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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

航空撮影 3
 ノールウェイでのことだ、航空撮影のため民間でチャーターした小型機に軍の将校が同乗してきて、終始どこを撮影しているかをチェックした。飛行機が着陸すると撮影したフィルムは全部この将校が持って行った。検閲がすんだらフィルムを返却すると言う。

 今はどうなっているかわからないが30年以上前のことである。ノールウェイはNATO(北大西洋条約機構)に参加していて、1989年、冷戦が終わるまでは共産圏に対する警戒が厳しく、軍事機密が重視された時代であったから止むえないことだったのだろう。翌日になって検閲を終わって現像済みのフィルムが帰ってきた。

 全部がブロニカカメラで撮影したもので、1本ごとにケースに入れられた現像済みフィルムは無惨にもバラバラに切られていた。フィルムを整理してわかったことは、港湾や橋を写したものは完全にカットされていた。一枚単位にフィルムがカットされているだけでなく、フィルム画面の半分が切られているフィルムもあった。

 たとえば世界遺産に指定されているベルゲンの港に面したハンザ同盟時代の三角屋根の木造商館も写真の下の岸壁が写っている部分は無惨にもはさみが入れられていた。観光名所のフィヨルド(氷河の浸食でできた細長い入り江)なども、船が着く桟橋などは切られていた。

 この原稿を書いている途中、インターネットで多くの人が見ている「グーグルアース」でノールウェイのベルゲンを見ると、ブリッゲンの商館前の港湾や道路はじつに細かく写されていて、港の小さなボートや、賑やかな通りの旅行者の一人一人の姿まではっきり写っている。当時だってベルゲンなど軍事機密など、なにもないのに杓子定規に港湾施設の航空撮影は駄目という規定を当てはめていたのだろう。

 当時は冷戦の影響でNATO参加国の取り締まりは、大変に厳しくて、イタリーでも同じであった。軍人は同乗しなかったが、チャーター機の会社が撮影したフィルムは現像して検閲の後にお渡しするという。さらに可笑しかったのは、イタリーではムッソリーニ時代の法律が生きていて、外国人が飛行機の上から写真を撮影することは禁じられているのだそうだ。

 ローマの空港で小型機を所有する会社の女社長は、パイロットが撮影したことにしなければ許可が下りない、ついては撮影料をいただきたいなどと、飛行後にチャーター代を支払うときになって厚かましく請求してくる始末だった。

 ムッソリーニ時代(第二次世界大戦時代)の法律というのはいろいろあるようだ。ローマ市内で三脚を立てて大型カメラで撮影することは許可されない。日本のファッション写真家がモデルを使って、三脚を立てて観光名所を背景にモデルを撮影しようとして警官に止められたなどという話を何度も聞いたことがある。これなどは国内の写真業者を保護する法律などだそうだ。

 イタリー風船旅行がアサヒグラフに掲載された。写真の撮影者名は筆者名になっていたが出来上がった雑誌を大使館に届けにいったときに、航空撮影のことを念を押したが何もいわなかった。しばらくして大使館からアサヒグラフに載ったベネチュアの航空写真を使わせてもらいたいと申し出があった。

 外国人の航空撮影が禁じられているなどの法律などまったく問題にならない。ローマで撮影許可のことなどで口をきいて頂いた現地の大学の日本人教授が、規定や法律はいい加減なものですから、とにかく撮ってしまうこと。その後から何を言ってきても大丈夫ですと言っていたのがそのとおりであった。

 それから10年ほどたってフランスでヘリコプター撮影をしたが、このときには撮影制限など無くなっていた。

 日本国内では国土交通省がきめた飛行制限高度がある。筆者が航空撮影をはじめたころは、東京上空はたしか制限高度300メートル以上だったが、しばらくして1000メートル以上になったと記憶している。

 オーストラリア、ニュージーランドで航空撮影をおこなったとき、はじめシドニーでパイロットに高度はどのくらいまで下げられるのかと聞いたら、若いパイロットが怪訝な顔をして、1メートル以上、飛行機があがれるところまでと答えた。

 オーストラリアでは小型飛行機のチャーター代も安かったが、ヘリコプターも思いがけないくらい安かったのでヘリコプターで何回か撮影した。このときのパイロットはほんとうに地上1メートル以上、ぶつからなければ何メートルでもOKだった。航空撮影では通常、広角レンズを使用することはあまり無いのだが、このときはブロニカS2に広角50ミリレンズがもっぱら活躍した。

 海外でチャーターする小型機はほとんどが単発のセスナ機だった。セスナ機は窓を跳ね上げて開けることが出来たから、ほとんどの場合窓越しに撮ることはなかったが、双発機になると窓が開かず、窓ガラス越しに撮影しなければならなかった。

 国内では朝日新聞社の双発機は操縦席のよこに小さな窓を撮影用に開ける工夫がしてあったから、窓越しの撮影はしないで済んだが、初めて海外で双発機に乗ってオーストラリアのグレートバリアリーフの撮影をしたときは、洋上長距離の飛行であったので双発機しかチャーターが出来なかった。

 このときは離陸前にどの窓から撮影できるのか確かめて窓の外側と内側をクリーニングしてもらったが、ガラスなしに比べると精密描写に難点があった。窓と平行してカメラがあるときはまだ良いが斜めになるとピンぼけになってしまう。窓が開かないで苦労したのはアラスカでの双発機、グリーンランドでの大型機による撮影があった。

 海外での航空撮影取材は、何年かにわたって幾度か出かけたが、その時期使用したメインのカメラはフォーカルシャッターつきのブロニカS2であった。ブロニカは欠点の多いカメラであったが、ほかに120フィルムを使用しアイレベルファインダーのついた適当なカメラがなかった。

 以前にもブロニカのことは何度か書いてきたのだが、航空撮影のことを書いていて思い出したことがある。それはシャッター音のことだ。ブロニカはシャッターを切る音が大きい。音の大きさを計測したことはないが、おそらく筆者が使用したカメラのなかで一番大きい音だった。

 通常の撮影では欠点である大きなシャッター音が、パイロットに評判がよかった。セスナ機など小型機では窓を開けて撮影することが多かった。旋回して撮影するときシャッター音を聞いてパイロットが機体を引き起こす。カメラマンが声をかけなくても撮影が終わったことがわかるので、そのタイミングが取りやすいという理由だった。

写真説明
(1)ブロニカS2 ・レンズ・ゼンザノンf:2 .8 100ミリ ファインダーはブロニカが特別に製作した金属フレームファインダー。100ミリレンズまではこのフレームファインダーが便利だった。
(2)ブロニカS2・レンズ・ニコールf:4 200ミリ ファインダーはこれも特別製のペンタプリズムファインダー。S2ボディがシャッター音が一番大きかった。
(3)アサヒグラフ1970年・昭和45年1月23日号 ナポリ風船旅行が特集されている。写真はイタリー・ボンペイ近くのベスピオ火山の噴火口。