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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ハーフカメラからからEEカメラの時代へ
 オリンパスペンのことを書いていました。続けてオリンパスXAカメラのことを書こうと思って書き始めたら、どうも時代的に飛びすぎるのと、35ミリEEカメラのことにふれないと、何故ペンの次がXAなのかおわかりいただけないのではと考えて、今月はEEカメラのことを書きます。

 カメラの大きさ、重さというものは、簡単にこうだと言い切れないところがある。小さくて軽ければ、たしかに持ち運びに便利だ。小さければ洋服のポケットにだって入れて持ち歩くことが出来る。

 一眼レフカメラになってカメラは大きく不細工になった。ライカタイプのレンジファインダー・カメラにくらべれば、最初のニコンFだってペンタプリズムの出っ張りが目立って邪魔だったし、レンズだってレトロフォーカス型で大きくなった。

 考えてみると一眼レフカメラが普及し始めて40年以上たつがこの間カメラはひたすら大型化につっぱっしってきた。ニコンはF4になってさすがにこの重さには我慢しきれなくなったものだから、やっと軽量化と小型化がいわれるようになってきた。すこしブレーキがかかったということか。

 人間がカメラを手に持って撮影するのには、大きさでも重さでも限界がある。だからと言って同じサイズのフィルムを使用するのであれば小さい方が絶対いいに決まっていると言いたいのだが、簡単にはそうも言いきれないところがあるのも事実なのだ。

 人間が使う道具は人の体の大きさ、手の大きさで最適のスケールが決まるのだと思う。カメラの場合も小さければ良いとは言えない。手の中で遊ぶほど小さいと撮影した写真がブレてしまう。安定しないのだ。

 もちろん形の問題もある。手の中にぴたっと吸い付くように収まって何とも言えないなじむ感触のカメラがある。私の体験で言えばライカのD型、F型もいい。キヤノンの4sbもほんとに手頃な大きさだ。ライカではM−4、M−6の大きさが手になじむ限界だと思っている。

 重量も軽ければいいと言えない。ライカの小さいのにずっしりとした感じはほんとうに安定する。つまりカメラは大きさも重さも人それぞれに最適な大きさがあり、重さがあるのだと思う。

 コンパクトカメラは一眼レフカメラが大型になっていくのと逆に小型化、軽量化が進んできたように思う。軽便性と言う点では“レンズ付きフィルム”とか“使い捨てカメラ”とよばれる種類のカメラが一番進んでいるのかも知れない。

 しかし使い捨てカメラには夢がない。実用的には、たしかにあれで間に合うのかも知れないが。機械の美しさとか、人間の道具に対する愛着や願望とかをは感じさせることはできない。カメラには使う楽しみもあるが自分画所有していることで、愛着心のようなものが出来てきてくる。

 愛着心は愛情と言うよりは愛玩する心につながるようだ。これがこうずると、写真愛好家ではなくカメラ愛好家になってしまって、カメラはたくさん持っているが写真を撮らないになってしまう。この辺のバランスのとりかたが難しい。

 先月も書いたのだがオリンパスペンに対する私の気持ちにはどうも、ちいさいことから生ずる愛玩物に対するような気持ちが勝っていたとおもう。だから何台も買ってもてあそんだが仕事には使わなかった。

 オリンパスペンは昭和34年1959年に発売されて以来10年以上、人気を持ち続けた。この時代、ペンも流行していたが、これに平行して35ミリEEカメラが発売された。これははじめあまり人気が得られなかったが、次第に普及していく。

 日本の写真愛好家、アマチュアカメラマンは高級志向で、どうもプロの写真家が使う一級品でなければ納得せず、高級カメラでなければ承知しないところがある。だからEEカメラなどは、おれは使わないという見栄が働いて普及しなかったと思う。

