TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

一眼レフカメラとレンジ・ファインダーカメラの併立時代
 デジタルカメラ・ニコンD1が発表になった。9月には発売されるようだ。ニコンはデジタルカメラでは、最新のパーソナルユースカメラCOOL PIX950をはじめ、プロユースのハイエンドカメラと称するものもすでに何種類も発売しているのだが、今回発表のカメラに『D1』と名前をつけたことで、どうやらこのカメラをデジタルの決定版にしようという意図のようである。日本光学時代からニコンは一桁ネーミングのカメラはフラッグシップ機と言うことになっている。一眼レフカメラの1号機にニコン『F』の名称をつけたのとおなじような意味があるのだろう。

 6月なかば、朝日新聞の写真部に行ったとき、ニコンD1のテスト機がきていて見せてもらった。デザインや性能をニコンF5をベースにしているこのカメラは、CCD(受光素子)がちょうど、APSカメラのフィルムサイズと同じくらいの大きさになったそうだ。画素数は274万画素で最近の200万画素クラスのパーソナルユースのデジタルカメラと変わらないように思うが、やはり一画素あたりのCCDの面積がちがうためか、プリントアウトした写真を見ると画質がかなり違うことがわかる。

 このCCDはどこのメーカーが製造したものなのか教えてもらえなかったが、このCCDができたことが、D1を発売した最大の理由のようだ。キャノンの600万画素カメラのCCDは小さいCCDをいくつか寄せ集めてつくったものだそうだし、これだけの大きさのCCDが安価に供給されるようになればデジタルカメラの世界は大きく変わっていくに違いない。さらに36ミリ×24ミリのライカ判フィルムサイズCCDをつかったメラが発売されることもそう遠いことではないのかもしれない。

 ニコンはD1の発表にニコンFの発表当時ををだぶらせて考えているに違いない。ニコンが一眼レフカメラ・ニコンFを発表したことが小型カメラの世界でレンジファインダーカメラから一眼レフに変わる契機になったからだ。D1もデジタルカメラでニコンFの位置を獲得できるかどうか、世紀変わりのここ1.2年、デジタルカメラの動向は眼がはなせない。

 アサヒグラフ(6月18日号)を見ていたら、アラーキ・荒木経惟『荒木町を撮る』という特集を掲載している。東京四谷にあるかっての花街・荒木町を荒木が撮るという趣向である。古く雑然とした迷宮のような街の描写は大変に懐かしく感傷的である。写真小説『東京ノスタルジー』などと同じような表現だ。

 この雑誌の表紙に、荒木が荒木町の料理屋の女将と写っている写真が使われている。この写真を見ると、荒木はライカM6に35ミリレンズをつけて荒木町を撮影しているようだ。荒木といえばカメラはコンパクトカメラで十分、みたいなことを言っていて「弘法筆を選ばず」カメラは凝らないと言う印象が強かったのだが、最近はライカ愛好家に転向したようだ。

 ライカの話になってしまったが、話はニコンFにもどる。ニコンFが発売された当時、小型カメラが一挙に一眼レフカメラに変わったわけではなくて、かなり長い期間、レンジファインダーカメラと一眼レフカメラの併用時代がつづいた。そうして今は高級カメラといえば一眼レフカメラで、まあー、一眼レフ時代と言っても間違いではないと思う。

 もちろん一眼レフ時代だと言っても、ライカ愛好家は荒木経惟をはじめ、いまだに私の周囲にもたくさんいるし、レンジファインダーカメラで仕事をしているプロの写真家も何人かいるのだが、アマチュア写真家の世界では撮影会や撮影旅行を見ても、人に見せびらかすためにライカを持って行くカメラ趣味の連中がたまにいるくらいで、記念写真撮影用に補助に持ち歩いているコンパクトなレンジ・ファインダーカメラをのぞくならば、まず90パーセント以上は一眼レフカメラが主力になっている。

 しかし一眼レフ草創期には、一眼レフの欠点ばかりが気になってライカ・ニコンS・キャノン4sbやL型などのレンジファインダーカメラが主力機であった。一眼レフカメラは長焦点レンズ・望遠レンズを使うための補助機であった。

