TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

バルダックス
 学生時代に写真を撮り始めてから50年ほどたつ。この間に愛用してきたカメラのことをいろいろ書いてきたのだが、まだ1回も話題にしていないかカメラもある。そんな古いカメラは興味がないよと言われるかも知れないが、そんな一つ一つのカメラを使っているうちに写真の基礎的なことや種々の技法を覚えていった。

 言い方をかえればカメラが変わるごとに、このカメラのときは、それまで知らなかったあのやり方を憶えたみたいな、自分と一つのカメラとの間に起こった記憶がある。この回からそのような思い出を含めてカメラにふれていこうと思っている。

 50年ほどまえ、はじめて使ったカメラのことを書こうと思う。私たちの年代はほとんどが子供の頃のトーゴーカメラの記憶が残っている。でもあれは写真経験というよりはオモチャ(玩具)としての経験だ。

 私の場合は敗戦体験のあと、はじめて使ったカメラがやはり最初のカメラということになる。このカメラは決して性能のよい名機と言われるようなカメラではなかった。そのまえに何故写真を始めたのかを書いておかないといけないのかも知れない。

 学生時代、絵の勉強をやろうとおもった。中学生時代からそんな傾向はあったのだが、戦争中で飛行機の絵を描くことに熱中していた。戦争が終って、食べることも満足にいかない時代で、経済的にそんな余裕はとてもなかったのだが、何故か家の物置にホコリまみれのイーゼルや油絵の絵の具箱、筆などがあった。

 戦争が終わって(1945年)何年かたったころ、絵を描いて見ようと独学ではじめた。ちょうどそのころだと思うのだが美術出版社から4、5分冊の洋画の描き方という本がでた。これもきっかけだったようだ。ところが、才能がなかったのと最初から高望みをしすぎて、なかなか1枚の絵を描き上げることができなかった。だれかに教わればよかったのかも知れない。

 そのうちに絵を描くために、写真を利用するとよいみたいなことを雑誌か何かで読んで、これはよいかもしれないと思って写真を始めた。そうして間もなく、写真の面白さにのめりこんでしまうようになった。絵の方はそもそもがデッサンの勉強をしっかりやったわけでもなく、水彩やパステルをやるのでもなく、高望みで油絵をやったのだから、これがうまくいくはずがないのである。

 道具を買いたして、油絵の真似事みたいなことをつづけていたのだが、絵の具が高くて買えない。絵の具が足りないから描けないみたいなことを口実にだんだん遠ざかってしまうことになった。

 写真をはじめたときに使った最初のカメラは、開業医をしていたおじから借りたバルダックスとういセミ判のカメラであった。このカメラについては、以前(97年6月)書いたことがあって、すこしだぶるところがあるのだが、敗戦の翌年、昭和21年、当時はなかなか買えないいフィルムが手に入って、家で親父、お袋と一緒に家族の記念写真を撮ろうということになって、このカメラを借りたのが最初であった。

 自分で写真を撮って見ようと思って、バルダックスを使い始めたのはそのときから数年経っていた。もちろん写真のことは何も知らない。カメラのことも、フィルムのことも知らなかった。しかし写真のほうは幸いなことに教えてくれる友人たちがいた。

 そのころ友人たちが使っていたカメラのことをあまりはっきり憶えていないのだが、一人がマミヤシックスを持っていたことだけは記憶に残っている。

 バルダックス(Baldax)はずいぶん長いこと借りて使っていたのだが、機能のことなどどうもはっきり憶えていない。カメラにあまり関心がなかったからだ。ドイツ製といってもツアイスのスーパーシックスなどのように有名な高性能カメラではなかった。値段も戦前のサラリーマンがそれほど無理をしないでも買える程度の金額であったようだ。

 バルダックスのことを書こうと思って、あまり有名でないこのカメラのことを、だれか書いている人はいないかと、古い雑誌や写真の本を探していたら。戦前、秋山庄太郎さんや稲村隆正さんなどと同時代に早稲田の写真部で活躍していた、土方健介(ひじかたけんすけ)さんが『カメラ面白物語』1988年朝日新聞社・刊に「暗い青春のバルダックス」とこのカメラのことを書いているのを見つけた。

