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流浪するエンジニア
青木 康雄 (yaoki@yk.rim.or.jp)
http://www.yk.rim.or.jp/~yaoki/


完全なるヨタ話・・・その1


その1である。 その2以降は、思い付いた時に適当に書くことにする。『つまんね〜ぞ』という苦情はお早めに・・・・



私が写真とかかわるようになったのは、確か小学校3年のころだったと思う。親父が持っていた、コニカの AUTO S2 か、1.8 かどちらか失望したけど、あのコニカの名作普及型レンジファインダー機を、きわめてたまに借りることができて、家の周りを写して遊んでいた。遠方に持ち出すなんてことはもってのほかであった。


当時はなにを撮影したかと言えば、たわいのないものばかりで、家の周囲や飼っていた犬達、街の様子などで、改めてなにかを撮影するという気構えはなかったと思う。 友人知人を撮影する際にも、改まった『ハイ・チーズ』的写真を毛嫌いし、普段着の姿の映像を撮影することが好きだった。

どうも、その当時から、お散歩お気楽写真を愛していたようである。

今でこそ、私は銀塩カメラを何台も所有し、しかも世間一般でも写真なんて全然普通に扱われているが、私が幼少だったあの当時、少なくとも我が家にとっては、カメラや写真というものは「高価なもの」であり、用もなくパシパシ撮影することなど絶対にありえなかったことだ。現に、私がもらい受けたコニカの普及型レンジファインダー機だって、いつもは洋服ダンスの奥深くにしまわれており、特別な行事がある時のみ、出動するといった具合であった。



自分用のカメラを持ったのは、小学校4年のころだったか。自分用の『カメラ』と言っても、いわゆるおもちゃの類のものである。


ローカルな話で恐縮だが、(神奈川県)川崎駅前のさいか屋4階おもちゃ売り場で、両親にねだって買ってもらった、980円のおもちゃの豆カメラが初めての自分のカメラだった。16mm ぐらいのサイズのフィルムを装填し、背面の赤窓にコマ数が表示されるものだった。巻き上げは、ダイヤルを「ギジギジギジ・・・」と巻く。多重露光も思いのまま(実際には全く不本意に間違って写してしまうのだが)。専用フィルムだったのだろうか。街の現像所では、現像を扱って貰えなかったので買った時に付属していたフィルム4本ぐらいを撮影したきり、使わなくなってしまったと記憶している。

やがて中学に入って、私はいろいろな部を渡り歩いたが最終的に、写真部に入った。写真を撮影することは面白かったし、自分で現像や引き延ばしをやってみたくもあったからだ。一旦興味を持つと止まらなくなる私は、小遣いを大量投入(と、言っても、当時の中学生の私の小遣いは知れていて、月に確か3000円かそんなもんだった)し、フィルムを現像するためのステンレスタンクだけは購入した。自宅でフィルム現像は出来るようになったのだが、引き延ばし機は、資金の問題もあったし、なんせ場所の問題も大きかった。そこで、学校にあった暗室を使いたいというのが入部の動機の本音であった。
その頃の私は、コニカのレンジファインダーをバリバリ使い、また、親父がその後に購入した Canon AE-1(ちなみに今でも私が所有している)をたまに使うことも出来るようになっていた。フィルムはネオパンSSS。昼間であっても高速シャッターで絞って使い、これをパンドールで増感現像するというヘンな使い方をしていた。

中学校では、学校行事の際などは写真部だったので「オフィシャルスタッフ」として写真を撮影することが出来た。体育祭や文化祭などであるが、これは私が、「撮る側」を初めて経験したことである。友人知人達で、遠足などでわいわい撮影する時は、私はカメラを構えていてもみんなと同じ立場である。ところが、学校行事で「写真部」という腕章をして、シャッターを切る私と、撮られる側との間には、なにか明確な線を感じた。

