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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

マーキュリーカメラ
 昔、銀座に街頭写真師たちがいた。銀座だけでなかった。新宿や浅草にもいた。心斎橋でも見た。いや日本中の都市で商売をやってたいたようだ。街頭写真師あるいは街頭写真屋と呼ばれていた。

 筆者が朝日出版写真部に入ったのが昭和29年1954年であった。朝日に入る前に写真を撮ってはいたが、シロウトのお遊び写真であったから、入社しても私は写真が撮れますなどとはとても言えるものでなかった。だから必死になって写真の勉強をした。

 写真の勉強とは、写真理論もそうだが光学的なことをはじめ化学の知識も無かったから、写真部にあった写真関連の本を片っ端から読んだ。半年くらいの間に写真関係の学校で学ぶ位のことは勉強したと思う。しかしこんな付け焼き刃の努力ではどうにもならないものがあった。

 撮影の技術と経験である。人物の写真と風景写真は撮っていた。街でのスナップ的な撮影はやってはいたがマスターしてはいなかった。オリンパス35で被写界深度を利用した赤マークのスナップポイントで撮る。つまり絞りF8距離3メートルの固定焦点で撮れば大体ピントが合うというスナップ撮影法しか知らなかった。

 目測のスナップは 35ミリカメラでフィルム100本撮れば写るようになると言われていたが、アマチュア時代にはとても100本のフィルムを消化することなど出来なかった。朝日には出版写真部にも新聞の写真部にも名人と言われるカメラマンがたくさんいた、大型のスピグラで街頭のスナップをじつにうまく撮影する人たちだ。

 入社して間もなく、先輩に言われたことは大型カメラをマスターするまでは、しばらくは小型カメラを使うなだった。これを使えと言われてはじめに渡されたのはパルモス改造と言う手札版フィルムを使うカメラだった。

 手札版89×127のカットフィルムか12枚パックになったフィルムを使用した。このカメラには120ミリのレンズとレンズシャッターがついていたが距離計などはなかったから、焦点を合わせるのは目測か、シャッターを開けて背面のピントグラスを見て焦点を合わせる以外に方法はなかった。これでスナップするのにはあらかじめきめた位置にピントを合わせて、対象物がその距離に来たときに撮る以外に方法はなかった。

 入社してから2ヶ月ほど経って暗室での現像引き伸ばしの作業をひととおり覚えると、写真部長とデスクが暇なときはデスクに断って撮影の練習に行けと言われた。これを幸いに、朝、出社するとパルモスを抱えて銀座に撮影に出かけた。

 フィルムパックを2個もって、2個24枚撮るまでは帰らないことにしていた。撮影練習時間は1時間か2時間くらいであった。パルモスは今考えれば年期もので修理に修理を重ねたボロカメラで、もって歩くと恥ずかしいようなカメラだったが、当時はなんとかしっかりした写真が撮れなければと必死だったから気にならなかった。

 数寄屋橋(当時はまだ橋があった)をわたって銀座4丁目に出かけ、その日によって京橋寄りに歩いたり、新橋方向で写真撮ったり、ほとんど人通りの多い表通りで撮影した。御幸通りでもよく撮影した。先輩が若い女性、きれいな女性を撮ることを心がけろと言ったので当時としては一番ファッショナブルな女性が御幸通りを歩いていた。雨の日と仕事を仰せつかっている日以外は毎朝銀座にでかけた。

 日曜日に撮影の仕事があれば喜んで出社したし、仕事が無くても日曜、休日も写真部に行って撮影に出かけた。2ヶ月間くらいは週に4日は銀座に出かけた。銀座には同業者たちがいた。昭和29年当時まだ街で通行人の写真を撮って売りつける街頭写真師たちだ。

 撮影をはじめて何日目かに銀座4丁目、服部時計店の前で写真を撮っていたら、街頭写真師の一人が近づいてきて話しかけてきた。はじめは強面で商売のじゃまをしないでくれみたいなことを言ってきた。縄張り荒らしの街頭写真屋の商売をしていると思ったようだった。新米の新聞社のカメラマンで目下練習中であると言って名刺を渡したら、とたんに愛想が良くなった。

 多分写真師仲間から、商売敵のカメラマンがいるから何とかしろと、右代表で話しかけてきたのだろう。この男のはっきりした名前を今どうしても思い出せないのだが、たしか仲間うちでケンちゃんと呼んでいたと思う。年齢は30半ばくらいだった。ケンちゃんが一番の顔利きで、世話好きだったのだろう。

 写真師たちは銀座に10人くらいいて、ケンちゃんが全部に紹介してくれた。こちらがパルモスのボロカメラを持って写真を撮っていることは、たちまち街頭写真師たちに知れたようだ。銀座に出かけるとみんな声をかけて来るようになった。ケンちゃんが一番若かった。50才を超えている人もいた。あの当時スナップ1枚いくらで売っていたのか思い出せないのだが、ケンちゃんは確か10人お客さんがいれば御の字、十分食っていけると言っていた。

 街頭写真師たちが使っていたのがアメリカ製マーキュリーカメラだった。なかに弁当箱のようなアーガスカメラを使っているものもいたが、ほとんどがマーキュリーだった。カメラとお客に見せる見本のスナップ写真と購入申し込み用紙をはさんだ紙ばさみを抱えるのが彼らのスタイルだった。

