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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[3]「視覚性」と「触覚性」

 ロランバルトの「明るい部屋」(花輪光訳、みすず書房)という写真論の信じがたい特異性を、彼自身の初期の写真論と比較しながら明らかにしようというのが、今回の目論見だったのだが、なぜバルトがパンザーニ(パスタ)の広告写真を分析した論文を収めた本が(むかし朝日出版から出ていた蓮實重彦訳のものとその後みすず出版から出たものと二種類とも買ったはずなのに両方とも!)手元にない。誰かに貸したまま元に戻って来ていないらしい。こういうのは本当にイライラするが仕方がない。うろ覚えで論じさせていただく。間違いがあったらご容故を。
 初期のバルトは、写真は「人為的メッセージ」を見る者に無意識的に伝達するものだとして分折していたはずである。パンザーニという有名なパスタの広告写真−−網の買物カゴが半分開きかかっており、そこからパスタがトマト等の野菜と共にテーブル(?)の上にこぼれかかっている−−を示しながら、バルトはその写真に隠されたメタ・メッセージを記号論を駆使しながら解読してみせる。例えばパスタが新鮮な生野菜と共に科理されるであろうことを想像させることで、パスタ自体が「新鮮」であるかのような錯覚を見る者に抱かせることができること。あるいは写真の色の構成(緑、赤、白)が「イタリア」に関するフランス人の神話的・通俗的イメージを喚起させることなどである。こうしたパスタをおいしそうに見せるイメージは、カメラマンによって計算され演出されたものであるのは明らかだろう。にもかかわらず、写真のもっている「自然らしさ」がその「人為性」を覆い隠してしまうことを、つまり、あたかも偶然カメラの前にパスタ入りの買物カゴが置いてあったかのように見えてしまうことをバルトは「写真の本性」に宿る問題として批判しようとしていたのだ。写真は必ずカメラマンによって人為的に構成された世界である。にもかかわらず、写真はそれを「自然らしさ」の雰囲気によって覆い隠してしまう。だから写真は本質的にイデオロギー的なものであるのだと。
 だが「明るい部屋」という書物においては、写真に対する彼の姿勢は根本的に変容している。写真は現実そのものでなく、現実を習慣的に切り取った相対的なものにすぎないと批判する社会学者や記号学者は間違っていると批判しているからだ(108頁)。写真は彼らが言うような(あるいはバルトが広告写真で分折してみせたような)「自然らしさ」を装った「人為的」世界なのではなく、写真は現実(自然)そのものなのだ。(もっともバルトは、ここで自分は記号学的な写真分析などしたことないかのように主張している。これはちょっとずるい)では、写真が自然そのものだというのはどういうことか、例えば、バルトは次のように言う(99頁)。

 写真とは文字通り指向対象から発出したものである。そこに実在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。

 つまりあるとき、カメラの前に、パスタや買物カゴや新鮮なトマトが置かれた。そして、それらの物質から発した光がカメラに飛び込みそこに定着された。先の広告写真において生じたことは一義的にはこのことだけである。そのとき確かにトマトやパスタがカメラの前にあったという「事実」、これは絶対に覆すことのできない確実な事実である。従ってバルトは、写真の本性は「それはかってあった」というテーゼに要約できると言う。写真は絵画や言説のように、人為的に作られた世界なのではなく、過去の現実そのものなのである。前回も説明したとおり、狂気としか思えないようなこの事実に、そして同時にまるっきり当たり前でもあるこの事実にバルトは気付いてしまったのだ。
 だがもちろん他方で、私たちはパンザーニの広告写真を見て、「イタリア」を感じたり「新鮮さ」を感じてしまったりする。ぞれも事実だ。つまり写真は「物事の存在に関しては決して嘘をつかないのだ」が、「物事の意味に関しては嘘をつくこともある」のである(106-7頁)。たとえば先の写真であれば私たちは、ただ「トマトがそこにかってあった」と感じとるだけでなく、「そのトマトは新鮮そうだな」といった「意味」をも解読しようとするだろう。人間による写真の「受容」には、この二重性が存在するだ。この二重性を私たちは「視覚性」と「触覚性」と呼べるのではないかと思う。私たちは「トマトがそこにあった」ことを写真から「触覚的」に感じとると同時に、そのトマトの色彩、形態、社会的意味などに関して「視覚的に認識するわけだから。
 ということはまたもや意外なことかもしれないが、写真とは本性的に「視覚的」なメディアなのではなく、「触覚的」なメディアだと言うことになってしまう。バルト自身次のように言っている(100頁)。

 私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線に触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる。

 写真によって、私たちは光を媒体にしつつ何かに触れるのである。「触れる」のであって、「見る」のではない。少なくとも「見る」前に「触れて」しまっているのだ。従って写真に近い表象として「絵画」という視覚的(少なくとも19世紀以前は)メディアを想定するのは間違いだろう。写真に近いもの、それはたとえば「聖なる痕跡」のようなものだといえよう。聖者が腰掛けたがゆえに触れることがタブーとなった神聖な椅子のように。
 だから私達は、御真影(たかが写真!)を極度に神聖視し、それに敬礼し、その前で儀式を行い、それを焼失させてしまうと自殺までした戦前の狂信的天皇主義者たちを簡単に嘲笑することはできない。それは単に天皇の神聖さの問題であるだけでなく、写真の持っている「触覚性」の問題でもあったのである。御真影を見るとき、天皇から発した光がいま私たちに触れているのだと感じてしまう彼らの神話的感覚は、けっしてたんなる「迷信」とは言い切れない。彼らは写真の「触覚的」本性に直感的に気付いていたのだ。もっとも、御真影がキョッソーネというイタリア画家が軍人風に描いた天皇の肖像「画」の写真による複製にすぎなかったという歴史的事実を踏まえれば、残念ながら彼らは錯覚させられていたにすぎないのだが・・・。