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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

ペンタックス6×7・マミヤRB67・ブロニカGS−1
 カメラ雑誌を見ていると中判カメラの特集が組まれることが多く、最近のカメラ人気が35ミリカメラだけではないことがうかがえる。人気がでてきた理由は120フィルム(ブローニー)を使うセミ判(6×4.5)カメラ用にズームレンズが出来てきたことと、オート化が進んで普及型の35ミリ一眼レフカメラと同じくらい易しく扱えるようになってきたためのようだ。しかし中判カメラの良さはなんと言ってもフィルムサイズの大きさからくる精密描写だ。

 一方デジタルカメラの人気もでてきた。デジタルカメラはパーソナルユースのものでオリンパス、フジ、キヤノン、ニコンと140万画素、150万画素のものが手頃な値段で買えるようになってきた。デジタルカメラを奨める人たちは銀塩フィルムに劣らないなどと言っているが、写真固有の精密描写についてはまだまだ銀塩フィルムにはかなわない。これは35ミリフィルムでもそうだが、中判カメラとなるとその描写は対象物の質感をはじめ、肉眼が見落としていて、写真を見てはじめてわかるような表現さへ可能にしている。マミヤが3センチ×3センチのCCDで400万画素のデジタルカメラを発売するそうだが、これでやっと35ミリフィルムの描写にちかづいたと言えるかも知れない(画素数だけ言うならばもちろんキャノンEOS−DCS1やダイコメットのような大画素数のカメラもあるがまだまだ使いにくく一般的でない)。デジタルカメラの画素数はどんどん多くなっていくだろうし、そうなってくるのは当たり前だし、数年たったら今書いていることがおかしくなってしまうくらい新しい技術の製品化は早い。

 銀塩写真はデジタル写真に無いものを売り物にするだろう。さしあたっては精密描写だ。精密描写にはフィルムサイズを大きくするのが一番手っ取り早い。私が朝日新聞の出版写真部に入ったのは昭和29年1954年である。私の入った出版写真部のように雑誌の仕事をしているところは、すでに35ミリカメラをはじめいろいろな機材、フィルムをつかっていたが、新聞の写真部はスピグラつまり大型のスピードグラフィック一辺倒の時代であった。新聞写真部の先輩たちのなかには35ミリカメラを素人がつかうカメラと言って、嫌う人たちが多かった。35ミリフィルムの荒い描写を嫌っての話である。印刷の写真製版でも35ミリは粒子がでてきたないと言って扱うのをいやがった。

 新聞の仕事で35ミリカメラを使うようになったのは毎日新聞が一番早かった。一般には朝日新聞社をはじめ東京オリンピックの昭和39年1964年からだった。35ミリカメラに移行して大型カメラは無くなったかと言えばこれは無くならなかった。
 大型サイズのカメラ、大型サイズのフィルムでなければ表現できないものがあるからである。たとえば航空撮影の写真だ、都会の町並みを撮ってこれを実際に印刷してみると描写のデテールが明らかにちがう。大型あるいは中型カメラの描写は繊細で情報量のちがいをはっきりと見せつける。大判フィルムからの印刷のほうが情報量が多いから見ていて飽きない。
 建築写真でもそうだ、いまはどうか分からないが、使った材料の質感まで出なければしっかりした建築写真とは言われなかった。ファッション写真だって、かってはモデルが着ているコスチュームの質感がはっきりとあらわれ、つかっている材料が分かるようでなければと言われた。

 こんなことを書いている理由は、中判サイズのカメラの必要性を言おうと思うからだ。最近私が一番多く使っている中判カメラはブロニカGSである。前回まで2回にわたってブロニカカメラのことを書いてきた。はっきりいえばブロニカカメラの欠点を書いてきた。しかしこの欠点が多いカメラをずいぶん長い間使ってきた。理由はほかに中判カメラでよいものがなかったからだ。ブロニカの欠点はフォーカルブレーンシャッターが原因であった。そうしてついに諦めてハッセルブラッドをつかうようになった。ハッセルを私たちのいた出版写真部が備品として使うようになったのは確か昭和44年くらいからだったと思う。1台備品として買ったら後は堰を切ったようにハッセルが入ってきて仕事に使われるようになった。だからブロニカDからGSまでの間は中断していて10年以上の間、ハッセルが中判カメラのメイン機だったことになる。