 新聞社のカメラマンは大型から小型カメラに移行する段階で、はじめから一眼レフカメラを使うようになったが、雑誌などの仕事をしていたスタッフカメラマンやフリーの写真家たちにとっては、レンジ・ファインダーカメラと一眼レフカメラの共存、併立時代はかなり長いことつづいた。何故こんなことになったかというと、これは一眼レフカメラには特有の欠点があったからである。

 雑誌などの仕事をするプロカメラマンがカメラを何台もぶら下げて歩くようになったのはいろいろ理由がある。一つには一眼レフの欠点と、長年使ってきたレンジ・ファインダーカメラの良さから望遠レンズは一眼レフ。標準以下はレンジ・ファインダーカメラと併用せざるをえなかったからだ。

 もう一つの理由は、はじめズームレンズがなかったから、どうしても何本ものレンズを使う。そのためには何台ものボディを使わざるをえなかったからだ。
 さらにもう一つの理由があった。モノクロ写真とカラー写真の両方を撮るためには2台以上のカメラが必要になったからである。

 かって自分が毎日のように取材にでかけたころのことを振り返ってみると、昭和30年代なかばから昭和40年代は報道取材では、いつも4台以上の小型カメラをもってでかけた。報道取材とはニュースや出来事を報道する取材で、突発的に起こる事件、事故、災害などの取材もあったが、公害問題など一つのテーマを深く掘り下げてコミュニケーションする取材もあった。

 新聞はまだカラー印刷の紙面はわずかであったから、写真取材のメインはモノクロで行われた。しかし雑誌などのメディアでは次第にカラーページが増えていって、週刊誌などでも大きなニュースになると締め切り日の都合で、雑誌への掲載はカラーになるのか、モノクロのグラビアページで扱うのか、取材の現場では、はっきりしていないことがほとんどだった。

 だから、つねにカラーフィルムとモノクロフィルムで取材することが要求されていた。現場でカラーで撮影するかモノクロで撮影するかは取材者にまかされていた。その時代のことを思い出して見ると、ワンチャンス一枚のときはカラーで撮ることが多かったが、しかし可能な限り両方で取材するようにしていた。

 そのために、カメラの用意が最低でもカメラ4台というスタイルになったと言える。 一眼レフができた最初のころは、ニコンFが2台、これには105ミリと200ミリをつけていた。通常は105ミリのカメラにモノクロを入れ、200ミリの方にカラーを入れていた。この2台は必要に応じてレンズを交換して撮影した。

 レンジ・ファインダーカメラはニコンのS3が一台、これには35ミリレンズをつけ通常モノクロフィルム・トライXを入れていた。もう1台のカメラはライカであったりキャノンVTであったりしたが、これにはカラーフィルムを入れた。モノクロとカラーを使い分けるとき間違えるといけないので、レンジファインダーカメラは意識してニコンSにモノクロフィルム入れていた。ニコンFの2台は1台のほうに赤や黄色のテープをペンタ部分にはりつけて区別した。テープの貼っていないカメラがモノクロということである。

 このスタイルはずいぶん続いたと思う。昭和39年春、現天皇が皇太子時代、ご夫妻でメキシコを親善訪問された。この取材のときニコンFを2台を盗まれてしまったことは以前に書いたが、そのときはニコンF2台とニコンS31台それに中判カメラのブロニカを2台持っていっていた。

 ブロニカを持っていった理由は皇太子ご夫妻の取材だけでなく、アサヒグラフでメキシコ別冊を出すことになっていて、風景的な撮影や航空撮影まで予定していたからである。盗難に遭ったあと、ニコンFは東京から代わりのカメラを手配してもらったのだが、ご夫妻が到着の当日は間に合わず、望遠レンズをつけたブロニカがニコンFの代わりをした。中型カメラ2台がニコンFの代わりをしたわけだ。

 これが昭和30年代であった。40年代になるとレンジファインダーカメラ2台が1台になって、その代わりニコンFが3台になった。いろいろなレンズを使ったのではっきりしないところもあるが、そのころからニコンFに24ミリレンズをつけて使うことが多くなってきた。

 そうやって取材をしているうちに、いつ頃からかレンジファインダーカメラが私の取材用機材から消えていくことになる。これは報道関係カメラマン全体の傾向であったが、それだからと言って、一眼レフカメラの欠点がなくなったわけではない。一眼レフカメラの欠点を少なくするためにカメラメーカーも大変な努力を続け、これをのぞこうとした。この努力は今も続いていて、かなりの改良はされたのだが、それでもなくなることはないようである。