私が真剣に肖像権について考えたのは、中学校の文化祭の時だった。

私は、文化祭の前に行なわれた体育祭で撮影したある「一枚」を、何回も何回も4ツ切で焼いては捨てて、自分なりの会心の一枚を作った。それを展示しようと、文化祭前日に用意していた時。そこに写っていた女生徒が偶然にも私の写真を目にした。

どんな写真だったかはっきりと覚えている。競技種目は、100m 走か、400m リレーか忘れたが、ゴールする瞬間、1位2位を争う走者がまさに半身差でテープを切ったその瞬間を写したものだった。Canon AE-1 / Tamron 135mm F2.8 を F22 で使用 / 1/15 で流し撮り。 背景は完全に流れているも、ゴール直前で最後の力をふりしぼり歪む表情がリアルに描写されていた。

その女生徒とは、直接話すことはなかったが、私と目が合うと、なにか、いやなものを見たような素振りを見せてすぐさまどこかに去っていった。私には、それが、写真に対する拒絶の意思表示であると感じた。

彼女がどこの誰だか全く知らない私であったが、その後、私なりに悩んだ揚げ句、その写真は奥にしまうことにして、替わりに銀閣寺の写真を4ツに焼き直した。

このことがきっかけで、私は人間を撮影することに非常に敏感になった。と、ともに、無難な風景や、お散歩写真、こちらを撮影する機会が断然多くなってしまった。

風景写真やお散歩写真も、それはそれで貴重な記録でもあり、また奥が深い分野でもある。が、私はほんとうは、人間を撮りたいのかもしれない。モデル撮影会でのモデルでなく、人間を撮影したい。もちろん風景写真やお散歩写真も好きだけれど・・・・・

その1−終わり。


モノの持つ質感という不思議な感覚


先日ヨドバシカメラでウワサの Sony サイバーショットをいじってみた。先日・・・なんて、しらじらしく書いているが、実は2日おきぐらいに行ってはいじっている。

皆さんもウワサはご存じの通り、当初の期待を思いきり裏切ってくれたあの画質はもとより、今一つ(いや、今三つだ)の操作性、ソフト含めて出来の悪いパソコンとの I/F など、各方面でボロクソに評価されている。私も実際いじってみては、『なんでもっと詰めなかったのかなぁ・・・』と、思いつつも、サイバーショットが放つ不思議な魅力、質感に、思わず気絶しかかること度々。悪女に惚れるとは、このことか。

なんだかそのうち、買ってしまいそうな気がする。いや、ほんとうは、おまえは、欲しいハズなんだ。買いたくて買いたくて仕方がない、どうしようもない状態なんだよ。なぜだろう。画質も当初の期待ほど全然よくなく、カメラの操作性も今一つ。電池の消費も莫大でパソコンソフトも・・・と、普通なら目もくれなくなるに充分な状況が揃っていながら、なぜ、買わないでいるためにこんなに苦悩しなければならないのか。代りに・・・ってわけではないけれど、昨日(12/4)に ISDN(INS 64) の申し込みをして、今日は DSU と TA を買ったが、全然心は落ち着かない。ちなみに INS64 ネタ。私は神奈川県横浜市港北区在住だが、12/4 に申し込んで、同番移行で工事は年内か、'97 年早々とのこと。地域差が大きいとは思うが、神奈川県横浜市港北区近辺は、随分交換機のデジタル化が進んでいる模様。参考までに。
そして話をサイバーに戻そう。

『買っちまえよ。楽になろうぜ。』


と、もう一人のおいらがつぶやくも、しかし私も只のサラリーマンで、自称他称ともにヒラ従業員である。そんなに買ってばかりいられるほどの収入は全然ないし、子供は未だだけれど妻は居る。他に投資すベキこと・ものがあるんじゃないか・・・・

『今日のところは、勘弁してやろう。』


などと、何を勘弁するのか意味不明なことを心の中でつぶやき、今日もサイバーをいじってヨドバシ横浜駅前店を後にする私であった。

1996年12月5日、21時40分。
たまには締め切り守れよな>俺。