 見ていると銀座を歩く人の正面から写真を撮っているのに気にならない場所でスナップしていた。誰でも歩いている人を闇雲に撮るわけではなく、アベックといかにも田舎から見物に来たような人をねらっていた。撮影にはリズム感があり撮った後、声をかけるタイミングもじつにスマートだった。ケンちゃんによると、お客に声をかけるタイミングと笑顔が大切、人を怖がらせるような顔のやつは仕事にならないと言っていた。

 ケンちゃんに1日に何枚くらい撮るのと聞いたら「20枚くらいかな」と言うのに驚いたことがある。マーキュリーカメラは35ミリフィルムで65枚撮りだった。35ミリハーフサイズより少し大きいサイズだ。24×20サイズだった(ハーフより2ミリ幅が広い)。あれだけしょっちゅうスナップしているから1日に2本くらいは撮るのかと思ったら意外に少ない。

 ケンちゃんは種明かしをしてくれた。通行する人を片っ端からスナップしているようだが、じつはシャッターは切らない。お客さんの注文を受けてから、念のためにもう1枚撮りましょうと言って、改めて撮影するのが商売のコツなのだそうである。

 この商売には親方か元締めがいるようだった。カメラは借り物だといった。現像焼き付けは暗室係がいて写真は仕上げてくれるのだそうだ。銀座にいる写真師全部が一緒のグループかと聞いたらどうやら二つグループがあるようだった。

 見本に持ち歩いている写真はピントが鮮明でシャッターチャンスもよく見事なものだった。ケンちゃんに聞いたらカメラがいいからと言った。

 マーキュリーというカメラは不思議な格好をしていた。それまで知らなかったカメラであったが銀座の街頭写真師たちの道具だった。銀座でスナップ練習をはじめて一月くらいのころ、写真部にカメラの修理で出入りをしていた業者がマーキュリーカメラの出物があるが要りませんか、と言って見せてくれた。

 写真師たちと仲が良くなっていてこのカメラに興味があったから、フィルム1本テストさせてと言って。1時間ほど試写をした。そのときも驚いたのはこのカメラに1000分の1秒のシャッターがついていたことだ。常用シャッターは200分の1であった。その当時の記憶が曖昧なので、昔のカメラ年鑑を見るとレンズはトリコール35ミリF2.7がついている。フィルムサイズは35ミリ半裁18×24となっているが昔、試写したときは間違いなく20×24だった。

 シャッターはロータリー式1/20〜1/1000、T、Bとなっている。背中に太陽を背負ったような丸い出っ張りは円形のシャッター板が回転するためのスペースである。

 このカメラはアメリカのユニバーサルカメラ製造になっている。マーキュリー2型は1945年発売である。1型は1939年発売だ。1型は専用のダブルのフィルムマガジンがついていた。2型は普通のフィルムパトローネ使用となっていて、それ以外は全く同じ性能と書いてある。

 ケンちゃんが使っていたのは1型マーキュリーカメラだったかも知れない。専用マガジンであるとフィルムを適当に切って1日分のフィルムを詰めればよいわけだ。筆者が試写したのは2型だった。パトローネを使った。

 このカメラの写真を見ていただくとわかるがレンズの上についている2個の大きなノブ(ダイアル)はフィルムの巻き上げ用とシャッターのセット用であった。このノブが固くて使いにくかった。立て続けに撮影すると巻き上げのために指が痛くなったしまった。撮影して現像してみるとピントは素晴らしくよくこれは魅力的であった。

 余分のことだったがカメラ上部の旭日マークのように見える半円形には、この35/mmレンズの被写界深度表がついていた。絞りF2.7で10フィート(3メートル)に合わせると、7.6フィート(ほぼ2.5メートル)から16フィート(ほぼ5メートル)の間がピントが合ったように見えるとなっている。F2.7でこれだけ被写界深度でピントがカバーされると、日中、絞りF8 3メートルではほぼ2メートルからINF(無限遠)まで被写界深度のなかに入りピントのことは考えなくて良い。

 被写界深度表が魅力的なのと値段があまり高くなかったので、大分食指が動いたのだが、使いにくさが頭にあって買うことを諦めてしまった記憶がある。

 何故いまごろ突然にマーキュリーカメラのことを書いたかというと、今年になって最初に街にでたとき都内の中古カメラ店で珍しくマーキュリーを発見したからだ。アルミダイキャストボディが大分酸化していて白い粉が吹き出ていた。被写界深度表もさびてよく見えなかった。

 店頭でこのカメラを見ているうちに、50年前の銀座を思い出して懐かしくなった。あのころ半年ほど経って銀座からケンちゃんの姿は消えた。仲間にケンちゃんの消息を聞くと商売替えをしたと言っていた。どこに行ったかわからないがケンちゃんだってもう生きてはいない年齢だ。

写真説明
マーキュリー2型 レンズ トリコロール/F2.7 35ミリ(直進ヘリコイド/45センチまで近接撮影が出来る) 横幅14.5×高さ9.5×奥行き5.5cm   重量600g