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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

アーガスカメラ
 2月ipmに書いた街頭写真師とマーキュリーカメラの記事を見て、長らく会っていなかった友人が電話をかけてきた。筆者と同年配の友人は昭和20年代後半に銀座で写真を撮っていて街の写真師たちから声をかけられ仲良くなったことがあるという。

 当時のことが懐かしくなって電話をかけてきたのだった。かれは写真師たちは確かにマーキュリーカメラを使っていたが、同数くらいアーガスカメラを使っていた写真師もいたという。講和条約以前は銀座4丁目角の服部時計店は占領軍のPX だった。(松屋も伊東屋もPX関連の店舗だった)

 PXと言っても今は通用しないが占領アメリカ軍の売店(post exchange)のことだった。敗戦後の日本国内に物資が無かった時代、PXで売られていたたばこや食料をはじめあらゆる商品が日本人にとっては夢のようなもの、PX横流れのヤミ商品は羨望の的であった。

 友人は丸の内には占領軍総司令部があり、銀座周辺には軍関係の施設があった。銀座三越と松屋の間がPX専用の駐車場であったから、銀座はアメリカでいっぱいだった。PXのゴミ捨て場にアーガスカメラが捨ててあって拾ったと言う。彼の銀座経歴は筆者より古い。筆者の昭和30年の記憶より数年以上さかのぼるようだ。

 拾ったアーガスは具合が良くなくて、いろいろいじり回したが結局使えなかった。そのことがあったのでアーガスカメラのことはよく記憶しているのだそうだ。彼がいうのには街頭写真屋は、お客がほとんど進駐軍(占領軍)の兵士やその家族だったから、アメリカ人に人気のカメラを使っていたのだと思うと意見を述べてくれた。

 アーガスも多かったのだろうが、多分マーキュリーのほうが商売に都合が良かったのだろう1型だったらフィルムを短く切ってマガジンに詰めて使うことが出来た。それにアーガスは35ミリフィルムフルサイズだったが、マーキュリイは35ミリ半裁だったから経済的な理由もあって街頭写真師の元締めがマーキュリーを揃えたのだと思う。

 街頭写真師たちが使っていたカメラはマーキュリーカメラが多かったが、アメリカで人気のカメラはアーガスCとコダック35だった。戦後アメリカでコダック35とアーガスカメラが猛烈な販売戦争をしたことをカメラ関係の本で読んだ記憶がある。

 戦後筆者が東京の街頭で見た記憶では、アメリカ人、アメリカ兵が持って歩いていたのはアーガスカメラが一番多かった。アーガスはあの弁当箱のような独特の格好で一度見たら忘れられないカメラだった。

 直方体で角ばっていたから、とてつもなく大きく見えた。大きさは横幅13センチ×高さ8.5センチ×奥行き6.8センチだから、一般の35ミリカメラと比較してもそう大きくは無いように思うが、レンズ突出部分をのぞいたボディの厚さが47ミリあって5センチに近かったから、いかにも分厚く、大きく、見方によっては立派に見えた。

 ボディは5センチ近い厚さでしかも角張っていて、しかも縁取りしているから、いくらアメリカ人が手が大きくても、もてあますのではないかと思われるのだが、アーガスC型だけで第2次世界戦争中から戦後10年間にアメリカ国内で160万台も売れたというのだから驚いてしまう。

 筆者が朝日出版写真部に入った当時、写真部の先輩にこのアーガスC型カメラを一式もっている人がいて、何度か見せてもらった。一式というのはカメラと交換レンズ、フラッシュガンが大きくて立派な皮のケースに1セットで収められているものだ。カメラも赤皮のケースにはいっていた。先輩の友人がアメリカ人の知り合いから何かのお礼に進呈されたものだった。

 とにかく大きい。カメラにはストラップをつける金具がついていないから持ち歩くときはいやでも皮のケースに入れざるを得ない。この皮ケースがやたらと大きい印象だった。ケースに入れたたカメラを構えてみると持ちにくい。

 シャッターボタンには指が届くがボディ前面にあるシャッターチャージレバーは遠くなってしまう。このカメラはフィルムの巻き上げだけではシャッターがチャージされず、レバーを下げなければシャッターがきれなかった。

 カメラボディは前板と裏ぶたはが金属合金製(アルミ?)だがボディの主体はベークライト製(合成樹脂製)であったのに驚いた。ベークライトはプラスチック製品の先駆けのような材料であったが、これでカメラが作られるとは想像できなかった。

 このカメラを手に持ってみてなんとも扱いにくいので、まったく興味を失ってしまった。これは私だけでなく他の先輩部員も同様だった。この大衆普及カメラが仕事で使用できるとはだれも考えなかった。このカメラを見せてもらったことでアメリカ製カメラはどうしようもないみたいな先入観が作られたとも言える。

 カメラ年鑑や古い本を読んでみると、このカメラの生い立ちやアメリカのカメラ事情がよくわかって面白い。アーガス工業は現存している会社で現在も子供用デジタルカメラを発売している。アーガスカメラを初めて作った時はインターナショナル・ラジオ会社(IRC)という有名ラジオメーカーだったようである。

 その会社が大宣伝してカメラを売りまくった。アメリカ国産のカメラはコダックがあったが、戦後になってアーガスが波に乗った。C型を200万台以上売ったそうだから、それは国民カメラと言って良いだろう。

 戦勝景気に湧くアメリカではドイツ製など外国カメラも売れたが、大衆向けカメラとして中流階級に人気を博した。人気の理由の一つには無骨と思える独特のデザインにあったのかもしれない。通称あるいは愛称だったかも知れないがブリック(煉瓦)と呼ばれた。

 この記事を書くために改めてアーガスカメラの何枚かの写真を眺めていたが、見ているうちにこのカメラのデザインが個性的で、とても魅力的であることに気がついた。これはアメリカ人好みのデザインだったのだ。インターネットの中古カメラのカタログを見ると飾り物として人気があるようだし、そういう宣伝文句が書かれている。映画ハリーポッター2 「秘密の部屋」に小道具として登場しているそうだ。

 人気のもう一つの理由は、ライカなどの高級カメラと同じように35ミリフィルムが使え、C型では連動距離計がつき、レンズの交換が出来ること、フラッシュ同調でフラッシュガンなどの付属品がそろっていたことだろう。

 全日本写真連盟が創立50周年記念の発行した「カメラのあゆみ」1976年発行には、アーガスカメラを「1939年から20年以上も生産が続けられたアーガス社の看板カメラである。どの独特のスタイルとメカニズムはいかにもアメリカ人好みのもので、精密なメカニズムを好む日本人には親しみおにくいが、現在ではこの種のカメラは作られていないので、かえって貴重な存在である」と解説している。

 今の時代とは貨幣価値がちがうからよくわからないが、戦後アメリカ国内ではアーガスカメラは20ドルくらいで買えたと書いてあるものがあった。1ドル360円で換算しても7000円くらいの感じだったのだろう。

 レンズは4枚テッサータイプのシンター50mmF3.5の回転ヘリコイダ式。距離計は2眼式で上下像合致式で基線長4.25センチ。シャッターは手動セットのビハインドレンズシャッター。シャッタースピードは10分の1 〜300分の1秒。

写真説明
アーガスC 横幅13センチ×高さ8.5センチ×奥行き6.8センチ重量750グラム