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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ニコンFTNと冬季オリンピック札幌大会
 ニコマートは発売から二年ほど経った1968年(昭和43年)改良型のFTNが発売された。このFTNカメラから測光方式が全面測光から中央部重点測光に変わった。これでさらに測光の精度が高まった。このころ仕事に使ったカメラのことが正確に思い出せないところがあって、すこしあいまいなのだが自分で買ったニコマートFTは1台だけだったと思う。

 今、FTNは手元に1台しか残っていないが、FTNは何回も買い換えて6、7台は買った記憶がある。このカメラを露出計の代わりに使っていた期間はかなり長い。しかし昭和40年代後半から50年代後半までこのカメラだけをもっていって仕事をした記憶がある。はじめは露出計の代わりであったのだがいつの間にかメインカメラの役もはたしていたのだ。

 全部がニコマートと言うことではなくて、カメラは仕事によって使い分けをしていたのだが、いつ頃からか露出計としてではなく撮影用に使い始めたのかが、この時期がどうもはっきりしない。

 すでにニコマートを撮影用につかいはじめていた頃と思うのだが、昭和47年第11回冬季オリンピック大会が札幌で開かれた。あのときは46年のプレオリンピックと本大会の2年続けて札幌に行った。同じ出版写真部の仲間たちと10人ほどのメンバーで、でかけたのだが、そのとき冬のスポーツ写真を撮るためにつかったメインカメラはニコンFであった。

 あれはオリンピックという特殊な取材であったためかも知れない。取材のほとんどが200ミリ以上の望遠レンズであったこと、耐寒という問題もあってニコンFがつかわれた。寒さへのテストが繰り返し厳重に行われたが、その結果ニコンFは整備点検がきちんとしてあれば、よほどの低温でもまず大丈夫であるというのが理由であった。
 中判カメラのブロニカもつかわれたがこの方は寒さに弱かった。いろいろ工夫してカメラに厚手のケースをかぶせ、これに白金カイロを抱かせることで撮影したが、時々温度が上がりすぎてフィルムがおかしくなり、現像してみるとマゼンタかぶりを起こしてしまうことがあった。

 記憶をたどっていくと面白いことに気がつく、プレオリンピックのあった昭和46年にニコンF2が発売された。しかし新しく発売されたF2を手に入れようと言う気が起きなかったし眼がとどかなかった。札幌オリンピック本番前にカメラボディーを補充することになり、写真部の部会でカメラのことが話題になったはずなのに、F2は取り上げられなかった。

 46年の冬になってオリンピックの取材メンバーにニコンFの新しいボディーが1台ずつわたったことを覚えている。こうして考えてみると、このときはニコマートは露出計としてつかわれたのだ。これは記憶がはっきりしている。

 屋外のウィンタースポーツの露出がむずかしかった。とくに晴天になると露出計の針は振りきってしまう。気をつけていても露出アンダーの写真をつくってしまう傾向があった。メンバーのなかに、スキーをはじめウインタースポーツの名手、名人と言われていたカメラマンもいたが、なかにはスキーの写真を撮るのははじめてという者もいた。名人といわれたI君が、取材メンバーに冬のスポーツ写真のための露出のレクチャーをしたことがある。彼は自分の体験から露出を計るために、光の反射率18パーセントのあるものを使っていた。露出計でもニコマートでもいいからこのあるものの露出を計るのである。

 18パーセントといえば昔スタジオで写真を撮ったことのある人はコダックのグレイカードというものを覚えていられるだろう。これは何のことはないA4の厚手の紙にグレーのインキで印刷がしてある。これが反射率18パーセントなのだ。これに当たる光を計るのである。これは現在でもカメラ量販店にいけば売っている。

 I君が使っていた反射率18パーセントのあるものとは、登山用というかスキー用のリュックであった。彼はオーストリーで買ってきたグレーのリュックをグレーカードの代わりに持ち歩いていた。グレーカードでは雪が解けると紙が濡れて黒くなってしまう。布製のリュックは水がしみない。そのときの彼の言によれば、このグレーはオーストリー陸軍の軍服の色合いなのだそうである。

 これを聞いてメンバーは銀座の山の道具屋、好日山荘に問い合わせたらオーストリー製のリュックがあると言う。銀座2丁目にあったこの店は輸入の山用品を売っていた。すぐリュックを買いに行った。グレーのリュックは2、3個しかなくて頼んで集めてもらった。冬のオリンピック本番のときは、朝日新聞の取材メンバーには派手なグリーン色のヤッケを会社が支給してくれたから、これにお揃いのグレーのリュックのスタイルは異様に目立った。

 札幌の冬の天候はめまぐるしく変わる。私も競技種目のいくつかの撮影に出かけたが、いつもグレーのリュックを手元において、天候が変化するのにあわせてニコマートで露出を計った。

 この記憶は非常に鮮明だから、札幌オリンピックのときニコマートの果たした役割についての記憶は間違いがない。

 日常の国内での撮影取材ではどのカメラを使っていたのかはっきりしないところがあるのだが、海外取材のときのことは割合にしっかりした記憶がある。札幌オリンピックから二年経った昭和49年・1974年の夏、7月から8月にかけてアメリカに野生動物を撮影にでかけた。南のジョージア州のオケフェノキーからはじまってモンタナ州のバイソン保護区、アラスカ州ケナイ半島のサケの季節の熊と、ヘラジカの保護区、そうしてアリゾナ州コファ動物保護区と長期の取材であった。

 この取材に持っていったカメラがニコマートであった。ニコマートFTNのボディを3台もっていった。