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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

カメラを盗まれた話/盗られそうになった話
 カメラを盗まれたことがある。10年ほど前、この連載の第25回に最初に買ったニコンFがメキシコで盗難に遭ったことを記した。このときはニコンFとの長い関わりを書いていた。

 盗まれたのはニコンF2台である。一台には200ミリレンズをつけ、もう一台には105ミリレンズをつけていた。カメラボディの一つは写真部の備品で、もう一台は自分で買ったニコンFであった。105ミリレンズはボディと一緒に買ったもの、200ミリレンズは写真部の備品を借りていたものだった。

 今の天皇ご夫妻が、皇太子皇太子妃時代にメキシコに親善旅行をされたときのことだった。1964年5月、東京オリンピックのあった年のことである。当時は皇太子妃美智子さんの人気が高く、美智子さん関連の記事は芸能・女性週刊誌だけでなく一般の雑誌でも競って掲載され、特集や増刊号もたくさん出た時代であった。アサヒグラフがご夫妻のメキシコ親善旅行を特集別冊で発行することになった。

 皇太子ご夫妻のメキシコシティ到着に、1週間ほど先行して現地に入り取材撮影をした。と同時に新聞の写真を電送するための準備をしていた、AP支局にたのんで電送をしてもらうことになったが、モノクロフィルムを現像して持ち込んだほうが時間的にも都合が良いことがわかった。

 現像と引き伸ばしの道具は一応もっていったのだが、現像をしていたら大事な親善行事の取材ができない。どう考えても自分で撮影したフィルムを現像する時間がない。どこか特急で現像を引き受けてくれる写真屋さんがないか探していたら、日系人で写真店をやっている人が見つかって、下町にある写真店に出かけた。

 この取材では在メキシコの日本人のかたがたが積極的にお手伝いをしてくれた。メキシコシティで開業しているお医者さんが取材のための車を貸してくれることになり、大学生の息子さんを運転手として使ってくださいと言われた。

 この車で取材途中、写真店に行った。現像の打ち合わせをしていている間に、車に置いてあったカメラが盗まれた。見事なもので車の外には同僚のアサヒグラフの記者Iさんと運転をしていた大学生君が車によりかかって話をしていたのに気がつかなかった。多分地面を這うようにして車に近づき車の下をくぐって反対側のドアを開け下から手を伸ばして盗ったのだろう。

 すぐ日本大使館を通して盗難届を出した。警察は外務省からの口添えもあり、「すぐ見つかりますよ」と気休めを言ってくれたが、日系人の人たちは明日あたり泥棒市にでているから、そこで買い戻したほうがよいと言ってくれた。しかしどちらでも発見できなかった。

 カメラが無くては、皇太子ご夫妻のメキシコ到着の行事など撮影が出来ない。手持ちのカメラで取材するより方法はない。持って行ったカメラはニコンF2台とニコンS一台これには35ミリレンズがついていた。

 カラー取材のためにブロニカのボディ3台とレンズ、50ミリ、75ミリ、100ミリ、135ミリ、200ミリ、300ミリと持って行っていた。3台もボディを持って行った理由は、ブロニカは正常に動いているときは良いカメラだが故障が多かった。急いでフィルム巻き上げると必ずと言ってよいくらい故障した。このときのゼンザブロニカはフォーカルシャッターつきの旧型である。

 ほとんどの撮影をブロニカでやることにした。ニコンSとブロニカ一台をモノクロ撮影用に、ブロニカ2台をカラー用に使うことにした。後になって考えてみると速射性のないブロニカを使ったことが結果的に良かった。

 理由は35ミリカメラで、機関銃とまでは言わないが連射する癖がついていたのが、一枚一枚慎重に瞬間を撮影するという撮影の原則に戻ることが出来たことだった。もう一つは35ミリカメラであると撮影枚数が増え、自分で現像をしおなければいけなかったが、120ブローニィフィルムならば2本まではAPが現像を引き受けてくれることになったからだ。これで現像問題は解決した。

 盗まれた日の夜は、カメラを盗られたことのショックと、どうなることかと悲壮な感じだった。愛用カメラを失った、なんとも言えない寂しさはいやなものだ。カメラを盗られたことのある経験者は皆同じだろう。あまり思い出したくない話だ。

 話は変わるが、昔、ローマの蚤の市で取材していたとき、ライフ誌のカメラマンであった三木淳さんに出会った。挨拶の後の立ち話、三木さんは「吉江君、イタリーではカメラに気をつけていないと盗難に会うよ、周りに集まってくる子供には気をつけなさい」といって日本の某著名写真家がナポリでカメラを盗られた話をしてくれた。

