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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[6]ベンヤミンと視覚的無意識

 ベンヤミンによる映像の議論(「複製芸術時代の芸術作品」を中心とする)は、なぜかいつも「アウラの喪失」をキーワードにして紹介されることになっている。ベンヤミンの芸術論の、現代に通ずるような先見性と意義は、「アウラの裏失」を論じたところにあるのだと。例えば、そうしたベンヤミン諭は、(私流に言えば)以下のように展開することができるだろう。一一伝統的に芸術作品は、それを享受する人々に対してある種のアウラ(つまり神秘的な光=オーラ)を発していた。つまり芸術作品を見ることは、もともとはその神秘性を発揮する絵画や彫刻を唯一無二の存在として「礼拝」的に崇め奉ることだった。しかし複製技術としての写真と映画は、その「唯一無二性」を芸術作品から奪い取ってしまう。たとえば、写真によって、いつでもどこでも見ることができるようになったダヴィンチの「モナリザ」は、ルーヴルに行かないかぎり見ることのできなかった貴重な有難みなどない、平凡で大衆的なイメージにすぎないだろう。いまやルーヴルに行って「モナリザ」を見た人間さえ、「写真そっくり」と確認して安心するだけである。複製芸術時代の芸術作品は、こうして宗教的特権性=アウラを喪失するのである。一一こんな具合だ。
 確かにベンヤミンは、このように言っている。だが、それは彼の議論のそれほど面白くない部分だと私は思う。私たちは、ベンヤミンの映像論の別の、もっと興味深い側面を取り出すことにしよう。その場合のキーワードは、「アウラ」ではなく「無意識」でなければならない。例えばベンヤミンは、「カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然と異な」り、「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れる」(以上、「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミンコレクションI』ちくま文庫所収、619頁)と論じている。私たちが注意したいのは、この「カメラ」に写し出される視覚的空間としての「無意識」である。
 では、その「無意識」とは何なのか。それを考えるために、まずは「肉眼」で捉えられた意識的空間の方から考えることにしよう。私たちが「肉眼」で世界を見るときには、必ず自分にとって必要な情報だけを選択して見ているはずである。食卓についてご飯を一口食べようとする瞬間、私たちは箸でつまむべき「ご飯粒の固まり」と「箸の先っぽ」だけを意識して見ている。もちろん、本当はそこには、テーブルの「染み」も茶碗の欠けた所も醤油ビンも全く等価なものとして存在しているはずだ。にも関わらず、私たちはそれらを「ご飯を食べる」という行動にとって不必要なものとして認識から排除してしまうのである。もし、「染み」と「ご飯粒」を等価に見つめていたとしたら、私たちは箸で御飯をつまむこともできずに茫然とするしかないのだから。これがベンヤミンの言う、「肉眼」に語りかける「意識を織り込まれた空間」である。
 これに対してカメラは、どうだろうか。カメラは、眼の前にあるものを取捨選択することなく全て平等に捉えてしまうだろう。そもそもカメラはご飯など食べなくてもよいのだから、「彼」にとってご飯粒とテーブルの染みは等価な存在でしかない。従ってもし、私たちがご飯を食べるときの視界を同時にカメラによって撮影してみると、そこには私たちが気付くことのなかった様々なもの(つまり「染み」やら醤油ビン等)がびっしりと写し込まれているはずである。これこそをベンヤミンは「無意識が織り込まれた空間」と呼んでいるのだ。つまりカメラは、私たちが見てはいても見たことに気づいていないもの(=無意識的に見たもの)の存在を教えてくれるのである。
 ところで、このような「視覚的無意識」としての写真は、私たちにどのような意味を持つのだろうか。それを私は、ベンヤミンのボードレール論(「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」同上書所収)を利用して考えたいと思う。ここでベンヤミンはフロイトとプルーストとベルグソンを援用しつつ「無意志的記憶」について論じているのだが、写真とはまさに、この「無意志的記憶」だと思われるからだ。ベンヤミン=プルーストによれば、「無意志的記憶」とは「はっきりと意識をもって<体験された>のではないもの、主体に<体験>として起こったものではないものである」(427頁) 従ってもちろん、それは意識的な記憶としては私たちの頭に全く残っていない。にもかかわらずそれは、最も強力に記憶の無意識の中に残存して、私たちの心に思わぬ効果を及ぼすのだ。私たちの馴染みの言葉を使えば、「トラウマ」である。例えば、大震災のなかで両親が死ぬ所を見てしまった子供がいるとしよう。しかしあまりの恐怖に、彼はそれを「見て」いながら、見たことを抑圧してしまう(刺激防御)。だから彼はそれを意識的記憶としては持っていない(自分はそんな場面を見たとは思っていない)。しかし「無意志的記憶」として意識の奥底に強力に残存していたその記憶の光景は、日常生活の中のふとした隙間において、意識の表層に噴出して彼の心をパニックに陥れるのである。
 写真もまた、私たちが確かに「体験」したにもかかわらず、「認識」できなかったものを捉えているのだった。そしてそれを、私たちの「意識」の外部にある種の「記憶」として残している。例えば自分の過去を提えたアルバムは、ある意味では外部化された「無意志的記憶」の収蔵庫とも言えるだろう。だから事実私たちはときどき、自分で忘れていたはずの「過去」の自分の姿をそこに見いだして、飛び上がるような恥ずかしさを感じたりするのである。こうして、写真は私たちの「心」にショックを与える「トラウマ」だと言うことが可能となる。
 だが、にもかかわらず、実際には多くの場合私たちは、微笑みながら自分の過去の写真を愛しげに見ているだろう。まるでそこには、私たちが日常的に慣れ親しんだ「意識を織り込まれた空間」が写しだされているかのように。つまり私たちは、写真自体が持っている「無意識性」の不気味さを見ない習慣を持ってしまっている。写真など、私たちが意識的に撮影しようとした現実世界を物質的に残したものにすぎないと信じて、嘗めてかかっているのだ。だが、こうした抑圧作業はいつか裏切られ、写真という写真が「トラウマ」として私たちに襲いかかる日がやって来ないともかぎらない。たとえば心霊写真は、そうした症例の一つかもしれない。それは、私たちが記念撮影として捉えた人物像の背後に「気付かぬうち」に写ってしまった訳の分からないものに注意を向けたときに成立するものだろう。だから、ここには何か、カメラの「無意識性」に対する鋭い感受性が隠されているように思われるのだ。こうして全ての写真を心霊写真として眺めるようになったとき、私たちは「無意識を織り込まれた空間」としての写真に正面から向き合っていることになる。むろんそのとき私たちは、少しばかり狂気の世界に足を踏み入れているだろう。