 土方さんは、中学時代お父さんにカメラを買ってもらう。学生は学校の勉強だけしておればよい。写真などと言うものは学校を出てからすればよいのだといっていた父親に、友だちから借りてきたカメラを見つかってしまう。他人から物を借りるものではない。自分で稼いだ金で買えといわれるが母親のとりなしでカメラを買ってもらう。

 「父が勤めていた会社にカメラ部があってそこでバルダックスを扱っていた。そこでもっとも安い機種を買ってくれたらしいが、当時流行のスプリングカメラで、ドイツ製ということだから、私は天にも昇る気持ちであった。」

「レンズはメーヤー・トリオプラントF4.5付きで、このレンズは“アメーヤー”とあだ名が付いているぐらいに甘く、絞り開放ではどうしようもなかったが、幸い山の撮影ではF8ぐらいまで絞るので、何とかつかいものになった。」と書いている。

 私が借りて使ったのもトリオプランだったのだろう。写真を教えてくれた友人が私がつかっているカメラを見て、テッサーでないのかと言ったのを憶えているから、バルダックスにはいろいろなレンズがついたカメラがあって、レンズによって値段がちがっていたのだろう。

 はじめのころは何もわからなかったが、日中、戸外で撮るときは絞りF8で100分の1秒のシャッターを切ることし。距離は目測で合わせること、シャッターをセットすること、1枚撮影したらフィルムを必ず捲き上げること、逆光では写さないことなどが最初に教えられたことであった。

 最初から人間を写したいという希望があった。しばらくすると絞りとシャッターの相関関係がわかってきた。相反則というやつだがそのときはそんな言葉は使わなかった、こんな言葉があるのを知るのはだいぶ後のことである。

 絞りを開ければすこし暗くても写るらしいと言うことがわかってきたから、絞りF4.5開放で25分の1秒のシャッターをきれば日陰や室内の窓際ならば人物写真を写せると思って、しばらくレンズを開放にして写真を撮った。

 この結果は見るも無惨なもので、焦点が合うとか合わないとかいう問題ではなく訳の分からないボケボケ写真になってしまった。何本もフィルムを使って、このカメラは開放でレンズをつかってはいけないとわかった。レンズは開放では使ってはいけないと写真を現像してもらっていたDP店のおやじから笑われたのもそのころのことである。このレンズの甘さは土方さんが書いていられるとおりであった。

 半身以上で人物写真を撮るときは、洋裁用の巻き尺(スケール)をつかって距離を正確に計り焦点を合わすことをおぼえた。セミ判カメラというのはブレやすくて、人物などは距離が近いものだからをどうしてもブレが目立ってしまう、カメラが自分の物でもないのに、下北沢の古道具屋で木製の三脚をみつけて、安かったものだから買ってきてつかうようになった。

 いろいろな人に聞いてみたがカメラを買う前に三脚を買ったのは、どうも私くらいしかいないようである。でもこの木製三脚はずいぶん長い間つかった。当時は室内で写真は写らない物とされていたが、友人から教えてもらい、F8に絞ってバルブのシャッターで撮ることを憶えたのもこのカメラであった。

 今このバルダックスは手元にはない。レンズの焦点距離は75ミリ、シャッターはバルブBと25分の1、50分の1、100分の1秒しかついていなかった。レンズの焦点調節は前玉回転で3枚レンズの一番前のレンズだけを動かしてピントを合わせるようになっていた、

 フィルムは120フィルム・ブローニー判フィルムで16枚撮影できた。そのころのフィルムにはASAやISOなどという感度の表示はなく、当時の撮影データなどから換算するとISO−25くらいの感度であった。最初のころはちょっと曇天だから50分の1秒くらいで写るだろうと思ってシャッターを切るがほとんど感じていないという失敗が多かった。

 このカメラでは、写真では焦点(ピント)をあわせなければいけないことを知った。それとなんと言っても 光があって写真が写ることを知った。絞りという道具が光線を加減する役割をもっていることを教えられた。