止めて「意味記憶」のなかに押し込めてしまうことではなく、この事件の徴細な表情に戸惑い続けること、つまり「エピソード記憶」としてこの事件を記憶し続けることであるのだと。そして「ひろしさん」が逆説的に教えてくれるのは、この「エピソード記憶」がどれほど私たちの生活の彩りを豊かにしているかということだった。