 私が初めてEEカメラを意識したのはキャノネットからである。これが発売されたのが昭和36年でこのあと、どのメーカーもEEカメラを一斉に作りはじめる。中級カメラという言い方はまだなかったと思うが、ミノルタハイマチック、ヤシカ・エレクトロとか自動露出機構を取り込んだカメラが売られる。

 1968年・昭和43年ベトナム戦争の取材で当時の南ベトナムに行った。サイゴン(現在のホーチンミン市)をベースにしてダナン、ケサンをはじめ南ベトナムの戦場を取材した。その年は南ベトナム解放戦線の都市攻撃があったときである。一月ほど経ったとき第2次都市攻撃があってサイゴンで市街戦の写真を撮った。

 この都市攻撃がはじまるまえ、最前線の米軍基地やキャンプに取材にいった。私がカメラをぶら下げているものだから、アメリカの兵隊たちが自分の持っている買ったばかりのカメラを見せにやってくる。そこで驚いたのはアメリカ人に一番人気のカメラがヤシカ・エレクトロ35であったことだ。

 それまで、このカメラにはまったく関心がなかったし、ほとんど手にとったことがなかった。グリーン系統のコーテッドでF1.7の大きな口径のレンズがキラキラと光るのもすごいが、スイッチを入れるとファインダーの中やら、カメラの各部で赤やグリーンの小さなランプが点滅して、じつに派手な仕組みになっている。

 これを戦争の前線で見せられて驚いた。このカメラのEE機構の宣伝に、ローソクの光でも写ると言っていたのは知っていたが、このカメラを持っている米兵も宣伝文句通り必ずこれを自慢する。私が持っているニコンFやライカよりもこちらが新型、新式、高性能で世代がちがうカメラであるというのだ。

 まだカメラを持っていない若い兵士たちも帰国のときはこのカメラを買ってアメリカに帰るのだと言う。昭和40年代前半、アメリカ人が一番欲しがったカメラがヤシカエレクトロだった。機械ベースのカメラに電気系統が取り込まれて、あんなにはっきり電気カメラの存在をアッピールしたカメラはあれがはじめてだろう。電気カメラらしい電気カメラであった。

 前線からサイゴンに戻ってアメリカ軍のPX(軍隊内の売店)をのぞかせてもらった。カメラ売り場があって、ここは日本製カメラのオンパレードだった。ニコン一眼レフもあったが人気はEEカメラで、やはりヤシカエレクトロがベストセラー・ナンバーワンであった。

 日本の経済界でベトナム特需という言葉があったと記憶するが、あの戦争で日本のカメラが売れ、それが日本カメラの世界制覇に一役買ったのはまちがいないだろう。あのカメラ売り場の盛況はその証拠だった。

 海外では圧倒的にヤシカだったが、国内でもEEカメラは着実に地歩を築いていったようだ。まだオートフォーカスは付いていないが、露出だけは確実に合わせてくれる。私の周辺では記者たちの間にEEカメラが普及した。

 新聞の場合でも雑誌の場合でも取材のとき、カメラマンが同行するとは限らない。特にそのころから海外取材が増えてきて記者たちも写真を撮る必要があった。入社した直後は地方の支局で写真を撮る機会が多いが、東京本社にくると写真を撮らない。それにまるっきり写真の苦手の人もいる。

 海外取材に出かけるのだが、なんとか失敗しないで写真が写るカメラがないか写真部に相談にくる記者が多かった。個人的に相談を受けて、買ってあげたカメラは私の場合はキャノネットが最初でそのうちにキャノデートEをすすめるようになった。

 キャノデートで撮った写真が、週刊朝日のグラビアページを3週続けて飾った記者がいた。特ダネ的写真であった。この記者はこの海外取材に行くまでは、ほとんど写真を撮ったことがなかった。EEカメラが出来たので、はじめてカメラを使ってもきちんと写真が写るようになってきた。

 EEカメラはプロの写真家、アマチュアカメラマンにはあまり興味を惹かないカメラであったが、とにかく確実に素人でも写せるとろいうことで、購買層をひろげていった。