TopMenu


吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ニコンFとキヤノンフレックス 一眼レフカメラ 2
 アサヒカメラの6月号は『キヤノン一眼レフの40年』という特集をやっている。草創期、キヤノンフレックスからはじまったキヤノン一眼レフカメラの歴史である。そのなかで『キヤノンF−1物語・ニコン神話への挑戦』という項目で、キヤノンの宣伝部にいられた宮崎洋司さんと言う方がキヤノンレフの歴史を書かれている。宮崎さんの経歴を見るとはじめヤシカ(現在の京セラ)にいられて、昭和36年にキヤノンに入社されている。

 宮沢さんはここで日本を代表するカメラは、キヤノンとニコンだと言われ、距離計連動式カメラの時代はもちろん、昭和34年両社がペンタプリズム式の一眼レフカメラを発売した当初は大変な競争をしていたことをつぎのように書いている。

 当時のカメラ雑誌はキヤノンフレックス対ニコンFの機能比較、使いかっての良し悪しなどの記事を大々的に掲載して人気をあおった。キヤノンはキヤノンフレックスにつづいて普及機のRFや2000分の1秒を搭載したR2000を、さらにセレン光電池式の露出計を内蔵したRMと言った具合に、3年間で4機種という矢継ぎ早の開発テンポで市場シェアの拡大を図っていた。
 つぎつぎと新規性のある新型機種を登場させたキヤノンフレックス系列は、当然保守的とも思われるニコンFよりは有利な市場展開を見せていたはずなのに、いつの間にかニコンFが市場を占めていることに気づいた。

 宮沢さんがキヤノンに入社されたのが昭和36年だから、昭和30年から36年にいたる大変革の大事な時期におけるカメラ使用者たちの心情がどうもおわかりにならないようだ。
 宮沢さんは書いている。一眼レフがニコンFに制覇されてしまってから、何故キヤノンフレックスでなくニコンFになったのか、この疑問を仕事を通じて知り合った新聞社、雑誌社や多くの写真家たちとつきあいが出来るようになって、徐々に聞いているうちに理由が分かってきた。

 この理由は、
「単純に距離計カメラ時代から社の備品がニコンであったから」とか
「交換レンズがニコンの方が揃っていたから」
「視野率100パーセントで焦点ガラスの交換ができたから」
「モータードライブが優れていたから」
など個々の比較もあったが、
「キヤノンはアマチュア向きのカメラしか作れない、ニコンはわれわれプロの意見や希望を聞いてカメラを作ってくれる」
と言う理由を聞いて、これが一番の原因ではなかったかと思いをいたすことになります。

 先月、書いたことだが、最大の原因はなんと言ってもニコンFの基本性能が優れていたことにつきる。と思う。
 ニコンFのスタイルははじめ評判がよくなかった。ペンタプリズムのトンガリは奇異に感じた。S型にくらべても角張り、ごつごつして手に収まらないように感じた。機能が先行してデザインのことなど全くと言ってよいほど考えられていないと思われたこのスタイルが、実際につかってみると、それほど気にならず。それから10年経って後継のニコンF2が出てくると、その特徴的なスタイルが逆に良く見えてきたのだから不思議なものである。

 カメラの性能には、カタログ性能と言われるものがあって、色々な新機能を取り込みカタログデータ上は素晴らしいカメラがあるのだが、実際に使って見るとどうにも使いにくかったり、すぐ壊れて動かなくなったりするカメラがある。実際にカメラを使用する写真家にとってこの手のカメラは評判がよくない。カメラが動かなくなることは写真家にとって致命傷になるからだ。もう一つ大事なことは機能の永続性ということである。耐久力の問題である。壊れやすいカメラは、どんなにカタログ上の性能が優れていても嫌われる。

 ニコンFにはこの耐久性があった。20年以上つかって外形はボロボロになっていても変わりなく写真を写すことが出来た。私が今持っているニコンFの1台は昭和36年に買った。フィルムの巻き上げレバーだけ後期のものが使いやすいからと言われて交換したが現在でも変わりなく動いている。記憶をたどって見ても時々整備をしてもらうだけで故障をしたことはない。これは大したものだと思う。

 一眼レフ全盛期がきて、キヤノン・ニコンの時代からニコンが圧倒的に市場を独占する時代になる。どちらかと言えばキヤノン愛好家であったわたしにとっては歯がゆくてしようがない。しかし写真は確実に写ることがプロの写真家にとってはどうしても必要なことことだから、このキヤノンの劣勢はどうしようもなかった。それにキヤノンが営業方針を大きく変えたことが劣勢に拍車をかけた。新聞社、雑誌社、プロの写真家たちへのサービスを止めてしまった。アマチュア用カメラを作ったほうが商売になると考えたのだろう。

 キヤノンフレックスの最初の製品あたりから、今まで持ち込まれてきていた試作品やテスト機がお義理程度にしかまわってこなくなった。私がキヤノンフレックスをテストする機会がなかったのもそんな理由からだったと思う。最初の製品が不具合だったせいもあるのかも知れない。テストをしないから買おうと言う気も起こらない。ニコンFは発売時期は遅れたが潤沢に製品があった。しかも申し分がないカメラに仕上がっていたから、これは当然のようにニコンFを買うことになる。

