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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

フジタ66とリトレックスカメラ
 M型ライカが発表された1954年( 昭和29年)はカメラ愛好家にとって記念すべき年になった。M3ライカが発表されたことを知ったのは、新聞の記事であった。カメラ発売のニュースがカメラフアンだけでなく一般の話題になった。新聞でカメラのことを取り上げることはあまりなかったが、この時は日本のカメラ業界の反応が大きく、記事は4月のフォトキナでこの画期的なカメラが発表され、同時に発売されたことを報じていた。M3ライカの詳細と機能的な優秀さはその後カメラ雑誌などで知らされる。昭和29年は私が朝日新聞に入った年と重なっているからライカM3のことはよく覚えている。あのころのことを考えてみると、M3ライカの発表がアマチュア写真家たちの35ミリカメラへの関心を高めたのではないかと思う。二眼レフブームが昭和30年で終わったと言われるのは、間接的にはM3ライカの発売が原因であったのかもしれない。

 アマチュア写真家たちの関心は次第に35ミリカメラに移っていったのだが、プロの世界では、カラー印刷が盛んになって、大判、中判サイズのカメラへの比重はかえって高くなっていった。製版が大判フィルムを要求したからである。プロの写真家、カメラマンのあいだでは「印刷を前提とした写真」つまり写真は印刷されマスコミュニケートされなければ意味がないということが流行のように言われていて時代だから、印刷の技術が写真の撮りかたにまで直接影響していたのだ。印刷の製版技術者がカラー印刷は35ミリフィルムでは駄目だと言えば、これはなんとしてでも大判フィルムを使わざるを得なかった。

 ペンタプリズム式の35ミリ一眼レフカメラは、すでにミランダがあってこれをつかっていた。ミランダで一眼レフカメラの便利さ、性能の高さは十分にわかっていたから中判サイズのカメラに一眼レフの性能を求めるのは当然の成り行きであった。まずレンズ交換の便利さだ。これはファインダーの問題に直接つながる。一時期、マミヤフレックスCを使い始めた理由は長焦点のレンズが使えることだった。しかしこれを使っていると撮影レンズとファインダーレンズとのバララックスが気になる、視差矯正が思うようにいかないのだ。何とかしたいという思いが一眼レフカメラを要求することになる。

 そのころ先輩の船山克氏がつかっていた中判カメラにフジタ66という6x6版の一眼レフカメラがあった。このカメラは35ミリ一眼レフ・ミランダと同時期くらいに発売になったと思う。これを使ってみろと言われてテストした。もちろんペンタプリズムはついていない。二眼レフカメラと同じように上からのぞきこんで撮影する一眼レフカメラで、ファインダーの映像は左右逆像になる。女性モデルをカラー撮影して現像してみると、すこしブルーが強いが皮膚が透き通るような感じの表現で、いわゆる抜けの良い写真が撮れる。これはポートレート用に良いということになった。そのころのレンズの描写は一般的にアンバー系の色彩表現が多く、カラーでは濁ったような感じの発色になるものが多かった。レンズのコーティングがモノクロ写真のことしか考えていなかったためだろう。

 フジタ66はフォーカルプレーンシャッターがついている一眼レフだ、レンズがねじ込み式で交換ができた。距離はレンズのヘリコイドを回転して合わせる。反射ミラーがついていて、撮影の瞬間はミラーを上げなければ写真は写らない。このミラーの上げ下げがシャッターボタンに直接連動していた。シャッターボタンを押しつづけている間はミラーが上がっている仕組みである。このシャッターボタンが問題だった、重いのである。ボディー前面下部にシャッターボタンがついているのだが、このボタンを押す人差し指がフィルム2本ほど撮ると痛くなってきた。これは初期のアサヒフレックスのシャッターとおなじだ、撮影ではシャッターは軽いほど良い。シャッターの具合の良さが写真の出来に影響する。重い痛いと言いながら、それでもこのカメラで何本か仕事をした。欠点は指が痛くなって辛抱しきれず撮影がいい加減になってしまうことと、シャッターが重いことから生じるブレだった。発売元の藤田光学にこのことを伝えたら、それから1年ほどして改良型ができたからと新しいカメラをもってきた、これにはスローシャッターがつけ加えられて、心持ちシャッターが軽くなったような気がしたが、やはり人差し指の痛さは同じようなものだった。
 昭和30年代はじめ、フジタ66以外にも中判一眼レフカメラはいくつか発売されている。今、名前が思い出せるのはビューティレフレックスとローりーフレックスである。どちらも一度、借りてつかった覚えはあるのだが、期待したようには動かなかったのだろう仕事につかった記憶がない。

 同じころ、学生時代の友人に銀座で出会った。お互いに写真に関係ある仕事をしていることは知らなかった、卒業以来の再会だったっから懐かしくて喫茶店でお茶でも飲もうかと言うことになった。名刺を交換するとN君は、武蔵野光機と言うカメラ会社の営業にいる。リトレックスというカメラを知っているかと聞く。知らないと答えると、じつはそのカメラを売っているのだと言う。
 しばらくしてN君は新聞社をたづねてきた。リトレックスカメラ一式を持ち込んできて、進呈するから使って見てくれということになった。
 このカメラはグラフレックスなどのような戦前からあった大型箱形一眼レフのスタイルで、ボディは木製ではなく軽合金ダイキャスト製で革張りであった。使用フィルムは120のフィルムで、6x9、6x7とホルダーを換えて使用するようになっていた。105ミリの標準レンズがついているほか、ルミナントと言う名称の150ミリ、240ミリなどのレンズが揃っていた。
 テストをしてみるとカメラの重量はそれほどないのだが、かさばっていて手持ちで撮影するのには収まりが悪く、どうしてもブレてしまう。絞りが昔の大型一眼レフカメラと同じで、オートプリセットなどという便利な連動の仕組みはついていないから、ピントを合わせがすんだら、改めて絞り直さなくてはならなかった。このカメラの発想は戦前からあるグラフレックスやソホ・レフレックスのような大型一眼レフカメラであったのだろう。これらの大型カメラに比べれば、多分使いやすいカメラという評価もできたのだろうが、こちらの欲している中判カメラの条件の一つは手持ちで撮れることにあるものだから、三脚を使わなけれいけないという条件は厳しかった。どう頑張ってみても結局人物撮影には使えなかった。このカメラはしばらくして風景写真の撮影に活躍することになった。
 武蔵野光機はそのあとノリタ光学と改称して一眼レフ用のペンタプリズムやレンズを発売していた。N君ももう大分前にこのカメラ会社を止めている。