 そのころ私たちがハッセルに望んでいたことは、ハッセルと同じ機能をもっていて6×6判よりも大きなサイズのフィルムを使用するカメラが出来ないかと言うことだった。6×6判はご承知のように真四角サイズだから実際に使用するときは縦か横かどちらかをトリミングすることになる。今はデザインの世界では真四角サイズがかえって好まれるくらいだが、そのころはレコードのジャケットくらいしか真四角デザインはなかった。少しでも大きなフィルムサイズが要求されているのに切り落として使うのが残念だった。それで6×6判より大きいサイズのカメラが欲しいと言うことになってくる。

 そんなことで一時期マミヤのRB67プロフェッショナルがつかわれるようになった。6×7判では同じころアサヒペンタックス6×7が発売されていた。ペンタックスが昭和44年発売、マミヤRBが昭和45年に発売されている。
 ペンタックス6×7はフォーカルプレンシャッターであった。私のいた朝日出版写真部ではこれは敬遠して使わなかったのだが、何故か新聞写真部ではこれを備品として数台購入してつかっていた。しかしフォーカル・ブロニカとおなじことでシャッターとフィルム捲き上げの故障が多くあまり評判はよくなかった。

 マミヤRBはレンズ・シャッターカメラであった。この6×7カメラにはRBの名前のとおりレボルビング・バックが着いていた。ロールフィルム・ホルダー部分をカメラ本体から動くようにして縦横位置を回転させることで、簡単に換えることが出来た。
 マミヤRBが見本で持ち込まれてきたとき、図体の大きいことと、全体の印象が大味で、ハッセルなどと比較すると何かあか抜けがせず、使って見たいという意欲は起きなかった。何よりも大きすぎ、かさばっていた。重量が3キロちかかったから手持ちで使うことはとても無理だった。これでは用途はどうしても制限される。しかしテストをしているうちに、スタジオで使うのには意外と便利だということになって2台購入された。ブツ撮り(これは商品などをスタジオでライティングして撮影することなのだが)や、絵画の複写で4×5サイズの大型カメラで撮影するほどの必要がないときに使われるようになった。

 ペンタックスやマミヤの6×7カメラが発売された理由は、やはりそういう需要が多かったからだ。報道関係だけでなく、広告写真や営業写真館などでも6×7中判カメラの必要性があった。さてゼンザブロニカだが、ここでも昭和30年代に6×7あるいは6×8サイズのカメラを試作している。この試作品を何回かテストしているが、大きくなった分シャッターの具合の悪さも増えて実用にはならなかった。

 ブロニカがレンズシャッターをつけた新製品を出したのは昭和51年ブロニカETRからだ、最初のブロニカDから15年以上経っていた。これはどう考えてみても遅かった。使って見たが魅力を感じなかった。それはハッセルと比較するからだ。5年経ってSQを発売した。ブロニカの担当者は故障しません具合がいいですと盛んにすすめてくれた。持っていたC型をSQ型に交換してもらった記憶がある。ペンタプリズム・ファインダーを使うと露出計が内蔵されていて、確かに便利には違いないが露出はマニュアルで設定することに慣れていて、不自由は感じなかったから、その面のメリットは無かった。そのころはもう十分にハッセルブラッドに慣れていて、このカメラの優秀性がわかっていたので、私を含めて部員の誰もブロニカを使おうとするものはいなかった。
 そうして昭和58年になってブロニカGSが発売された。レンズシャッターつきの6×7判カメラである。