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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

エルマノックス
 ザロモンと言っても、今ではこの写真家のことはほとんど誰もが知らない。戦後有名になったアメリカの写真家たちユージンスミス、アイゼンシュタットなどと同時代の有名写真家であったが、1944年に亡くなって戦後の写真界では活躍しなかったので名前が忘れられてしまった。

 しかし彼はキャンデットフォトの創始者として記憶される写真家である。キャンデットフォトと言う言葉も最近はあまり使わなくなったが、キャンデットは 率直な,正直な、遠慮のない、ポーズをとらない,ありのままの意味があって戦後しばらくして日本の写真界ではドキュメント写真の手法としてこの言葉が使われた。

 Salomon Erich(1886〜1944) エーリッヒ・ザロモンはドイツの写真家である。法学博士の学位をもっていた。彼はベルリン大学の在学中に司法試験がとおった秀才と言われている。

 ベルリンのウルシュタインは出版社であり通信社であった今で言う総合情報産業か。ザロモンは大学を終えて法曹関係や大学など招きをことわって、ウルシュタインの広告関係の仕事に就いたという説と法律関係の記者としてつとめたという説がある。

 彼が写真を始めた動機についても諸説あって謎に包まれている。ウルシュタイン社につとめるようになってから写真をはじめた。あるいは彼は大学時代から機械に興味があってカメラも持っていたともいわれる。ウルシュタインにはグラフジャーナリズムの始まりと言われる『ベルリーナ・イルストリェルテ・ツライトウンク』(日刊ベルリン絵入り新聞)を発行していたから、写真に対してかなり関心があったことは想像できる。

 ウルシュタイン社に入ってしばらくして、彼はあるカメラと出会うことになる。エルマノックスである。エルマノックスは『あなたに見えるものは何でも写せます』というキャッチフレーズで発売された。エルマノックスはドイツカメラ工業の高度の技術のもとに、F2の明るさをもつ、エルマネン社のエルノスター・レンズが開発されたことによって売り出されたのだ。

 彼がウルシュタインに入ったのがいつであったかはっきりしない。大学を出たのが25才で計算すると、1911年にはすでに入社していることになる。大学院にはいって法律の勉強を続け教授コースに進んでいたとも言われているから、30才まで大学にいたとすれば1916年入社になる。

 いずれにしても彼がエルマノックスを買った時期1924年にはすでに、ウルシュタインでは法曹記者として活躍していたと思われる。エルマノックスを手に入れた彼は、このカメラを徹底的にマスターする。ウルシュタイン社にいたカメラマン、写真家たちが、彼の写真勉強に手を貸したのかも知れない。

 エルマノックスは35ミリフィルムを使用するカメラではない。35ミリフィルムはライカからだ。エルマノックスは4.5センチ×6センチのアトム判フィルムを使う。レンズはエルノスターF2 100ミリ・シャッター20分の1〜1000分の1秒。シャッターは縦に走るフォーカルブレーンだ。

 『あなたに見えるものは何でも写せます』という新聞広告を掲載したエルマノックスは、フラッシュなしの室内撮影が出来ると言って売り出された。フラッシュと言ってもフラッシュバルブではない。この時代はまだマグネシュームを燃焼発光させるフラッシュである。

 しかしフラッシュなしで写せますといっても、このカメラを使いこなすのは難しい。F2で100ミリと言うことは、もしレンズを絞り開放で撮影すると、被写界深度が大変に浅く距離計のないカメラではあまりうまくピント(焦点)が合わない。

 当時のフィルムの感度は推定するとISO20くらいと思われる。室内は現在のように蛍光灯があるわけでないから相当に暗い。とするとレンズ絞り開放F2で4分の1か8分の1秒のスローシャッターでしか写せない。ところがこのカメラには 20分の1〜1000分の1秒とTシャッターしかついていない。20分の1秒以上のスローシャッター露出をするときにはタイムシャッターにセットし、シャッターボタンを押し、そうして指を離すという自分の感でスローシャッターを切らなければならないことになる。

 レンズが先行してボディが後から取り付けられたような不安定なこのカメラは手持ちでスローシャッターを切るような冒険はまず不可能である。このカメラの寸法は横幅10.3cm高さ8.3cm奥行き9.4cmである。

 ザロモンはこのカメラを使って、まず法廷内にカメラを持ち込んで裁判法廷の写真を撮った。写るか写らないかわからずにカメラを持ち込むはずはない。当然何度も同じ条件でそ撮影をリハーサルしたにちがいない。