 「某写真家は一台は手に持ち、一台は肩からぶら下げて歩いていていた、カメラの重みを感じていたので安心していたら、ストラップをカミソリで切られ、カメラの代わりに小さい子供がぶら下がっていた」「切った後、すぐ重みが無くなるとばれるから子供にストラップを引っ張らせておくんだ。気がついたときにはカメラは遠くに行っている」「イタリーの泥棒テクニックは大したもんだよ、ボディが大丈夫だと思っているとレンズが危ない、人混みでレンズだけはずされて盗られるっていうのが結構あるんだ。某くんはライカの90ミリレンズを盗られた」

 この話を聞いたものだから、ナポリに行ったときは気をつけた。日本ではカメラを何台もぶら下げて歩くのがプロカメラマン風に見えるので、アマチュア写真家にも流行ったことがあるが、あれは盗ってくださいと刺激しているようなものだ。

 インドネシアでジャカルタからジョクジャカルタまで約500キロを各駅停車の鉄道旅行をしたことがある。特急列車はほぼ時刻表に合わせて走るが、各駅停車は出発時刻もいい加減だったし、目的地まで2日がかり、何時に到着するかなどわからない、日によっては途中で止まってしまうこともあると聞いていた。

 コモド島でオオトカゲを取材した帰り、ジャカルタでその話を聞いて取材することになった。コモド島は團伊久麿さんと同行した。今と違って交通機関がなくバリ島のデンバサールから100トンほどの小さな貨物船をチャーターして4日がかりで行った。

 当時のインドネシア政府はスハルト政権時代で海外からの取材に対して厳しかった。コモドの取材でも案内係をつけるという名目でジャカルタから監視係がついた。旅行をしている間にわかったことは案内役の若い男性は国軍の将校で、日本語は全くわからないと言っていたのに実際はかなり日本語の勉強をした人であった。

 一緒に旅行している間に、こちらに政治的なことを取材する意図などまったくないことがわかってくると、取材に徹底的に協力してくれた。オオトカゲの取材が終わってジャカルタに着いたあと、團さんと別れ各駅停車の鉄道に乗りたいと言うと、また同行を申し出てボディガードをやってくれた。

 ジャカルタ発のこの列車は貨物列車に横並びの木のベンチがついているような車両だった。案内役の彼はこの列車は大変に危険です。カメラなどひったくりに遭う危険があるから写真を撮るときはカメラ1台だけを出し、後はバックに入れてフタを閉め、肩からかけてしっかりと持ってくださいと言う。

 列車はジャカルタを早朝の予定より3時間遅れで出発した。三つ目くらいに停車したジャカルタ郊外の駅にしばらく停車する。車両に子供やら大人やらたくさん乗り込んできた。やがてゆっくり動き始めた車両の中でひったくりが始まった。

 子供がカメラに手をかけ盗ろうとする。しっかりと抱えると、別の半大人が足下に置いたカメラバックに手をかける。両足で挟んで確保する。どこからこんなに手が出てくるのだろうと思うほど手が伸びてくる。かぶっていた帽子が無くなった。かけている眼鏡に子供が手をかける。胸のポケットにさしていたボールペンを盗られた。

 やがて集団ひったくりの子供と大人たちは動いている列車から次々と飛び降りて行った。被害は帽子とボールペンだけだった。ひったくりというよりは集団強奪犯だ。案内役があらかじめ注意し、ガードしてくれなければ間違いなくカメラを盗られただろう。

 帰国してインドネシア鉄道各駅停車搭乗ルポを写真と一緒に編集長に提出したら、ひったくりの写真があったら素晴らしいのにねと言われた。写真に写っていたのは列車から飛び降りて逃げる彼らの後ろ姿だけだった。

 このごろはカメラを盗まれたという話をあまり聞かない。カメラが財産でなくなってきたのだろう。若者はカメラを買ったとき保険をかけているから盗られても大丈夫ですと簡単に言う時代だ。

写真説明
(1)1964年5月25日発行のアサヒグラフ臨時増刊『皇太子ご夫妻メキシコ訪問記念号』
(2)今の天皇陛下は大変なカメラ愛好家だ。このメキシコ旅行中もニコンSで写真を撮られていた。写真はピラミッド遺跡だスナップされる皇太子さま。