 キヤノンは日本の写真界でプロとアマチュアが直結していることを見誤ってしまったのだ。プロ写真家の数はたかが知れている。数の上で圧倒的に多く、しかもこれからどれだけのびて行くかわからないアマチュア写真家を対象に商売をやっていくほうが有利であると考えたのだと思う。アマチュアの世界はピラミッド構造でハイアマチュアと言われる人たちはプロ写真家たちとの交流もあるし、プロの写真家たちが使っている機材・カメラと同じものを評判を聞きつけて買い入れる。いまはすこし違ってきたが、つぎのレベルのアマチュアでも底辺のアマチュアでも経済的に許されればプロが使っているカメラを使いたいと思っている。プロの評判がそのままアマチュア写真家たちの評判なのである。大部分のアマチュアは最高のものを使いたいと思っているのである。

 キヤノンの営業の担当者が代わった。そうして私たちの写真部に機材の整備にきていたキヤノンの技術の人たちの足もだんだん遠うのいていった。ちょうどその時期とキヤノンフレックスの発売の時期が重なったように思う。最初のキヤノンフレックスの時だったか、あるいはR2000のときだったか忘れてしまったが、新製品のカメラをもってきて10分ほど経ったら次へ持って行きますのでと言って慌ただしくカメラをもって帰ってしまった。テスト撮影もさせてくれない。実際にテスト用のカメラをもってきたのは、カメラが市販されて市場に出回ってからだった。

 宮沢さんがキヤノンに入られたのは、そんなことがあった後の時期のようだ、何故ニコンFの全盛時代になってしまったのか、プロに売り込むことを止めてしまったキヤノンの営業方針が一眼レフ時代になってニコンの時代を作り出したのだと私は思っている。

 これはキヤノンのF1の時代がくるまでつづいと記憶する。正確にいううとF1が発売されたのは昭和46年だから10年以上経ってキヤノンは新聞社、雑誌社、プロ写真家たちへのプロサービスを再開した。それからまた10年たってニュウF1の時代にはプロへのサービスは完全にもとにもどっていた。

 私たちがキヤノンフレックスを採用しなかった理由にはプロサービスのことも確かに影響はしたが、それだけが理由ではなかった。私たちがニコンFを使ったのには性能上の問題で、どうにもならない欠陥をキヤノンフレックスに発見したからだ。新聞社を含めてスタッフカメラマンのいるところでは、使うカメラの機種の選定ではかなり慎重だ。一度決めてしまうとなかなか機種は変えることができない。ボデイ1台の問題ではなくてシステムとして超広角レンズから超望遠のレンズまで1社のカメラ・レンズをそろえることになる。これは大変に古い感覚だが、昔の軍隊の武器選定も同じことだったと思う。

 ニコンとキヤノンの一眼レフが発売されたとき、新聞各社は昭和39年に東京で開催されるオリンピックを視野にいれていたし。大型カメラ・スピードグラフィックから小型カメラへの移行も徐々に進めようとしていた時期だから、キヤノンにするかニコンにするかで当然情報を得ようとする。キヤノンがプロサービスを止めたからキヤノンフレックスを使うのを止めるというような簡単な問題ではなかった。キヤノンの営業が新しいカメラを持ってこないのなら、社に出入りの写真器材商からテストの機材を取り寄せてテストをする。これは朝日1社だけでなくどこの社もおなじことである。

 宮沢さんが書いているプロがキヤノンを使わなかった理由の中には落ちている機能上の問題があったのだ。この欠陥があったから私たちの部、朝日出版写真部はキヤノンを採用しなかった。これは朝日の新聞写真部がキヤノンを採用しなかった理由と同じことかどうかわからない。

 出版写真部の先輩たちがキヤノンフレックスあるいはR2000をテストした。オリンピックのこと考えているから望遠レンズでのテストが多くなるのは当然である。テストをしているうちに、キヤノンは400ミリ以上のレンズを使うとミラー切れが起こることがわかってきた。

 ミラー切れとはファインダーのなかで上部の映像が見えなくなることだ。これはレンズの焦点距離が長くなればなるほど激しくなってくる。理由は画像をペンタプリズムまで反射するミラーの寸法が短いからだ。カメラボデイを出来るだけスマートにするためにはボデイの厚みを減らしたい。ボデイを薄くするためにはミラーの寸法を縮めたい。キヤノンはミラーを削ってしまったのだ。

 600ミリレンズをつけてプロ野球の投手の全身の投球ホームを撮ろうと思う。ファインダーのなかに見える画像だけを見て撮影すると、画面のフレーミングは投手の頭の上がかなり空いたお粗末な写真になってしまう。画面一杯に撮ろうとするならばファインダーの中では投手の頭は画面に入れないでというより、見ないで撮影しなければいけないことになってしまうのだ。

 これでは望遠レンズはつかえない。このことを新しく社にきていたキヤノンの営業の人に言ったら、一眼レフカメラは本来そういうものだ、みたいなことを言った。これが私たちの部にいたキヤノン派と言われる人たちさえも一眼レフカメラではキヤノンを使うことをあきらめるようにさせた原因であった。これは昭和34年から35年にかけてのペンタ式一眼レフ草創期の話である。