 ザロモンはエルマノックスカメラを使うとき、どうやら1脚を使ったようである。1脚に取り付けたエルマノックスを構えているザロモンの写真があるから多分そんな方法で撮影したと思われる。彼のことを書いたものに彼は気づかれないため、山高帽の中に小型カメラを隠して法廷や会議場に入った。と書いているものがあるが、エルマノックスでは大きくてとても帽子の中に隠すことは出来ないだろう。

 ザロモンは法廷でも国際会議場でも、フラッシュなしでは写真は写らないと思っていた人々の心理的盲点を利用したと思われる。

 フリッツ・グルーバーの『今世紀の偉大な写真家たち』間宮達男訳には「ザロモンは1928年にウルシュタイン社の『ベルリーナ・イルストリェルテ・ツライトウンク』でデヴューした。彼は国際会議場やパーティ、裁判所内部の写真などで政治や外交関係の著名人の生の姿を取材し、高く評価された」と書かれている。

 これが写真家としての最初のデビューであった。同書には「ザロモンはつねに人目にたたないように振る舞い、ときには普段着で、ときにはフロックコート姿で、つまり必用ならばいつもその場所に適つた服装をして、事件の焦点にたった」とある。

 第1次世界大戦後、しばらくして国際連盟が出来たり特にヨーロッパは国際会議の時代に入っていた。ザロモンは国際法に通じていたので国際会議に出向き取材した。そうして写真の取材も平行して行った。

 「彼の仕事は、歴史的に重みのある写真として実ったから、ヨーロッパの外交官、政治家たちは彼の知己になろうとし、彼もまた彼らの仲間入りをして交流につとめた。フランスの外相ブリアンは、ある会議の前に、『ザロモン博士はどこにいるかね、もしも彼が現れないと、世間はわれわれのこの会合は、さして重要な会合ではないと言い触らすに違いない』と言った。

 ザロモン博士と呼ばれ、ザロモンは外交界にいて人気者になり、さらにスターになったと思われる。1928年ベルリン絵入り新聞でデビューした彼の法廷写真、あるいは国際会議における各国首脳や外交官たちの写真は驚嘆の声を持って迎えられた。1931年写真集『気付かれない(無防備な)瞬間の有名人たち』を出版。このスナップ的手法によるポーズをとらない有名人たちの写真はキャンデットピクチュアの創始者として彼自身を有名人にしたのである。

 このことが悲劇をもたらすことになった。ナチスが台頭しヒットラーの独裁政治がはじまり。ユダヤ人に対する弾圧がはじまる。ウルシュタインにいたユダヤ系の優秀な編集者や写真家たちはナチスから逃げアメリカに亡命するものが多かった。ザロモンはナチス政権の中枢にもたくさんの知人がいた。このことが自分だけは大丈夫みたいな過ちを犯すことになる。

 何年に収容されたのかは今では不明なのだが、第2次大戦中、ナチスに捕らえられ、ユダヤ人のゲットーに婦人とともに収容される。最後に送られたのはアウシュビッツとも言われるが、ナチス崩壊の迫った1944年強制収容所のガス室で殺された。

 エルマノックスカメラはザロモンによって使われ、非演出のドキュメント世界を写しだしたカメラ第1号となる。ライカ愛好家たちはなぜザロモンはライカのような優秀カメラを使わなかったのだろうという疑問が出すのだが、ザロモンはF2というレンズの明るさにこだわったのだと思われる。ライカA型が発売されたのが1925年、B型が1926年、C型が1930年いずれもF3.5・50ミリ付きで、1930年になって初めてF2.5のヘクトールレンズがついた。

 1965年に発行された重森弘庵著「世界の写真家」のザロモンについての項を見ると、スナップ手法を使いドキュメント写真を始め、連動式レンジファインダーつきのカメラつまりライカを使ったように書いてあるが、これは間違いだ。

 エルネマン社から発売されたエルマノックスははじめエルノスター F2 100ミリのレンズがついて売り出されたが、発売後まもなくF1.8 100ミリレンズに変わった。ザロモンが使ったのは初期型のF2レンズと思われる。数年して一眼レフタイプのエルマノックスが発売された。

 筆者はエルマノックスを30年以上前にペンタックスギャラリーで見たが、このカメラに触れる機会はなかった。インターネットで調べてみると、このカメラを現在、個人的に所有している愛好家がいるようだが。あまり見る機会はない。

 もう何十年も前のことだが、中古カメラ市場では35ミリ2眼レフカメラ、コンタフレックスとエルマノックスカメラが高額カメラの双璧と聞いたことがある。

写真説明
(1) この写真はレンズの焦点調節用ヘリコイドが最短距離まで伸ばされていて、ヘリコイドのネジ山がすっかりあらわれている。
(2) ヘリコイドが無限インフの位置まで戻されている。
(3) エルマノックスとエリッヒ・ザロモン博士