フォトエッセイ

聖 地 巡 礼

山形晴美


第6回(最終回) ノスタルジー

 このフォトエッセイも今回で最後になる。この旅の終わりに、私はここに登場してきた彼等とかつて共に過ごした場所を訪ねてみた。来年の2月にはとり壊されることになるらしいそこは、すでに廃家となってはいたが建物はそのまま残っていて私をタイムスリップさせた。ドアや窓ガラスは壌れて寂れた奮囲気がし、外からの冷たい風で揺れているカーテンだけが妙に生々しく寂りょう感を誘った。人の生活がない建物というものは死をイメージさせる。どんな建物であってもそこに命を吹き込むのはやはり人間なのだ。ほこりを被った廊下を歩き、左右にある部屋をひと部屋ひと部屋覗くと、まだ追憶するには早過ぎる思い出に出会った。無造作に放置された遊具や本や薬品のボトル、ベッドや車椅子をぶつけて作った壁やドアのキズ、行事に使った立て看板や部屋の装飾の数々。たくさんのドラマと出会い、それらと向かい合った日々が思い出された。それらの中に、喜びや悲しみの感情の全てが凝縮されて残っているように思った。南側のテラスに朝の光が射し込んでくると、「おはよう、おはよう」という声と共に室内がにわかに活気づいてくるような気がして、フラッシユバックした映像が私の脳裏を横切っていった。通り過ぎた日々を思い出しながら、人々が長い年月をかけて育んできたものは、たとえそれがわずかなことであっても深い愛着に満ちたものであることを実感した。限りない慈しみを寄せた人々の心情や、それに答えるように喜びを与えてくれた彼等の笑顔を、時の流れの中でたやすく失うことなく保ち続けて行きたいと思った。見えない何かが写っているかもしれないと密かに思っていた写真を帰ってから現像してみると誰も写ってはいなかった。来年の2月にはこの建物も壊されてしまい、この建物の消失と共に私たちの歴史の記憶もだんだん薄れていくに違いない。そして私の撮った写真の中にだけノスタルジーとして残るのだろう。

 インターネットというメディアの中で背中を押されてスタートさせてもらったこのフォトエッセイもとりあえす今回で終わる。フォトエッセイと言うにはいささかお粗末な写真と文章で恥ずかしくもあったが、たくさんの人からのアクセスがあり、表現することの意味と責任を少しばかり学ばせてもらったように思う。これからも私の巡礼の旅は続く訳で、いつかきっとこの聖地巡礼で本当にやりたかったものを表現してみたいと考えている。